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2022年5月14日土曜日

美の起源は痛みのレミニサンス


まずこの二つがセットでいいんじゃないかね、美の起源は。


おそらく痛み[douleur]はただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。

(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄金のアリア』)


美には傷以外の起源はない[Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure]。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』)




痛みは傷みだからな


これでは物足りない方のために、こう付け加えてもよい。


私の享楽あるいは私の痛み[ma jouissance ou ma douleur](ロラン・バルト『明るい部屋』第11章、1980年)

疑いもなく享楽があるのは、痛みが現れる始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)

傷つけられた享楽 [jouissance blessée](Colette Soler, Les affects lacaniens 2011)


以上、決定。享楽[jouissance] =痛み[douleur]=傷み[blessure]



とはいえプルーストを外すわけいかないね、やっぱり。冒頭のシュネデールはおそらくプルーストを骨までしゃぶるように読んでるからな


記憶の混濁 [troubles de la mémoire ]には心の間歇 [les intermittences du cœur] がつながっている。われわれの内的な機能の所産のすべて、すなわち過去のよろこびとか痛みとかのすべて [tous nos biens intérieurs, nos joies passées, toutes nos douleurs]が、いつまでも長くわれわれのなかに所有されているかのように思われるとすれば、それはわれわれの身体の存在 [l'existence de notre corps]のためであろう、身体はわれわれの霊性が封じこまれている瓶[un vase où notre spiritualité serait enclose]のように思われているからだ。(プルースト「ソドムとゴモラ」)


昔スワンが、自分の愛されていた日々のことを、比較的無関心に語りえたのは、その語り口のかげに、愛されていた日々とはべつのものを見ていたからであること、そしてヴァントゥイユの小楽節が突然彼に痛みをひきおこした[la douleur subite que lui avait causée la petite phrase de Vinteuil] のは、愛されていた日々そのものをかつて彼が感じたままによみがえらせたからであることを、私ははっきりと思いだしながら、不揃いなタイルの感覚、ナプキンのかたさ、マドレーヌの味が私に呼びおこしたものは、私がしばしば型にはまった一様な記憶のたすけで、ヴェネチアから、バルベックから、コンブレーから思いだそうと求めていたものとは、なんの関係もないことを、はっきりと理解するのであった。(プルースト「見出された時」)



要するに美の起源は痛みのレミニサンスだ。それ以外にはない。


私は作品の最後の巻ーーまだ刊行されていないーーで、無意識の再起の上に私の全芸術論をすえる[je trouve à ces ressouvenirs inconscients sur lesquels j'asseois, dans le dernier volume non encore publié de mon œuvre, toute ma théorie de l'art, ](Marcel Proust, « À propos du “ style ” de Flaubert » , 1er janvier 1920)





2022年5月13日金曜日

ネオコン信者たちによるイジメ

 ははあ、J SATOさん、さっそく苛められてるんだなあ、この今になっても。



大本営発表信者たちの「陰謀論」レッテル貼りってのはいつまで続くんだろうねえ、キミらこそネオコンの「沈黙の陰謀」にコロリとやられちまってる可能性を微塵も疑う力がない精神ってのはなあ、どうも生き辛い日本言論界だなあ、こういう連中がいまだウヨウヨしてんだから。



8年前に侵略されて以来しっかり8年間更なる侵略に備えたという話が、真逆の解釈になるという、陰謀論の恐ろしさ」ってマガオで言ってんだなあ、このひと。ま、しょうがないか、国際政治学者連中がそもそもそうなんだから➡︎国際政治学者ウンコちゃんへのお願い


とはいえローマ教皇でさえ、ウクライナ戦争の原因は《ロシアの玄関でNATOが吠え続けたこと[l’abbaiare della Nato alla porta della Russia]》(2022年5月4日)と言うようになったんだからさ、信仰で固くなった頭にもせめて2割ぐらいはこういう見解を入れ込む余地はないもんかね・・・


ナインダロウヨ、ワカッテルサ、信者とはそういうもんさ



信念は牢獄である[Überzeugungen sind Gefängnisse]。それは十分遠くを見ることがない、それはおのれの足下を見おろすことがない。しかし価値と無価値に関して見解をのべうるためには、五百の信念をおのれの足下に見おろされなければならない、 ーーおのれの背後にだ・・・〔・・・〕


