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2023年7月30日日曜日

リベラリズムとナショナリズムとリベラルヘゲモニーの定義(ミアシャイマー)

 

ミアシャイマーは実に明晰だね、「明晰」が必ずしも常にいいわけではないにしろ、私のように一年半前まではミアシャイマーのミの字も知らなかった者にとっては、彼がどういう風に考えて、米国のリベラル覇権主義をいかに批判しているのかとてもよくわかる講演だな、次のものは特に。


ミアシャイマー教授「米国の大いなる妄想」講演、字幕版

The Great Delusion with Professor John Mearsheimer 2018/10/11

〔・・・〕




リベラリズムには、二つの根本的な前提があります。一つは個人主義的であること。もう一つは、良き生活とは何かといった根本的なことについて合意する上で、人間の判断力には限界があるということです。


そもそも政治というのは、個人が集まって社会契約を結ぶと考えるにせよ、人間とは基本的に社会的動物だと考えるにせよ、決断が求められます。リベラリズムとは個人主義です。リベラル理論家は社会契約理論家と言われています。各個人が集まって社会契約を結ぶと考えるからです。リベラリズムが前提としているのは社会的動物としての人間ではなく "個人"です。次にリベラリズムでは理性によって中絶や格差是正措置などの根本的なことについて普遍的合意に達することは不可能と考えます。〔・・・〕





続いてはナショナリズムとは何か? ナショナリズムは人間が社会的動物であることを前提としています。 人間は特定の集団の一員として生まれ社会化されるのであり、森の中に生まれた個人ではないという考え方です。ナショナリズムの前提はリベラリズムと大きく異なります。ナショナリズムは個人ではなく集団への忠誠心に重きを置きます。〔・・・〕そして家族を別として自分にとって最も重要な集団は、現代ではネーションです。ナショナリズムとは "他の集団と違う特徴を持つ個人の集まりである民族は自分たちの国家を持つべきだという政治的信条”です。〔・・・〕


リベラリズムは個人と人権に重きを置き普遍主義に向かう特徴がありますが、ナショナリズムは特定民族の利益に排他的な関心があります。


リベラリズムとナショナリズムの定義については説明しました。


続いてリベラル覇権主義[Liberal Hegemony]とは何か?  その内容は世界をアメリカのイメージ通りに作り変えることであり三つの目的があります。





一つ目は世界中にリベラルデモクラシーを広めること。アスタリスクを三つ付けてある理由はこれが一番重要だからです。全ての国をリベラリズムデモクラシー国家に変えること、全ての国をアメリカと同じ政治体制に変えること。

二つ目の目的は各国を開かれた国際経済システムに組み入れることです。自由貿易や経済交流、自由な資本の移動を促すということです。

三つ目の目的は各国を国際組織に組み入れることです。WTO、IMF、NATOやTPPもそうです。〔・・・〕以上 国際機関と開かれた国際経済への組み入れ、そして何よりデモクラシーを広めることがポイントです。〔・・・〕



ではリベラル覇権戦略のメリットとは何なんでしょうか? なぜこの戦略が採用されたのでしょうか? 外交政策エリートたちはこの戦略は各方面で素晴らしい結果を生むと言っていました。その一つは全ての国をリベラル民主国家にすれば重大な人権侵害をなくせるというものです。世界中がリベラル民主国家だけになれば、人権侵害はなくなるので "保護する責任"のような政策は不要になるというものです。そして何より 民主党も共和党も含めたリベラル派というのは、リベラル民主国家同士は戦争しないという "民主的平和理論"を信じがちです。リベラル民主国家だけの世界を作れば、戦争や核拡散 テロはなくなり、世界は愛と平和に満ちたものになるーー素晴らしい話です。最後はリベラル民主国家が安全になるというメリットです。〔・・・〕世界中をリベラル民主国家だけにすれば、外国勢力の影響が自国に及ばなくなるため、リベラル民主国家が抱える問題は解消されるというわけです。これこそブッシュたちが主張していたウッドロウ・ウィルソン的な考えです。外交政策エリートたちはこうした利点があると考えて、リベラル民主制の普及を核とするこの戦略を推し進めたのです。〔・・・〕


