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2022年10月15日土曜日

文化の発展とともに破壊欲動も進歩する!


 フロイトは1933年ーー実際は1932年末ーーにアインシュタインとの往復書簡の最後でこう言っている。


文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる[Alles, was die Kulturentwicklung fördert, arbeitet auch gegen den Krieg. ](フロイト『ヒトはなぜ戦争をするのか? 』1933年)


この『なぜ戦争をするのか? 』は欲動理論に触れつつの叙述がなされているんだが、表向きの、モラリストの顔のフロイトが言っていると記したのは、何よりもまず1926年に次のように言っているからだ。



欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう。

Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb.(フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)



リアルな欲動要求は自己破壊欲動としてのマゾヒズム、とある。そして1933年の講義では、これが死の欲動だとしている。


マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。

Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい開示だろうか!

es sieht wirklich so aus, als müßten wir anderes und andere zerstören, um uns nicht selbst zu zerstören, um uns vor der Tendenz zur Selbstdestruktion zu bewahren. Gewiß eine traurige Eröffnung für den Ethiker! 〔・・・〕

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. 

(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


ーーここには、アンチモラリストとしての真のフロイトがいる。


そしてこのマゾヒズムがラカンの現実界の享楽であり、死の欲動だ。


享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。…マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である[La pulsion de mort c'est le Réel …c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)



冒頭のアインシュタイン書簡のフロイトは、こういう言い方が許されるのなら、十分にはフロイディアンじゃないんだ。フロイトは既に1905年に、《無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes]》(フロイト『性理論三篇』第一篇Anatomische Überschreitungen , 1905年)とも言っており、さらに1937年にはこのリビドー固着の残滓は消えないとしつつ、原始時代のドラゴン[Drachen der Urzeit]という表現まで使っている。


常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある[Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben.]〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓[Reste der früheren Libidofixierungen]が存続しうる〔・・・〕

 一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン[Drachen der Urzeit]は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)


ジャック=アラン・ミレールが《享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ]》(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)と言っているのはこの文脈のなかでだ。フロイト自身、1915年の『欲動とその運命』では、欲動の対象 [Das Objekt des Triebes] は幼児期に起こる固着[Fixierung]だと言っている。


要するに欲動の固着にかかわる死の欲動は生涯消えないんだ。文化が進歩したって人はみな死の欲動を抱え続けている。これがフロイトでありラカンだ。


あの書簡には他にも突っ込みどころがふんだんにあり、例えばニーチェが読んだら強い批判するんじゃないかね。《私の我慢ならない者ども[Meine Unmöglichen]。 セネカ、すなわち、徳の闘牛士[Toreador der Tugend]。 …シラー、すなわち、ゼッキンゲンの道徳のラッパ手[Moral-Trompeter von Säckingen]。 …カント、すなわち、英知的知性としての偽善的口調 [cant als intelligibler Charakter]……》(「或る反時代的な人間の遊撃」1888年)とか言ってさ。


「文化の発展とともに悪徳も肥大する」、これが人生をよく見た者の「正しい」洞察だね、


ゲーテは、美徳とともに、欠点も育まれると正しく言った。また、誰もが知っているように、肥大した美徳は、ーー私には、現代の歴史的意味と思われるがーー肥大した悪徳と同様に、人々の破滅になりかねない。

Goethe mit gutem Rechte gesagt hat, daß wir mit unseren Tugenden zugleich auch unsere Fehler anbauen, und wenn, wie jedermann weiß, eine hypertrophische Tugend – wie sie mir der historische Sinn unserer Zeit zu sein scheint – so gut zum Verderben eines Volkes werden kann wie ein hypertrophisches Laster: 

(ニーチェ『反時代的考察』第二部「序文」)



ここでクンデラ=フローベールを引用したっていい、「文化の進歩とともに愚かさも進歩する!」と。


フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに愚かさも進歩する! ということです。Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !


フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、先入見の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの先入見のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの先入見はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。(クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)



この今を観察したって、フロイト曰くの《文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる》どころじゃないよ、「文化の発展とともに破壊欲動も進歩する!」に他ならない。


それは愚かさ、あるいは知的退行も同様。


私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収)

怠惰な精神は規格化を以て科学化とする。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



21世紀は知的退行の時代さ。実に耐え難い世紀だ。


耐え難いのはもはや重大な不正などではなく、日々の凡庸さが恒久的に続くことだ。L'intolérable n'est plus une injustice majeure, mais l'état permanent d'une banalité quotidienne. (ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』1985年)