信念の人は信念のうちにおのれの脊椎をもっている。多くの事物を見ないということ、公平である点は一点もないということ、徹底的に党派的であるということ[Partei sein durch und durch]、すべての価値において融通がきかない光学[eine strenge und notwendige Optik in allen Werten] をしかもっていないということ。このことのみが、そうした種類の人間が総じて生きながらえていることの条件である。〔・・・〕


狂信家は絵のごとく美しい、人間どもは、根拠に耳をかたむけるより身振りを眺めることを喜ぶものである[die Menschheit sieht Gebärden lieber, als daß sie Gründe hört...](ニーチェ『反キリスト者』第54節、1888年)




痛み[douleur]と苦痛[souffrance]の相違

 


1969年のラカンは享楽の根はマゾヒズムだと言っている。


フロイトは書いている、「享楽はその根にマゾヒズムがある」と。[FREUD écrit : « La jouissance est masochiste dans son fond »](ラカン, S16, 15 Janvier 1969)


これはフロイトの痛みのなかの快[Schmerzlust]を享楽としたのである。


痛みのなかの快はマゾヒズムの根である[Masochismus, die Schmerzlust, liegt …zugrunde](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)


ところで1966年のラカンは享楽は痛み[la douleur]の水準にあると言っている一方で、享楽は苦痛のなかの快[ plaisir dans la souffrance]ではないと言っている。

疑いもなく、痛みが現れはじめる水準に享楽はある[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d’apparaître la douleur](Lacan, LA PLACE DE LA PSYCHANALYSE DANS LA MÉDECINE, 1966)

マゾヒストは決して次のことによって定義されるものではない、すなわち苦痛や苦痛のなかの快、快のための苦痛ではない[le masochiste ne peut aucunement être défini : ni souffrir, à avoir du plaisir dans la souffrance, ni souffrir pour le plaisir.]

マゾヒストを唯一明示しうるのは、対象aの機能を持ち出す以外ない。それがまったき本質である。私は信じている、重要なのはかつて原ナルシシズムのため確保されていた場処に目星をつけなければならないと。On ne peut articuler le masochiste qu'à faire entrer…que la fonction de l'objet(a) en particulier y est absolument essentielle. Je crois que l'important  de ce que…peut être repéré à la place anciennement réservée au narcissisme primaire. (Lacan, S13, 22 juin 1966)


上にあるようにマゾヒズムを対象aと同時に原ナルシシズムとも結びつけている。


原ナルシシズムとは何かについては、「傷つけられていない愛=傷つけられていない享楽」に記したが、ここでは簡単に二文だけ抜き出そう。


子宮内生活は原ナルシシズムの原像である[la vie intra-utérine serait le prototype du narcissisme primaire ](Jean Cottraux, Tous narcissiques, 2017)

子宮内生活は、まったき享楽の原像である。原ナルシシズムはその始まりにおいて、自我がエスから分化されていない原状態として特徴付けられる。

La vie intra-utérine est l'archétype de la jouissance parfaite. Le narcissisme primaire est, dans ses débuts, caractérisé par un état anobjectal au cours duquel le moi ne s'est pas encore différencié du ça.  (Pierre Dessuant, Le narcissisme primaire, 2007)


マゾヒズムが対象aの機能にかかわるというときの対象aとは、何よりも喪われた対象=享楽の対象である。


喪われた対象aの形態…永遠に喪われている対象の周りを循環すること自体が対象aの起源である[la forme de la fonction de l'objet perdu (a), …l'origine…il est à contourner cet objet éternellement manquant. ](Lacan, S11, 13 Mai 1964)

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


そして究極の喪われた対象は胎盤とされている。


例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象の象徴である[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


この意味で「原マゾヒズム=原ナルシシズム」という享楽の究極の対象は喪われた母胎ということになる。


人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, […] eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)



………………


なおラカンが、享楽は痛み[la douleur]の水準にあり、享楽は苦痛のなかの快[ plaisir dans la souffrance]ではないと言っていることに関する痛み[la douleur]と苦痛[la souffrance]についてはミシェル・シュネデールの文を掲げておこう。


