前々回、デュラスの「黒い夜」をめぐる記述を引用したところで、「真のフェミニスト」カミール・パーリアを思い起こしたが、もはや古典的名著という他ない『性のペルソナ』の、なかんずく次の箇所は実にすばらしいね。
女の身体は冥界機械である。その機械は、身体に住んでいる精神とは無関係だ[The female body is a chthonian machine, indifferent to the spirit who inhabits it]。有機体的には、女の身体は一つの使命しかない。受胎である。もちろんそれは生涯かけて阻止しうるが。 自然は種に関心があるだけだ。けっして個人ではない。この屈辱的な生物学的事実の相は、最も直接的に女たちによって経験される。ゆえに女たちにはおそらく、男たちよりもより多くのリアリズムと叡智がある[the humiliating dimensions of this biologic fact are most directly experienced by women, who probably have a greater realism and wisdom than men because of it. ] |
女の身体は海である。月の満ち欠けに従う海である[Woman's body is a sea acted upon by the month's lunar wave-motion. ]。女の脂肪組織は、緩慢で密やかに液体で満たされる。そして突然、ホルモンの高潮で洗われる。〔・・・〕 ほとんどの初期文明は、宗教的タブーとして月経期の女たちを閉じ込めてきた。正統的ユダヤ教の女たちはいまだ、ミクワー[mikveh]、すなわち宗教的浄化風呂にて月経の不浄を自ら浄める。 |
女たちは、自然の基盤にある男においての不完全性の象徴的負荷を担っている。経血は斑、原罪の母斑である。超越的宗教が男から洗い浄めなければならぬ汚物である。この経血=汚染という等置は、たんに恐怖症的なものなのか? たんに女性嫌悪的なものなのか? あるいは経血とは、タブーとの結びつきを正当化する不気味な何ものかなのか? |
私は考える。想像力ーー赤い洪水でありうる流れやまないものーーを騒がせるのは、経血自体ではないと。そうではなく血のなかの胚乳、子宮の切れ端し、女の海という胎盤の水母である。 これが、人がそこから生まれて来た冥界的母胎である。われわれは、生物学的起源の場処としてのあの粘液に対して進化論的嫌悪感がある。女の宿命とは、毎月、時間と存在の深淵に遭遇することである。深淵、それは女自身である[Every month, it is woman's fate to face the abyss of time and being, the abyss which is herself. ] |
女に対する歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。男性による女性嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性や論理は、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安から生まれたものである。〔・・・〕 西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。(カミール・パーリア『性のペルソナ 』Camille Paglia, Sexual Personae, 1990年) |
種こそすべて、女なるディオニュソス、その冥界の支配者等々、実に真のニーチェ主義者パーリアの真骨頂だね。 |
十全な真理から笑うとすれば、そうするにちがいないような仕方で、自己自身を笑い飛ばすことーーそのためには、これまでの最良の者でさえ十分な真理感覚を持たなかったし、最も才能のある者もあまりにわずかな天分しか持たなかった! おそらく笑いにもまた来るべき未来がある! それは、 「種こそがすべてであり、個人は常に無に等しい die Art ist Alles, Einer ist immer Keiner」という命題ーーこうした命題が人類に血肉化され、誰にとっても、いついかなる時でも、この究極の解放[letzten Befreiung] と非責任性[Unverantwortlichkeit] への入り口が開かれる時である。その時には、笑いは知恵と結びついていることだろう。その時にはおそらく、ただ「悦ばしき知」のみが存在するだろう。 (ニーチェ『悦ばしき知』第1番、1882年) |
ディオニュソス的密儀においてのみ、古代ギリシア人の本能の全根源的事実は表現された。何を古代ギリシア人はこれらの密儀でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生であり、生の永遠回帰である[Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens]。生殖において約束され清められた未来である[die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht]。死の彼岸の生[Leben über Tod ]、流転の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である。 spricht sich erst in den dionysischen Mysterien der ganze Untergrund des hellenischen Instinkts aus. Denn was verbürgte sich der Hellene mit diesen Mysterien? Das ewige Leben, die ewige Wiederkehr des Lebens, die Zukunft in der Zeugung verheißen und geweiht, das triumphirende Jasagen zum Leben über Tod und Wandel hinaus, (ニーチェ「力への意志」遺稿、1887- 1888) |
私はどちらかというとフロイト主義者のパーリアを好んできたが、その底にはニーチェがいるんだ、しっかりと。
フロイトを研究しないで性理論を構築しようとする女たちは、ただ泥まんじゅうを作るだけである[Trying to build a sex theory without studying Freud, women have made nothing but mud pies](カミール・パーリアCamille Paglia "Sex, Art and American Culture", 1992年) |
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宿命の女(ファンム・ファタール)は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。歯の生えたヴァギナ(ヴァギナデンタータ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくるから[ The femme fatale is one of the most mesmerizing of sexual personae. She is not a fiction but an extrapolation of biologic realities in women that remain constant. The North American Indian myth of the toothed vagina (vagina dentata) is a gruesomely direct transcription of female power and male fear. Metaphorically, every vagina has secret teeth, for the male exits as less than when he entered.]〔・・・〕 |
