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2024年1月24日水曜日

真の敵から目を逸らしてはならない(レーニン)

 

レーニンは、1918年7月4日に「反ユダヤ運動撲滅に関する告示」を公布した後の演説で次のように要約できることを言っている。


反ユダヤ主義とは、勤労者をして彼らの真の敵、資本家から目をそらせるための資本主義的常套手段にすぎない。ユダヤ人を迫害し、追放せる憎むべきツァー政府よ、呪われてあれ! ユダヤ人に敵対し他民族を憎みたる者よ、呪われてあれ!


これはネット上で拾ったものだが厳密には次のもののようだ。


◼️V. I. Lenin Anti-Jewish Pogroms

Recorded: End of March 1919; 


反ユダヤ主義とは、ユダヤ人に対する敵意を広めることを意味する。呪われたツァーリ君主国がその末期を迎えていた頃、無知な労働者や農民をユダヤ人に対して扇動しようとした。ツァーリ警察は地主や資本家と連携して、ユダヤ人に対するポグロムを組織した。地主や資本家は、欠乏に苦しむ労働者や農民の憎悪をユダヤ人に向けてそらそうとした。他の国々でも、資本家が労働者の目をくらませ、労働者人民の真の敵である資本から注意をそらすために、ユダヤ人に対する憎しみを煽っているのをしばしば目にする。ユダヤ人に対する憎悪が根強いのは、地主や資本家への奴隷制が労働者や農民にひどい無知を生み出している国々だけである。ユダヤ人について流布されている嘘や中傷を信じることができるのは、最も無知で虐げられている人々だけである。これは、聖職者が異端者を火あぶりに処し、農民が奴隷制度で暮らし、人々が押しつぶされて言葉を失った古代の封建時代の生き残りである。この古代の封建的な無知は消え去りつつあり、人々の目が開かれつつある。


Anti-Semitism means spreading enmity towards the Jews. When the accursed tsarist monarchy was living its last days it tried to incite ignorant workers and peasants against the Jews. The tsarist police, in alliance with the landowners and the capitalists, organised pogroms against the Jews. The landowners and capitalists tried to divert the hatred of the workers and peasants who were tortured by want against the Jews. In other countries, too, we often see the capitalists fomenting hatred against the Jews in order to blind the workers, to divert their attention from the real enemy of the working people, capital. Hatred towards the Jews persists only in those countries where slavery to the landowners and capitalists has created abysmal ignorance among the workers and peasants. Only the most ignorant and downtrodden people can believe the lies and slander that are spread about the Jews. This is a survival of ancient feudal times, when the priests burned heretics at the stake, when the peasants lived in slavery, and when the people were crushed and inarticulate. This ancient, feudal ignorance is passing away; the eyes of the people are being opened.


労働者人民の敵はユダヤ人ではない。労働者の敵はあらゆる国の資本家である。ユダヤ人の中にも労働者はおり、彼らが多数派を占めている。彼らは、我々と同じように資本に抑圧されている我々の兄弟であり、社会主義闘争の同志である。ユダヤ人の中にも、ロシア人の中にも、あらゆる国の人々の中にもいるように、クラーク、搾取者、資本家がいる。資本家たちは、異なる信仰、異なる国家、異なる人種の労働者間に憎しみを植え付け、煽り立てるために努力している。働かない者は、資本の力と強さによって権力を維持し続ける。金持ちのユダヤ人は、金持ちのロシア人と同様に、そしてあらゆる国の金持ちは、労働者を抑圧し、粉砕し、強奪し、分裂させるために同盟している。

ユダヤ人を拷問し迫害した呪われたツァーリズムを恥じよ。ユダヤ人への憎しみを煽る者、他国への憎しみを煽る者は恥ずべきだ。

資本打倒の闘いにおけるすべての国の労働者の友愛的信頼と闘う同盟万歳!


It is not the Jews who are the enemies of the working people. The enemies of the workers are the capitalists of all countries. Among the Jews there are working people, and they form the majority. They are our brothers, who, like us, are oppressed by capital; they are our comrades in the struggle for socialism. Among the Jews there are kulaks, exploiters and capitalists, just as there are among the Russians, and among people of all nations. The capitalists strive to sow and foment hatred between workers of different faiths, different nations and different races. Those who do not work are kept in power by the power and strength of capital. Rich Jews, like rich Russians, and the rich in all countries, are in alliance to oppress, crush, rob and disunite the workers.

Shame on accursed tsarism which tortured and persecuted the Jews. Shame on those who foment hatred towards the Jews, who foment hatred towards other nations.