痛みは明らかに苦痛と対立する。痛みは、消滅の・喪われた言語の、異者性・親密性・遠くにあるものの顔あるいは仮面である[la douleur, ici nettement opposée à la souffrance. Douleur qui prend les visages, ou les masques, de la disparition, du langage perdu, de l'étrangeté, de l'intime, des lointains.](ミシェル・シュネデール『シューマン 黄金のアリア』Michel Schneider La tombée du jour : Schumann 2005年)


痛みとは異者が回帰することである。異者はラカンにとって対象aであり、不気味ななかの親密である。➡︎不気味なものの永遠回帰



最も近くにあるものは最も異者である。すなわち近接した要素は無限の距離にある[le plus proche soit le plus étranger ; que l’élément contigu soit à une infinie distance. ]〔・・・〕


痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦痛だけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。


この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。


音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)



フロイトラカンにおいて不気味な異者は究極的に母胎だが、その究極性を外せば、不気味な異者の回帰とはシュネデールの言う、《おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもない》であるだろう。


初期フロイトは次のように言った、《異者は、心的痛みを呼び起こし、レミニサンスを引き起こす[Fremdkörper…erinnerter psychischer Schmerz …leide an Reminiszenzen.]》(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)。


少なくとも冒頭の《痛みのなかの快はマゾヒズムの根である[Masochismus, die Schmerzlust, liegt …zugrunde]》(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年、摘要)における痛み[Schmerz]はフロイトにおいて多義的な含意があることに注意しなければならない。


現代主流ラカン派ではラカンの享楽の表向きの定義ーー《現実界の享楽はマゾヒズムから構成されている[Jouissance du réel comporte le masochisme,]》(Lacan, S23, 10 Février 1976)ーーに反して固着概念が前面に出ている。《享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours.》 (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)。


これはおそらくマゾヒズム概念の捉え直しにも関わる、《無意識的なリビドーの固着は…性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido  …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes]》(フロイト『性理論三篇』第一篇, 1905年)。そして固着とは異者に直接に関係するのである、《固着に伴い原抑圧がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)




さらに二文引いておこう。


ところであなたはどう思うだろうか、私のすべての新しいヒステリー 前史理論はすでに知られており、数世紀前だが何百回も出版されているという見解について。あなたは覚えているだろうか、私がいつも言っていたことを。中世の理論、強迫観念の霊的法廷は、私たちの異者理論[Fremdkörpertheorie]と意識の分裂と同一だと。

Was sagst Du übrigens zu der Bemerkung, daß meine ganze neue Hysterie-Ur-geschichte bereits bekannt und hundertfach publiziert ist, allerdings vor mehreren Jahrhunderten? Erinnerst Du Dich, daß ich immer gesagt, die Theorie des Mittelalters und der geistlichen Gerichte von der Besessenheit sei identisch mit unserer Fremdkörpertheorie und Spaltung des Bewußtseins?  (フロイト、フリース宛書簡、Freud: Brief an Wilhelm Fließ vom 17 Januar 1897)


疎外(異者分離 Entfremdungen)は注目すべき現象である。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察される。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかである[Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, …Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland] ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)






2022年5月12日木曜日

宇戦争は代理戦争であることを告白(米国防総省カービー報道官)

 いやあ、このJ SATOさんのツイート、実に勉強になるね、次から次へと。




そうか、そうか。米国防総省カービー報道官が宇国の戦争は代理戦争であることを告白かあ。


StarBoy @StarboyHK 9:29 PM · May 11, 2022


 So the US admits that for the past eight years, America and its allies have planned and prepared Ukraine for war all along... 