アメリカは根本的にリベラル国家です。リベラルは悪いと言っているわけではありません。むしろ私はリベラル民主制は最も良い政治体制だと考えていますし、リベラル民主制のアメリカに生まれたことに感謝しています。リベラル民主制は政治体制としては最善ですが、外交政策としてのリベラリズムはダメなのです。アメリカは根本的にリベラルな国なので、私やシュースラー John Schuster やカスティーロ Jason Castillo のようなリアリストは、アメリカのリベラル派に嫌われます。私が多くの人に嫌われているのは、私が外交政策でリアリストだからです。〔・・・〕


1990年代は民主的平和理論などはすんなり受け入れられました。アメリカはリベラル国家だからです。次にアメリカにはナショナリズムのせいで、不健全と言える自信過剰がありました。ナショナリズムは最も強力な政治的イデオロギーだと言いましたが、実はアメリカは非常にナショナリズム (愛国的)な国なのです。ここシカゴ大学の図書館にはアメリカのリベラリズムに関する本が山ほどありますが、アメリカのナショナリズムに関する本は少しだけです。自分たちの国はナショナリズムな国だと思っていないからです。典型的なリベラル派のオルブライト元国務長官はこう言いました、"アメリカは世界に不可欠な国で、どの国よりも高い所から遠くを見ている"

"we are the indispensable nation. We stand tall and we see further than other countries"  ーーMadeleine Albright on an interview on the “Today Show,”  February 1998

ナショナリズムそのものです。我々の国は丘の上に輝く優れた国であり、世界中の国をリベラル民主制に変える権利と責任と能力があるというわけです。まさにナショナリズムです。……



ひとつだけいくらの違和があるとしたらーーミアシャイマーはリベラリズムとナショナリズムを対比させて語りつつ、最終的には米国のリベラル覇権主義は、外交的には実際はナショナリズムだとしているわけだがーー、デモクラシーの位置付けだね。リベラルデモクラシーと一緒くたにしているのだが、少し前引用した柄谷行人は、リベラリズムとデモクラシーを対比させつつ語っている、《自由主義と民主主義の対立とは、結局個人と国家あるいは共同体との対立にほかならない。》(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)。(この柄谷の捉え方はカール・シュミットの思考がベースにある。)


ミアシャイマーは「リベラリズム/ナショナリズム」を「個人主義的/集団への忠誠心」としているわけで、柄谷の「リベラリズム/デモクラシー」の定義「個人/国家あるいは共同体」と中身は等価だ。つまりミアシャイマーはリベラリズムはデモクラシー、柄谷はナショナリズムはデモクラシーと事実上している。


これは『世界史の構造』でも同様(日本語版が手元にないので英語版から私訳)。


デモスは一種の「想像上の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)であるという点で近代国家に似ていた。アテネのデモクラシーはこの種のナショナリズムと切り離せない。

the demos resembled the modern nation in being a kind of “imagined community” (Benedict Anderson). Athenian democracy is inseparable from this kind of nationalism. (柄谷行人『世界史の構造』第5章、2010年)



さてどうなのだろうな、リベラリズムとデモクラシーとナショナリズムの関係は? 


このそれぞれの概念自体、論者によって多様な相がある、


自由になった人間は、自由となった精神はなおさらのことだが、小商人、キリスト者、牝牛、婦女子、イギリス人、 その他の民主主義者が夢想する軽蔑すべき安穏さを踏みにじる。自由な人間は戦士である。Der freigewordne Mensch, um wie viel mehr der freigewordne Geist, tritt mit Füßen auf die verächtliche Art von Wohlbefinden, von dem Krämer, Christen, Kühe, Weiber, Engländer und andre Demokraten träumen. Der freie Mensch ist Krieger  (ニーチェ「或る反時代的人間の遊撃」第38節『偶像の黄昏』所収、1888年)



民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)



ネーション〔国民Nation〕、ナショナリティ〔国民的帰属nationality〕、ナショナリズム〔国民主義nationalism〕、すべては分析するのはもちろん、定義からしてやたらと難しい。ナショナリズムが現代世界に及ぼしてきた広範な影響力とはまさに対照的に、ナショナリズムについての妥当な理論となると見事なほどに貧困である。ヒュー・シートンワトソンーーナショナリズムに関する英語の文献のなかでは、もっともすぐれたそしてもっとも包括的な作品の著者で、しかも自由主義史学と社会科学の膨大な伝統の継承者ーーは慨嘆しつつこう述べている。「したがって、わたしは、国民についていかなる『科学的定義』も考案することは不可能だと結論せざるをえない。しかし、現象自体は存在してきたし、いまでも存在している」。〔・・・〕

ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単なのだ[It would, I think, make things easier if one treated it as if it belonged with 'kinship' and 'religion', rather than with 'liberalism' or 'fascism'. ]


そこでここでは、人類学的精神で、国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像されると[In an anthropological spirit, then, I propose the following definition of the nation: it is an imagined political community - and imagined as both inherently limited and sovereign. ]〔・・・〕

国民は一つの共同体として想像される[The nation …it is imagined as a community]。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛[comradeship]として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛[fraternity]の故に、過去二世紀わたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。


これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的間題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力[shrunken imaginings]が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛りは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう。(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』1983年)

ナショナリズム、それは戦争だ![Le nationalisme, c'est la guerre !](フランソワ・ミッテラン演説 François Mitterrand, 17 janvier 1995



・・・ということはあるが、とはいえあの動画は面白いね、とくに《私が多くの人に嫌われているのは、私が外交政策でリアリストだからです》とミアシャイマーが言っているのが気に入ったね、リベラル覇権主義信奉者はチョロいんだよ、日本の国際政治学者の大半がそうであるように。


で、リアリストって何だい? 




ボクはモーゲンソーの「人間の本性リアリスト」だろうよ、Lust for power なんてモロ、ニーチェなんだから。



欲動、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[Triebe … "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"](ニーチェ「力への意志」遺稿, 1882 - Frühjahr 1887)

すべての欲動の力は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...(ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)



最も過激なのがモーゲンソーの人間本性リアリズム、最も穏やか版のウォルツの防御的リアリズム、中間にあるのが、ミアシャイマーの攻撃的リアリズムらしいね。




以下、機械翻訳。


人間本性リアリズムは、ときに「古典的リアリズム」と呼ばれることもあるが、モーゲンソーの著作が多くの読者を魅了し始めた1940年代後半から1970年代初頭まで、国際関係研究を支配した。 国家は、生まれながらにして「力への意志」を組み込まれた人間によって率いられるという単純な前提に基づいている。つまり、国家は権力に対する飽くなき欲求、モーゲンソーの言うところの「無限の力への渇き」を持っており、常に攻勢に出て他の国家を支配する機会をうかがっているということである。

人間本性リアリストは、国際的な無政府状態ーー大国を支配する権威の不在ーーが、国家にパワーバランスを懸念させる原因となっていることを認識している。しかし、この構造的な制約は、国家行動の二次的な原因として扱われる。国際政治における主要な原動力は、体制内のすべての国家に内在する力への意志であり、それがそれぞれの国家を覇権獲得に邁進させるのである。

Human nature realism, which is sometimes called "classical realism," dominated the study of international relations from the late 1940s, when Morgenthau's writings began attracting a large audience, until the early 1970s. 32 It is based on the simple assumption that states are led by human beings who have a "will to power" hardwired into them at birth. That is, states have an insatiable appetite for power, or what Morgenthau calls "a limitless lust for power," which means that they constantly look for opportunities to take the offensive and dominate other states.  All states come with an "animus dominandi, " so there is no basis for discriminating among more aggressive and less aggressive states, and there certainly should be no room in the theory for status quo states.

Human nature realists recognize that international anarchy-the absence of a governing authority over the great powers---causes states to worry about the balance of power. But that structural constraint is treated as a second-order cause of state behavior. The principal driving force in international politics is the will to power inherent in every state in the system, and it pushes each of them to strive for supremacy. 


防衛的リアリズムは、しばしば「構造的リアリズム」とも呼ばれ、1970年代後半にウォルツの『国際政治理論』が登場したときに登場した。何よりも安全保障を求めるのである。とはいえ、国際システムの構造上、大国はパワーバランスに注意を払わざるを得ないと彼は主張する。特に、無政府状態では、安全保障を求める国家が互いに力を競い合うことになる。モーゲンソーの理論では人間の本性が安全保障競争の深い原因であるのに対し、ウォルツの理論では無政府状態がその役割を担っている。

