共感は同一化によって生まれる[das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年) |
そうだな、人は他者に、書物に、芸術作品等に共感するのだけど、上のフロイトをベースにして言えば、共感するにしてもどういう同一化してるかだよ。 |
フロイトには三種類の他者がある。小文字の他者としての理想自我[Idealich]、大文字の他者としての自我理想[Ichideal]、原大他者としての超自我[Überich]。それぞれラカンの想像界的他者、象徴界的大他者、現実界的大他者だ。 |
理想自我との同一化は、例えばツイッターなどでよく見られる。競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ同類たちとの同一化であり、自己愛あるいはナルシシズムにかかわる。 |
理想自我は自己愛に適用される。ナルシシズムはこの新しい理想的自我に変位した外観を示す[Idealich gilt nun die Selbstliebe, …Der Narzißmus erscheint auf dieses neue ideale Ich verschoben](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年) |
理想自我との同一化は想像的同一化である[l'identification du moi idéal, c'est-à-dire l'identification comme imaginaire]. (J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 17 DECEMBRE 1986) |
他方、自我理想との同一化は父の代理[Vaterersatz](フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)との同一化で、現実にはおおむね頼りない父の代わりの理想としての父との同一化である。 フロイトの自我理想はラカンの父の名であり、象徴的同一化にかかわる。 |
父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない[C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique]. (ラカン, ローマ講演, E278, 27 SEPTEMBRE 1953 ) |
自我理想は象徴界で終わる[l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique] (Lacan, S24, 08 Février 1977) |
自我理想との同一化は究極的には神との同一化があるが、他にも例えば映画を見て主人公に同一化して共感する場合、この自我理想との同一化ということが起こりうる(理想自我との同一化の場合もあるだろうが)。あるいは親露派の女性を観察しているとプーチンとの同一化をしていると感じる場合があるが、あれも自我理想との同一化かもしれない。 でもこの二つの同一化の基盤には超自我との同一化がある。フロイトの超自我をめぐる記述には揺れ動きがあるが、最終的には超自我は欲動の固着だ。 |
超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着される[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
そしてこの超自我がラカンの現実界である。 |
私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a). …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966) |
このリアルな対象aは固着であり、トラウマの穴である(フロイトラカンにおいてのトラウマは、通念としてのトラウマとは異なり、「身体の出来事」を意味しているので注意)。 |
対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
冒頭に《共感は同一化によって生まれる》と引用したが、この共感を愛に置き換えて、究極的には「愛はリアルな同一化によって生まれる」と言いうる。このリアルな同一化が「超自我との同一化=固着との同一化」であり、「共感の条件≒愛の条件」だ。 |
愛の条件は、初期幼児期のリビドーの固着が原因となっている[Liebesbedingung (…) welche eine frühzeitige Fixierung der Libido verschuldet]( フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について』1922年) |
愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015) |
リアルな愛の欲動はもちろんラカンの享楽である。 |
フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert (…) une répétition de la fixation infantile de jouissance. ](J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000) |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…) on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) |
(このフロイトラカンの固着は、少し前掲げた古井由吉の「幼少の砌の髑髏=傷への固着」と事実上等価である。) そしてこの固着が超自我との同一化にかかわる。 |
享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、超自我の真の価値は欲動の主体と言い得る。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989) |
超自我、すなわち自我を超えて人を無意識的に支配するものである、ーー《超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代理としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.》(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)
重要なのは、共感の内実を追求するにしても自我の領域にある理想自我や自我理想との同一化にとどまっておらず、エスの欲動の領域にある超自我との同一化、つまり自らの欲動の固着の有り様を見極めることだよ。もちろんそれはとても難しいことで、通常は理想自我や自我理想にほうに逃げるんだが。プルーストが次のように言ったように。
われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている[toute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié]。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」) |
この自身の内部にのびているものこそ、フロイトラカン観点からは「固着」である[参照]。 |
現代ラカン派ではこのボロメオの環のグレーに塗った部分を見せかけ[Semblant]と呼ぶ。そして見せかけの別名は「嘘」だ。
要するに、自我という嘘に留まっていてはダメだということだ。 |
自我は自分の家の主人ではない [das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年) |
自我はエスの組織化された部分に過ぎない[das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es. ](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年) |
エスがあったところに、自我は到らなければならない [Wo Es war, soll Ich werden](フロイト『続精神分析入門』第31講、1933年) |
例えば、本を読んでその感想を理想自我なる鏡像的他者とお話していったい何になる? 承認欲求の居心地のよいらしい沼沢池に嵌まり込んで、プルースト曰くの《どんな疲労を招く原因にもならないだろう》を狙っているのかい?