 The US began to supply weapons to Ukraine long before the start of the war - Pentagon spokesman John Kirby on Fox News


https://twitter.com/StarboyHK/status/1524396268683816961



このカービーさんとってもおバカそうな声してんな、報道官はこういう人がなってドンドン暴露すべきじゃないかね。


もっともローマ教皇でさえ、ウクライナ戦争の原因は《ロシアの玄関でNATOが吠え続けたこと[l’abbaiare della Nato alla porta della Russia]》(2022年5月4日)と言ったわけで、いまさら「暴露」というのは大袈裟かもしれない。



で、小泉悠やら東野篤子やらはまだ沈没してないのかね。いつまでもたせるつもりだろ、日本のマスコミってのはああいう連中を? ま、でももともとああいうもんかね、マスコミだけでなく日本言論界ってのは。


ボクの恋人の新大統領報道官カリーヌ・ジーン・ピエール (Karine Jean-Pierre)は頭がよさそうであるにしろ、キットもっと大きな暴露をやってくれるさ。それをとっても期待してるよ







オメデトウ、日本!米ネオコンのハエある奴隷の地位に選ばれて

 


ははあ、そうか、そうか。次期東アジアのウクライナに指名を預かったか。米ネオコン文化の華ランド研究所が言ってんだな。

オメデトウ、日本!米ネオコンのハエある奴隷の地位に選ばれて。


Ground-Based Intermediate-Range Missiles in the Indo-Pacific

Assessing the Positions of U.S. Allies


JEFFREY W. HORNUNG  May 6, 2022 PDF

• Because of Japan’s willingness to strengthen its alliance with the United States and pursue efforts to bolster its own defense capabilities vis-à-vis China, Japan is the regional ally that appears most likely to host U.S. GBIRMs. That possibility, however, remains low, heavily caveated by the challenge of accepting any increase in U.S. presence and deploying weapons that are explicitly offensive in nature.


• A U.S. strategy that relies heavily on an ally agreeing to permanently host GBIRMs during peacetime would face serious risks of failure due to an inability to find a willing partner.


RECOMMENDATIONS


The report also examines four possible alternatives to permanent basing of these missile systems on the territories of U.S. allies: (1) U.S. co-development of GBIRMs with and/or sales of GBIRMs to an ally for it to command and control as its own, (2) U.S. deployment of GBIRMs to an allied territory in a crisis situation, (3) peacetime rotational deployment, and (4) deployment on Guam or one of the Compact of Free Association states. Because each of these alternatives faces drawbacks, the report recommends a variation of the first alternative—should the United States continue to pursue GBIRMs for this region.


Specifically, instead of a focus on deployment of U.S. GBIRMs, the option most likely to succeed would be to help Japan in its efforts to develop and deploy an arsenal of ground-based, anti-ship standoff missile capabilities. Although this option is not a U.S. GBIRM, it should be seen as a first step in a longer-term U.S. strategy in which, over time, the United States might be able to encourage Japan to procure, either on its own or together with the United States, anti-ship cruise missiles with longer ranges. Although these missiles still would not be capable of deep strikes into China, if they were deployed on Japan’s southwestern islands or even Kyūshū, they would be able to cover ship movements in the Taiwan Strait, the East China Sea, and some of China’s east coast, thereby extending the range at which Chinese assets could be held at war-planning risk and potentially contributing to a maritime interdiction mission in the Taiwan Strait.



日本のみなさん、さらなる応援をしましょう、岸田文雄なる米ポチを!


岸田政権の対ロ制裁措置に対するロシアの対日対抗措置
-EUの対ロシア・アプローチの間違いを「他山の石」にー

浅井基文 3/23/2022

ロシアのウクライナに対する軍事侵攻に対して、西側メディア(及びそれを受け売りする能しかない日本メディア)の「ロシア=侵略者、ウクライナ=犠牲者」宣伝に洗脳された日本社会が「ウクライナ支援」一色に染まる中、バイデン政権に忠誠を尽くすこと(G7の一員として行動すること)しか念頭にない岸田政権も負けじとばかり、ロシア政府関係者の資産凍結制裁措置(2月27日)、一部のロシア銀行に対するSWIFTからの締め出し(2月28日)、ロシアに対する最恵国待遇取り消し(3月12日、正式決定は16日)、ロシア外務省のザハロヴァ報道官、8名のロシア国防省次官を含む15人の個人に対する追加制裁(3月18日)等々を発動しています。〔・・・〕安倍晋三氏が「トランプのポチ」だったとしたら、岸田文雄首相は「バイデンのポチ」そのものです。




女主人の沈黙の声に耳を塞ぐための音楽

 


