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2023年4月10日月曜日

5〜10年後の「日独消滅」シナリオ(用田和仁元陸将)

 

用田和仁元陸将が、【討論】米国一極支配から多極化へ-10年後の世界は?[桜R5/4/6]で相変わらず鋭利な分析している。

用田さんは早い段階で、「アメリカがウクライナ戦争で一番の悪党」と言った人である[参照]。




さて今回はまず最初はこのところの世界政治の動きの復習である。





ここまではごく通常の復習だが、次からである。用田さんは元陸将ということもあってだろう、中国への警戒感がとても強い。世界の多極化の実際はまずは中国の一極化ではないかと疑っている。中国とロシアの連携は同床異夢に過ぎないと。






そして、露中はその政策が異なるにもかかわらず、現在のロシアは中国に従うよりほか道がないとする。






こうして5〜10年後の、二つのシナリオが提示される。一つ目は中露基軸のもとでの日独消滅(台湾北朝鮮も含む)、二つ目は米印露に日本が加わった中国の覇権に対抗するシナリオである。






シナリオ2はインドの出方しだいだろう。


世界の現状は、米国の凋落でヘゲモニー国家不在となっており、次のヘゲモニーを握るために主要国が帝国主義的経済政策で競っている。日清戦争後の国際情勢の反復ともいえる。新たなヘゲモニー国家は、これまでのヘゲモニー国家を引き継ぐ要素が必要で、この点で中国は不適格。私はインドがヘゲモニーを握る可能性もあると思う。その段階で、世界戦争が起こる可能性もあります。(柄谷行人『知の現在と未来』岩波書店百周年記念シンポジウム、2013年11月23日)



だが米印露の連携に日本が加わり対中最前線に立ちうるというのは、「楽観的」すぎるのではないか。

用田元陸将はこう言っている(ここは私の思考とは大いに異なるところだ)。





私は日本はもはや防衛力の強化など事実上しようがなく、その意味でシナリオ1の可能性ーーあるいは中印露に主導されたグローバルサウス勢力支配の可能性(中印の間の確執は十分にありうるが)ーーのほうがずっと高いように当面思っている。そもそも日独はエネルギーの元栓を閉められたら、ただちに一巻の終わりである。

では脱ドル化が雪崩をうってすすむ現在、米国の近未来はどうか。




ここで4月3日に掲げたゴンザロ・リラのシナリオを挿入しておく。



さらに何度も引用してきた1997年の李鵬の予言がある。


武藤国務大臣)……そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。私は、それはまあ、何と李鵬さんが言ったか知らないけれども、これは日本の国の政治家としてつぶれますよなんて言えっこないじゃないか、確かに今の状況から見れば非常に問題があることは事実だけれども、必ず立ち直るから心配するなと言って、実は帰ってまいりました。(第140回国会 行政改革に関する特別委員会 第4号 平成九年五月九日


30年後とは2027年である。このあたりで日本国家は消滅するんじゃないか。「戦争で」ではなく、世界に冠たる少子高齢化社会に由来する財政大地震で。

もっとも国家が消滅したって、日本人あるいは日本文化は生き残りうる。そろそろいかにして日本文化を残しうるかに思いを馳せる時である。

以上、あくまで2つのシナリオを基盤にした「仮の判断」であり、このどちらもイヤな方が日本には多いだろうから、その方たちは別のシナリオを想定したらよいのである。

……………

※付記

未来のイメージを得ることが必要だ。そのイメージは、嫌悪を催させるのに足るほどカタストロフィ的で、実現を防ぐための行動を開始させるのに足るほど信憑性がなければならない。(ジャン=ピエール・デュピュイ「アポカリプスを前にしての合理的選択(Rational Choice before the Apocalypse)」2007年)


ヘーゲル主義者デュピュイはしばしばギュンター・グラスの話に触れている。



世界は滅びるという予言が聞き入れられないことに落胆したノアは、ある日、身内を亡くした喪の姿で街に出る。ノアは古い粗衣をまとい、灰を頭からかぶった。これは親密な者を失った者にしか許されていない行為である。誰が死んだのかと周りの者たちに問われ、「あなたたちだ、その破局は明日起きた」と彼は答える。「明後日には、洪水はすでに起きてしまった出来事になっているだろうがね。洪水がすでに起きてしまったときには、今あるすべてはまったく存在しなかったことになっているだろう。洪水が今あるすべてと、これからあっただろうすべてを流し去ってしまえば、もはや思い出すことすらかなわなくなる。なぜなら、もはや誰もいなくなってしまうだろうからだ。そうなれば、 死者とそれを悼む者の間にも、なんの違いもなくなってしまう。私があなたたちのもとに来たのは、その時間を裏返すため、明日の死者を今日のうちに悼むためだ。明後日になれば、手遅れになってしまうのだからね」。その晩、大工と屋根職人がノアの家を訪れ、「あの話が間違いになるように」箱舟の建造を手伝いたいと申し出る。……(ギュンター・アンダース「ノアの寓話」摘要)