社会的交渉ではなく自然な営みとして見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。[Sex as a natural rather than social transaction, therefore, really is a kind of drain of male energy by female fullness. Physical and spiritual castration is the danger every man runs in intercourse with a woman. Love is the spell by which he puts his sexual fear to sleep.] |
女の潜在的吸血鬼性は社会的逸脱ではなく、彼女の母なる機能の発展にある。 自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母への回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ[Woman's latent vampirism is not a social aberration but a development of her maternal function, for which nature has equipped her with tiresome thoroughness. For the male, every act of intercourse is a return to the mother and a capitulation to her. For men, sex is a struggle for identity. In sex, the male is consumed and released again by the toothed power that bore him, the female dragon of nature.](カーミル・パーリア Camille Paglia『性のペルソナ Sexual Personae』1990年) |
日本のフェミニストがパーリアを正面からまったく受け取らず安易にやり過ごしているのは徹底的な不幸だね、連中はどうせニーチェやフロイトなど読み込めはしないんだから、せめてパーリアぐらいは消化すべきなんだが・・・《大いなるなる普遍的なものは、男性による女性嫌悪ではなく、女性恐怖である[It is not male hatred of women but male fear of women that is the great universal.]》(Camille Paglia , No Law in the Arena: A Pagan Theory of Sexuality, 1994)
原始時代の男がタブーを設置するときはいつでも、或る危険を恐れている。そして議論の余地なく、この忌避のすべての原則には、一般化された女性の恐怖が表現されている。おそらくこの恐怖は、次の事実を基盤としている。すなわち女は男とは異なり、永遠に不可解な、神秘的で、異者のようなものであり、それゆえ見たところ敵意に満ちた対象だと。 .Wo der Primitive ein Tabu hingesetzt hat, da fürchtet er eine Gefahr, und es ist nicht abzuweisen, daß sich in all diesen Vermeidungsvorschriften eine prinzipielle Scheu vor dem Weibe äußert. Vielleicht ist diese Scheu darin begründet, daß das Weib anders ist als der Mann, ewig unverständlich und geheimnisvoll, fremdartig und darum feindselig erscheint. |
男は女によって弱体化されることを恐れる。その女性性に感染し無能になることを恐れる。性交が緊張を放出し、勃起萎縮を引き起こすことが、男の恐怖の原型であろう。性行為を通して女が男を支配することの実現。男を余儀なくそうさせること、これがこの不安の拡張を正当化する。こういったことのすべては古い時代の不安ではまったくない。われわれ自身のなかに残存していない不安ではまったくない。Der Mann fürchtet, vom Weibe geschwächt, mit dessen Weiblichkeit angesteckt zu werden und sich dann untüchtig zu zeigen. Die erschlaffende, Spannungen lösende Wirkung des Koitus mag für diese Befürchtung vorbildlich sein und die Wahrnehmung des Einflusses, den das Weib durch den Geschlechtsverkehr auf den Mann gewinnt, die Rücksicht, die es sich dadurch erzwingt, die Ausbreitung dieser Angst rechtfertigen. An all dem ist nichts, was veraltet wäre, was nicht unter uns weiterlebte. (フロイト『処女性のタブー』1918年) |
➡︎「男と女のあいだの裂け目」
日常経験において、男性器は輝かしいポジション、つまり伝統的図像学における勃起したファルスの表象を見出すことは稀である。消耗が男性のセクシャリティの日常の役柄だ。オーガズム、つまり期待された享楽に至るやいなや、勃起萎縮が起こる[survient la détumescence de l'organe]。他方、女性の主体はどんなインポテンツにも遭遇せず、男性のように性交において去勢をこうむる器官に翻弄されずに、享楽を経験する。フロイトの女が去勢されているなら、ラカンの女は何も欠けていない。《女の壺は空虚だろうか、それとも満湖[plein]だろうか。…あれは何も欠けていないよ[Le vase féminin est-il vide, est-il plein ? (…) Il n'y manque rien ]》(20 Mars 1963)。ーーラカンは不安セミネールⅩでこう言った。〔・・・〕 |
ラカンは明瞭化したのである、ファルスはたんにイマージュ、力のイリュージョン的イマージュ[l'image illusoire de la puissance]に過ぎないと。女性の主体は男が喜ぶようにこの囮の虜[captif de ce leurre]になりうるかもしれない。だが実際は、欲望と享楽に関して、男性の主体のほうが弱い性なのである。《女は享楽の領域において優越している[La femme s'avère comme supérieure dans le domaine de la jouissance ]》(S10, 20 Mars 1963). (ジャン=ルイ・ゴーJean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019) |