夜と音楽。--恐怖の器官[Organ der Furcht] としての耳は、夜においてのみ、暗い森や洞穴の薄明のなかでのみ、畏怖の時代の、すなわちこれまで存在した中で最も長かった人間の時代の生活様式に応じて、現在見られるように豊かな発展することが可能だった。光のなかでは、耳はそれほど必要ではない。それゆえに、夜と薄明の芸術としての音楽の性格がある[der Charakter der Musik, als einer Kunst der Nacht und Halbnacht]。 (ニーチェ『曙光』250番、1881年)




君たちのまがいの音楽がよくわかるよ。


芸術家はいまや俳優となり、その芸術はますます虚言の才能として発達してゆく。…芸術の俳優的なもののうちへのこの総体的変化は、まさにまぎれもなく生理学的退化の一つの現われ(もっと精確には、ヒステリー症状の一形式)である。〔・・・〕


わが友らよ、私たちが理想に本気であるなら、私たちは誹謗しよう、私たちは旋律を誹謗しよう![verleumden wir die Melodie!]  美しい旋律にもまして危険なものは何ひとつとしてない![Nichts ist gefährlicher als eine schöne Melodie! ] それにもまして確実に趣味を台なしにするものは何ひとつとしてない![Nichts verdirbt sicherer den Geschmack! ](ニーチェ『ワーグナーの場合』トリノ書簡、1888年)




なぜ人は喋りまくるのか、なぜ人は音楽を聴くのか? 

ーー沈黙の声に耳を塞ぐためである

われわれが喋りまくるなら、われわれが会議をするなら、われわれが噂話をするなら、われわれが歌い歌い手を聴くなら、われわれが音楽を作って聴くなら、ラカンのテーゼが含意するのは、対象aとしての声を黙らせるためである[Si nous parlons autant, si nous faisons nos colloques, si nous bavardons, si nous chantons et si nous écoutons les chanteurs, si nous faisons de la musique et si nous en écoutons, la thèse de Lacan comporte que c'est pour faire taire ce qui mérite de s'appeler la voix comme objet petit a](J.-A. MILLER, Jacques Lacan et la voix 、1988)


超自我の声の穴なる深淵はたしかに恐ろしい、

だがいつまで避けているつもりだ?


超自我のあなたを遮る命令の形態は、声としての対象aの形態にて現れる[la forme des impératifs interrompus du Surmoi …apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix. ](ラカン, S10, 19 Juin 1963)

私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)



人はみな病気である、なぜなら超自我の死の欲動を抱えているから。


私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから[j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde](Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

死の欲動は超自我の欲動である[la pulsion de mort ..., c'est la pulsion du surmoi]  (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000)





超自我は自己破壊欲動としての死の欲動なのだから。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



超自我は女なる神だ、《女が欲することは神も欲する[Ce que femme veut, Dieu le veut]》(ミュッセ、Le Fils du Titien, 1838)



一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.] (Lacan, S17, 18 Février 1970)

一般的に神と呼ばれるものがある。だが精神分析が明らかにしたのは、神とは単に女なるものだということである[C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile  que c'est tout simplement « La femme ».  ](Lacan, S23, 16 Mars 1976)





最も静かな時刻には常に女主人のエスの声が聞こえてくる、

最も静かな時刻を知らない者だけがそれを知らない


何事がわたしに起こったのか。だれがわたしに命令するのか。ーーああ、わたしの女主人が怒って、それをわたしに要求するのだ。彼女がわたしに言ったのだ。彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。


きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻[meine stillste Stunde]がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名[Name meiner furchtbaren Herrin]だ。


それからの次第はこうであるーーわたしは君たちに一切を話さなければならない、君たちの心が、突然に去ってゆく者にたいして冷酷になることがないように。

君たちは、眠りに落ちようとしている者を襲う驚愕を知っているか。ーー


足の指の先までかれは驚得する。自分の身の下の大地が沈み、夢がはじまるのだ。


このことをわたしは君たちに比喩として言うのだ。きのう、最も静かな時刻に、わたしの足もとの地が沈んだ、夢がはじまった。


針が時を刻んで動いた。わたしの生の時計が息をした。ーーいままでにこのような静けさにとりかこまれたことはない。それゆえわたしの心臓は驚得したのだ。


そのとき、声なくしてわたしに語るものがあった。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ」ーー

Dann sprach es ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra?` -


このささやきを聞いたとき、わたしは驚鍔の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。


と、重ねて、声なくして語られることばをわたしは聞いた。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない」ーー


Da sprach es abermals ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht!` -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)





お前には聞こえぬか、あの深い真夜中の声が?