未来の固定された点ーー地獄郷ーーに立って、現在という過去を眺めて見ること。


プロジェクトの時間(投射の時間 le temps du projet )は支配的議論の原理を覆す。過去は取り消せないものではない。過去は固定化されていない。現在の行為が、過去の上に反事実的力をもつ[Le passé n'est pas irrévocable, il n'est pas fixe, l'action présente a un pouvoir contrefactuel sur le passé.]

(Jean-Pierre Dupuy, 「啓蒙カタストロフィ主義のために ーー不可能性が確実になるとき Pour un catastrophisme éclairé Quand l'impossible devient certain」2004)





カタストロフィ的出来事は運命として未来に刻印されている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。この形而上学は、パスカルが言ったように、謙虚な人、ナイーブな人、「非器用な人」の形而上学であり、たとえば、大災害のように突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事がアクチュアルになること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生みだしているのである。

L'événement catastrophique est inscrit dans l'avenir comme un destin, certes, mais aussi comme un accident contingent : il pouvait ne pas se produire, même si, au futur antérieur, il apparaît comme nécessaire. Cette métaphysique, c'est celle des humbles, des naïfs, des « non-habiles », comme aurait dit Pascal – qui consiste à croire que, si un événement marquant se produit, par exemple une catastrophe, il ne pouvait pas ne pas se produire ; tout en pensant que, tant qu'il ne s'est pas produit, il n'est pas inévitable. C'est donc l'actualisation de l'événement – le fait qu'il se produise – qui crée rétrospectivement de la nécessité.

(ジャン=ピエール・デュピュイ『ツナミの小形而上学』2005年)



これがデュピュイによるヘーゲルの悪評高い「ミネルバの梟は夕暮れに飛ぶ 」の読み方である。


哲学が、その灰色に灰色を重ねてさらに塗り重ねるとき、そのとき生命の姿はすでに年老いたものになってしまっている。そして、灰色の中に灰色を塗ることによっては生命の姿は自らを若返らせることはできず、むしろそうではなく、ただ認識されるのみである。ミネルバの梟は夕暮れになってようやく飛び始めるのである。


Wenn die Philosophie ihr Grau in Grau malt, dann ist eine Gestalt des Lebens alt geworden, und mit Grau in Grau lässt sie sich nicht verjüngen, sondern nur erkennen; die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.

(ヘーゲル『法の哲学Grundlinien der Philosophie des Rechts』1821年)




デュピュイの思考はエリオットにもある。


現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更される[the past should be altered by the present as much as the present is directed by the past](エリオット「伝統と個人的な才能」吉田健一訳)


ボルヘスの《おのおのの作家は自らの先駆者を創り出す。彼の作品は、未来を修正すると同じく、われわれの過去の観念をも修正するのだ》(ボルヘス「カフカの先駆者」) は、エリオットに起源がある。



「現在と過去」を「固定された未来と現在」に変えればよいだけである。われわれが行動を起こせば、この現在は変えられる。デュピュイは比較的最近の「核抑止と時間の形而上学」でも自らの思考を繰り返している。





ここで我が日本の「類い稀なる知性」中井久夫の言葉も引いておこう。


過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」初出1989年『徴候・記憶・外傷』所収)



最後にデュピュイが好んで引用するラルフ・エリソンの言葉を掲げる。


《世界はどのように動いているのか。矢のようじゃない。ブーメランのようにだ。終わりは最初にあるんだ。That […] is how the world moves: Not like an arrow, but a boomerang. […] The end is in the beginning.”》(Invisible Man by Ralph Ellison, 1952)



世界の時はブーメランである。何よりもまずこの今、行動を起こすことが肝要である。未来の地獄郷を遡及的に変えることは不可能ではない。「あの話が間違いになるように」箱舟を建造しなくてはならない。


とはいえ日本という国に限っていえば「箱舟」とは何か。わずか30年のあいだにこんなになってしまった国で[参照]。




このあたりを視野に入れると、私はもはやへこたれる。防衛力どころか日本社会維持力の不可能性に直面し、プロジェクトの時間どころではなくなる。