Defensive realism, which is frequently referred to as "structural realism." came on the scene in the late 1970s with the appearence of Waltz's Theory of International Politics. i6 Unlike Morgenthau, Waltz does not assume that great powers are inherently aggressive because they are infused with a will to power; instead he stans by assuming that states merely aim to survive. Above all else. they seek security. Nevertheless, he maintains that the structure of the international system forces great powers to pay careful attention to the balance of power. In particular, anarchy forces securityseeking states to compete with each other for power, because power is the best means to survival. Whereas human nature is the deep cause of security competition in Morgenthau's theory, anarchy plays that role in Waltz's theory." 〔・・・〕


攻撃的リアリズムも人間本性リアリズムも、大国が執拗に権力を求めるものとして描かれていることは明らかであろう。この2つの観点の重要な違いは、攻撃的リアリストは、国家が生まれながらにしてA型の人格を備えているというモーゲンソーの主張を否定することである。反対に、国際システムは大国に相対的なパワーの最大化を強いるが、それはそれが自国の安全保障を最大化する最適な方法だからだと考える。言い換えれば、生き残るためには攻撃的な行動を取らざるを得ないということである。大国が攻撃的な行動をとるのは、自分たちがそうしたいからでもなく、支配したいという内なる欲動があるからでもない。

It should be apparent that both offensive realism and human nature realism portray great powers as relentlessly seeking power. The key difference between the two perspectives is that offensive realists reject Morgenthau's claim that states are naturally endowed with Type A personalities. On the contrary, they believe that the international system forces great powers to maximize their relative power because that is the optimal way to maximize their security. In other words, survival mandates aggressive behavior. Great powers behave aggressively not because they want to or because they possess some inner drive to dominate, but because they have to seek more power if they want to maximize their odds of survival. 

(John J. Mearsheimer, The tragedy of Great Power politics, 2001)



私の観点では、ミアシャイマーもいくらかチョロいんだがーーここで触れた以外でもリベラリズムが資本の欲動ーー資本の休みなき《絶対的な致富欲動[absolute Bereicherungstrieb]》(マルクス『資本論』第一巻第二篇第四章第一節[参照])と結婚しているという観点が皆無ーー、世界にはさらにいっそうチョロい連中が跳梁跋扈してるからな、この際妥協しとくよ。



Quo vadis, Ukraine? A conversation with John J. Mearsheimer (EN) 2023/05/27

ミアシャイマー)リアリストは国際政治において最も重要な要素は力だと考えます。国家がどれほど強いかが重要なのです。国家を守ってくれる国家以上の権威的組織がない国際社会では、国家は可能な限り強くなろうとします。弱いと他の国家に利用されてしまうからです。そこで勢力均衡が重要になります。リアリストにとっては、国家が民主主義国か独裁主義国か共産主義国かは重要ではありません[the balance of power matters greatly and realists believe that whether a state is a democracy or an autocracy or a fascist state or a communist state it doesn't matter]。国際社会に国家を超える権威的組織がない以上、各国は力を追い求め最も強い国になるしかないのです。これがリアリズムの基本的な考え方です。

ここで指摘しておきたいのが、西側諸国、特にアメリカと西ヨーロッパでは、リアリズムの考え方は非常に嫌われるということです。民主主義国の振る舞いは権威主義国と同じだというのがリアリズムの主張だからです。西側の「リベラルな」人たちは、"民主主義国は高貴な振る舞いをするが権威主義国はそうじゃない " と思いたがります。西側諸国の大半の人はこう考えるのです、"この世には良い国と悪い国がある"、"良い国とは民主主義国だ"と。リアリストにとっては良い国も悪い国もありません。国際社会の構造的理由により、全ての国が同じように行動するしかないのです。その構造的理由というのは特に国家を超える権威的組織が存在しないことです。



重要なのは、人間本性リアリズムであれ、攻撃的リアリズムであれ、ほっとけば必ず戦争が起こる。リベラリズム/ナショナリズムであれ、自由主義/民主主義であれこの枠組みが続けば、世界戦争は必至である、ーー人間本性リアリストのニーチェは《戦争は不可欠[Der Krieg unentbehrlich]》と言っている[参照]ーー。とすれば現在の座標軸の外に出るようなオルタナティブ(alternative)の道を探らねばならない。だが現在のリアリストにはそれがない。ミアシャイマーだけでなく、例えば伊藤貫あたりにもそれを感じる。ただし彼らは現状分析はきわめて巧みだ。その点は、米ネオコン信者、リベラル覇権主義信者とは大違い。当面の妥協とは何よりもまずこの意味である。