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年)




お前にはほんとうに聞こえぬのか、あの不気味な沈黙の声が?


不気味なものは人間の実存[Dasein]であり、それは意味もたず黙っている[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年)

死の欲動は本源的に沈黙しているという印象は避けがたい[müssen wir den Eindruck gewinnen, daß die Todestriebe im wesentlichen stumm sind ](フロイト『自我とエス』第4章、1923年)



あの不気味な異者の蠢きの声が?


不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

自我はエスの組織化された部分である。ふつう抑圧された欲動蠢動は分離されたままである[ das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es ...in der Regel bleibt die zu verdrängende Triebregung isoliert.] 〔・・・〕

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、異者身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)




聞こえぬわけがあるまい、あの母なる超自我の穴の声が?


モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976)

大文字の母は、その基底において、「原リアルの名」であり、「原穴の名 」である[Mère, au fond c’est le nom du premier réel, …c’est le nom du premier trou] (Colette Soler, Humanisation ? ,2014)






母なる超自我[surmoi maternel]は原超自我[surmoi primordial]である。

(Lacan, S5, 02 Juillet 1958、摘要)

心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく想定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)



…………………




境界表象 S(Ⱥ)[boundary signifier [Grenzvorstellung ]: S(Ⱥ)](PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)

大他者のなかの穴の表象をS (Ⱥ) と記す[(le) signifiant de ce trou dans l'Autre, qui s'écrit S (Ⱥ)  ](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 15/03/2006)


S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

固着はS(Ⱥ) に関わる [Fixation… concerns S(Ⱥ)]。(PAUL VERHAEGHE, DOES THE WOMAN EXIST?, 1997)

言わなければならない、S(Ⱥ)の代わりに対象aを代替しうると[il faut dire … à substituer l'objet petit a au signifiant de l'Autre barré[S(Ⱥ)](J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)


対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)

母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )


異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である[corps étranger,…le (a) dont il s'agit,…absolument étranger ](Lacan, S10, 30 Janvier 1963)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


………………



常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる[Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

異者身体は原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)


母へのエロス的固着の残滓は、しばしば母への過剰な依存形式として居残る。[Als Rest der erotischen Fixierung an die Mutter stellt sich oft eine übergrosse Abhängigkeit von ihr her](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)

すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年)






2022年5月10日火曜日

女体の二つの堂々たる臀部の丘のあいだ

 精神分析家ってのはこういうもんだよ


われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し[bewußten Beobachtung der abnormen seelischen Vorgänge]、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。


一方詩人の進む道は違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。

Der Dichter geht wohl anders vor; er richtet seine Aufmerksamkeit auf das Unbewußte in seiner eigenen Seele, lauscht den Entwicklungsmöglichkeiten desselben und gestattet ihnen den künstlerischen Ausdruck, anstatt sie mit bewußter Kritik zu unterdrücken.


このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。だが彼はそのような法則を口に出していう必要はないし、それらをはっきり認識する必要さえない。 

So erfährt er aus sich, was wir bei Anderen erlernen, welchen Gesetzen die Betätigung dieses Unbewußten folgen muß, aber er braucht diese Gesetze nicht auszusprechen, nicht einmal sie klar zu erkennen (フロイト『W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢』第4章、1907年)



これは作家だけに限らない。


ふつうの人の話だってそうだ。


精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである。(中井久夫『治療文化論』1990年)

精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。


そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは?(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007初出『日時計の影』所収)



例えばツイートなんてのはボクはこういう風にしか見てないね。


お上品なそこのお嬢さんやボク珍のツイートだっていつもそう見てんのさ。それを裸にしちゃシツレイに当たるからやらないだけで。


でもここでは「丘とチャイナドレス」に反応しとくさ。



ことさらさりげない夢が、じつにエロス的願望[erotische Wünsche] を隠しているということは、上にも主張したし、無数の新しい例をあげてこれを証明することもできる。


