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2023年6月9日金曜日

「言語のように構造化されていない」本来の無意識

 

何回か記しているけどさ、例えば「原無意識ーー話す存在[parlêtre]=話す身体[corps parlant]=異者身体[Fremdkörper]」に。そこで記したことはラカンジャーゴンがふんだんにあって一般にはやや難解かも知れないけど。

重要なのは、ラカンの《無意識は言語のように構造化されている》は「ラカンの夢」だったんだよ、《精神分析を、構造主義的言語学だけでなく、数学、特に数学的論理に結びつけようとした欲望》(J.-A. Miller, Habeas corpus, 2016)をもった時代の。でもこれは嘘だ。少なくとも無意識は「言語の無意識」以外に「身体の無意識」がある。で、言語の無意識とは実際は前意識であり、「前意識は言語のように構造化されている」が正しい。

以下、可能な限りわかりやすく簡潔に記そう。

………………

◼️象徴界の無意識=言語の無意識=欲望の無意識

無意識は言語のように構造化されている[L'inconscient est structuré comme un langage ](Lacan, S11, 22  Janvier  1964)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage] (Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

欲望は言語に結びついている。より厳密に言えば、欲望は象徴界の効果である[le désir … : il tient au langage. … ou plus exactement un effet du symbolique.](J.-A. MILLER "Le Point : Lacan, professeur de désir" 06/06/2013)



ーー欲望は享楽のシニフィアン化のこと、《原主体[sujet primitif]…我々は今日、これを享楽の主体と呼ぼう[nous l'appellerons aujourd'hui  « sujet de la jouissance »]〔・・・〕この享楽の主体はシニフィアン化によってによって欲望の主体としての基礎を構築する[« le sujet de la jouissance »…la significantisation qui vient à se trouver constituer le fondement comme tel du « sujet désirant » ]》(ラカン, S10, 13 Mars 1963)。


そして後年、見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ]》(Lacan, S18, 13 Janvier 1971)と言うようになる。つまり欲望は享楽の見せかけ化である。



◼️現実界の無意識=身体の無意識=欲動の無意識

私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ](Lacan, S20, 15 Mai 1973)

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973)

現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである。この意味で無意識と話す身体はひとつであり、同じ現実界である[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ». En ce sens, l'inconscient et le corps parlant sont un seul et même réel. ](J.-A. Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016)





この「象徴界/現実界」の区分においては、想像界は象徴界に含まれる。


想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955)




ラカンの欲望はフロイトの願望であり、欲望は事実上、幻想のこと。


フロイト用語の願望[Wunsch]をわれわれは欲望と翻訳する[Wunsch, qui est le terme freudien que nous traduisons par désir.](J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016)

幻想生活と満たされぬ願望で支えられているイリュージョン[Diese Vorherrschaft des Phantasielebens und der vom unerfüllten Wunsch getragenen Illusion](フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章、1921年)

(実際は)欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである[il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme](Lacan, AE207, 1966)




そして、欲望は欲動に対する防衛である。


欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である[le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.]( Lacan, E825, 1960)

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance].(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)



先に示したように、欲望は言語に関わる一方で、欲動は身体に関わる。


エスの欲求によって引き起こされる緊張の背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である[Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)



以上、言語のように構造化された無意識とは、象徴界の無意識、欲望の無意識に過ぎず、「言語のように構造化されていない」現実界の無意識、欲動の無意識があり、これが本来の無意識である。


そして象徴界の無意識、欲望の無意識とは、実際はフロイトの前意識である、《無意識の欲望は前意識に占拠されている[le désir inconscient envahit le pré-conscient]》(Solal Rabinovitch, La connexion freudienne du désir à la pensée, 2017)



もっともフロイト自身、前意識と本来の無意識の区別の説明は難しいと言っている。


精神分析が無意識をさらに区別し、前意識と本来の無意識に分離するようになった経緯を簡潔に説明するのは、もっと難しい。

Schwieriger wäre es, in kurzem darzustellen, wie die Psychoanalyse dazu gekommen ist, das von ihr anerkannte Unbewußte noch zu gliedern, es in ein Vorbewußtes und in ein eigentlich Unbewußtes zu zerlegen. (フロイト『自己を語る』第3章、1925年)



実際、1920年の『快原理の彼岸』においてさえ、その無意識をめぐる記述には曖昧なところがある。だが少なくとも、1923年の『自我とエス』以降のフロイトにとって、「自我の無意識」は前意識であり、「エスの無意識」が本来の無意識である。



私は、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、他の部分ーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをグロデックの用語にしたがってエスと名づけるように提案する。

Ich schlage vor, ihr Rechnung zu tragen, indem wir das vom System W ausgehende Wesen, das zunächst vbw ist, das Ich heißen, das andere Psychische aber, in welches es sich fortsetzt und das sich wie ubw verhält, nach Groddecks Gebrauch das Es. 


グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。

Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)

自我はエスから発達している。エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳に影響されず、本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである。das Ich aus dem Es entwickelt. Dann wird ein Teil der Inhalte des Es vom Ich aufgenommen und auf den vorbewußten Zustand geho-ben, ein anderer Teil wird von dieser Übersetzung nicht betroffen und bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück.(フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


なお前期ラカンには欲動と欲望の混同があったが、エクリ所収の1964年のテキスト『フロイトの欲動と精神分析家の欲望』にて、その混同を修正している[参照]。


以上。