しかし、どこをどう見ても何の変哲もない、意味のない夢の多くが、分析してみると、しばしば意外なほどの、紛れもない性的願望衝動[sexuelle Wunschregungen]に還元させられる。


つぎに引用する夢などは、分析を加えてみなければ、ある性的願望を含んでいるなどとは想像もつかないだろう。


《二つの堂々たる宮殿のあいだの、少し引っこんだところに小さな家があって、門はしまっている。妻が私を通りを少々案内して、その家のところまで連れてゆく。妻は扉を押し開いた。そこで私はすばやく堂々と、斜めに勾配のついた内庭へ滑りこむ》Zwischen zwei stattlichen Palästen steht etwas zurücktretend ein kleines Häuschen, dessen Tore geschlossen sind. Meine Frau führt mich das Stück der Straße bis zu dem Häuschen hin, drückt die Tür ein, und dann schlüpfe ich rasch und leicht in das Innere eines schräg aufsteigenden Hofes. 


夢の翻訳の経験がある人なら、狭い空間を押し入ることや、しまった扉をあけることなどがもっとも一般的な性的象徴であることに直ちに思いついて、この夢の中に、後部からの交接の試み(女体の二つの堂々たる臀部の丘のあいだに)の一表現を容易に見だすだろう。狭い、斜めに上っている通路は、いうまでもなく膣である。


Wer einige Übung im Übersetzen von Träumen hat, wird allerdings sofort daran gemahnt werden, daß das Eindringen in enge Räume, das Öffnen verschlossener Türen zur gebräuchlichsten sexuellen Symbolik gehört, und wird mit Leichtigkeit in diesem Traume eine Darstellung eines Koitusversuches von rückwärts (zwischen den beiden stattlichen Hinterbacken des weiblichen Körpers) finden. Der enge, schräg aufsteigende Gang ist natürlich die Scheide; 


この夢を見た本人の妻に押しつけられた(道案内という)助力は、われわれにつぎのごとく判断するように強いる、つまり現実生活のうえでは妻に対する遠慮があればこそこのような性交形式を採ることが断念されているのだ、と。なおよくきき出すと、こういうことがわかった。夢の前日、若い娘がこの家に雇いこまれた。彼はこの娘が気に入って、上に述べたようなことを仕かけてもこの娘ならばたいしていやがりもしないのではないかというような印象を与えられた。二つの宮殿のあいだの小さな家は、プラハの城地区のレミニサンス[Reminiszenz an den Hradschin in Prag]に糸を引くものであって、したがってやはりこのプラハ出身の娘に関係している。(フロイト『夢判断』第6章E、1900年)






他にも例えばフロイトが「蜘蛛は女性器」だというとき、当然、「蜘蛛の回帰」の作家ニーチェが念頭にあるに決まっている。



アブラハム(1922)によれば、夢のなかの蜘蛛は、母のシンボルである。だが恐ろしいファリックマザーのシンボルである。したがって蜘蛛の不安は母親相姦の怖れと女性器の恐怖を表現する。

Nach Abraham 1922 ist die Spinne im Traum ein Symbol der Mutter, aber der phallischen Mutter, vor der man sich fürchtet, so daß die Angst vor der Spinne den Schrecken vor dem Mutterinzest und das Grauen vor dem weiblichen Genitale ausdrückt. (フロイト『新精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933年)




さらにニーチェに頻出する「不気味なもの」、永遠回帰する不気味なもの、人間の実存[menschliche Dasein]っていったいなんだい?とかさ。


不気味なものは人間の実存[menschliche Dasein]であり、それは意味もたず黙っている[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年)

私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、実存[Daseins]の憎むべき厭うべき側面をみずからすすんで探求することである。Philosophie, wie ich sie bisher verstanden und gelebt habe, ist das freiwillige Aufsuchen auch der verwünschten und verruchten Seiten des Daseins. 〔・・・〕


この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する―あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまで―、それは永遠の円環運動を欲する[sie will den ewigen Kreislauf]、―すなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、実存へとディオニュソス的に立ち向かうということ―、このことにあたえた私の定式が運命愛である…[dionysisch zum Dasein stehn―: meine Formel dafür ist amor fati ...](ニーチェ「力への意志」遺稿、Frühjahr 1888)



フロイトの記述はこうだ。


同一のものの回帰という不気味なもの[das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr ]〔・・・〕


心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫[Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges」の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越[über das Lustprinzip] ほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格[dämonischen Charakter]を与える。〔・・・〕


不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである[daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann.](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)

同一の出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


ニーチェの運命愛[ amor fati ]を運命強迫 [Schicksalszwang ]としてるだけだよ。


で究極の永遠回帰、ーー究極の抑圧されたものの回帰[参照]ーーは女性器に決まっている。



女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches]. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)




もちろん女性器の回帰は「究極の」抑圧されたものの回帰ということを強調しておかねばならないが。


未来におけるすべての不気味なもの、また過去において鳥たちをおどして飛び去らせた一切のものも、おまえたちの「現実」にくらべれば、まだしも親密さを感じさせる[Alles Unheimliche der Zukunft, und was je verflogenen Vögeln Schauder machte, ist wahrlich heimlicher noch und traulicher als eure "Wirklichkeit". ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第2部「教養の国」1884年)

不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年)


ーー《不気味ななかの親密さ[heimisch im Unheimlichen]》(フロイト『ある錯覚の未来』第3章、1927年)


先に引用したニーチェ文を再掲しよう。


不気味なものは人間の実存[Dasein]であり、それは意味もたず黙っている[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年)


抑圧された秘密の慣れ親しんだ「不気味なもの」は沈黙してんだ。


死の欲動は本源的に沈黙しているという印象は避けがたい[müssen wir den Eindruck gewinnen, daß die Todestriebe im wesentlichen stumm sind ](フロイト『自我とエス』第4章、1923年)

われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


以上、永遠回帰(運命愛)=反復強迫(運命強迫)=死の欲動=究極の抑圧されたものの回帰=不気味なものの回帰。


で、不気味なものとは異者。


不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)

異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

ひとりの女は異者である[une femme, … c'est une étrangeté. ] (Lacan, S25, 11  Avril  1978)

現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


要するに不気味な異者、これが現実界の享楽だ。


で、究極の享楽とは?


子宮内生活は、まったき享楽の原像である。原ナルシシズムはその始まりにおいて、自我がエスから分化されていない原状態として特徴付けられる。

La vie intra-utérine est l'archétype de la jouissance parfaite. Le narcissisme primaire est, dans ses débuts, caractérisé par un état anobjectal au cours duquel le moi ne s'est pas encore différencié du ça.  (Pierre Dessuant, Le narcissisme primaire, 2007[参照])



精神分析といったって究極の場処は古典的な「真理」にあるに決まっている。


汝はわが最も内なる部分よりもなお内にいまし、わが最も高き部分よりもなお高くいましたまえり[tu autem eras interior intimo meo et superior summo meo] (アウグスティヌス『告白』)

われら糞と尿のさなかより生まれ出づ[ inter faeces et urinam nascimur](アウグスティヌス『告白』)






先のマン・レイの「祈り」はすでにここにある。


バタイユもデュラスもとっくの昔にここにある。


マダム・エドワルタの声は、きゃしゃな肉体同様、淫らだった。「あたしのぼろぎれが見たい?[Tu veux voir mes guenilles ? ]」両手でテーブルにすがりついたまま、おれは彼女ほうに向き直った。腰かけたまま、彼女は片脚を高々と持ち上げていた。それをいっそう拡げるために、両手で皮膚を思いきり引っぱり。こんなふうにエドワルダの《ぼろきれ》はおれを見つめていた。生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛸 [velues et roses, pleines de vie comme une pieuvre répugnante]。おれは神妙につぶやいた。「いったいなんのつもりかね。」「ほらね。あたしは神よ…[Tu vois, dit-elle, je suis DIEU...]」「おれは気でも狂ったのか……」「いいえ、正気よ。見なくちゃ駄目。見て!」(ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダ Madame Edwarda』1937年)

愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る[Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire]。あなたは言う、「そこだった、黒い夜[la nuit noire]、それはそこだ」(マルグリット・デュラス『死の病 La maladie de la mort』1981年)