Long live the fraternal trust and fighting alliance of the workers of all nations in the struggle to overthrow capital.





実に「構造主義者」マルクス的演説である。現在においても、イスラエルロビーや世界経済フォーラムなどの資本主義の悪の表象批判するのではなく、これらの背後にある金融資本自体、あるいは資本の《絶対的な致富欲動[absolute Bereicherungstrieb]》に駆り立てられた世界資本主義システム自体を徹底批判せねばならない。


人は資本家のポジションに置かれたら、本人の意識がどうであれ、自己の利益を追求するために他者を搾取するようになる。これがマルクスが繰り返し強調したベンサム主義だ。


マルクスはこう言っている。

人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。Es ist nicht das Bewußtsein der Menschen, das ihr Sein, sondern umgekehrt ihr gesellschaftliches Sein, das ihr Bewußtsein bestimmt.(マルクス『経済学批判』「序言」1859年)

経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。

Weniger als jeder andere kann mein Standpunkt, der die Entwicklung der ökonomischen Gesellschaftsformation als einen naturgeschichtlichen Prozeß auffaßt, den einzelnen verantwortlich machen für Verhältnisse, deren Geschöpf er sozial bleibt, sosehr er sich auch subjektiv über sie erheben mag. (マルクス『資本論』第一巻「第一版序文」1867年)




ここでより理解を深めるために柄谷行人の注釈を掲げておこう。



マルクスは次のように言っている。


ひょっとしたら誤解されるかもしれないから、一言しておこう。私は資本家や土地所有者の姿をけっしてばら色に描いていない。そしてここで問題になっているのは、経済的範疇(カテゴリー)の人格化であるかぎりでの、一定の階級関係と利害関係の担い手であるかぎりでの人間にすぎない。経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」)


ここでマルクスがいう「経済的カテゴリー」とは、商品や貨幣というようなものではなくて、何か商品や貨幣たらしめる価値形態を意味する。 『グルントリセ』においても、マルクスは商品や貨幣というカテゴリーを扱っていた。『資本論』では、彼は、それ以前に、何かを商品や貨幣たらしめる形式に行しているのである。 商品とは相対的価値形態におかれるもの(物、サービス、労働力など)のことであり、貨幣とは等価形態におかれるもののことである。同様に、こうしたカテゴリーの担い手である「資本家」や「労働者」は、諸個人がどこに置かれているか(相対的価値形態か等価形態か)によって規定されそれは彼らが主観的に何を考えていようと関係がない。

ここでいわれる階級は、経験的な社会学的な意味での階級ではない。だから、現在の社会において、『資本論』のような階級関係は存在しないというような批判は的外れである。 現在だけでなく、過去においても、どこでもそのように単純な階級関係は存在しなかった。そして、マルクスが具体的な階級関係を考察するとき、諸階級の多様性、そして言説や文化の多様性について非常に敏感であったことは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』のような仕事を見れば明らかなのだ。一方、『資本論』では、マルクスは、資本制経済に固有の階級関係を価値形態という場において見ている。その意味では、『資本論』の認識はむしろ今日の状況によりよく妥当するといってよい。たとえば、今日で労働者の年金は機関投資家によって運用されている。つまり、労働者の年金はそれ自身資本として活動するのである。その結果、それが企業を融合しリストラを迫ることになり、労働者自身を苦しめることになる。このように、資本家と労働者の階級関係はきわめて錯綜している。 そして、それはもう実体的な階級関係という考えではとらえられないように見える。 しかし、商品と貨幣、というよりも相対的価値形態と等価形態という非対称的な関係は少しも消えていない。『資本論』が考察するてのはそのような関係の構造であり、それはその場に置かれた人々の意識にとってどう映ってみえよう存在するのである。

こうした構造主義的な見方は不可欠である。 マルクスは安直なかたちで資本主義の道徳的非難をしなかった。むしろそこにこそ、マルクスの倫理学を見るべきである。資本家も労働者もそこでは主体ではなく、いわば彼らがおかれる場によって規定されている。 しかし、このような見方は、読者を途方にくれさせる。……(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」p40-41)



「構造主義的な見方」とあるが、構造主義の始祖レヴィ=ストロースは自伝『悲しき熱帯』で、「私の二人の師」として、マルクスとフロイトを挙げている。さらに『野生の思考』ではこう記している。


要素自体はけっして内在的に意味をもつものではない。意味は「位置によって」きまるのである。それは、一方で歴史と文化的コンテキストの、他方でそれらの要素が参加している体系の構造の関数である(それらに応じて変化する)。 éléments,…Les termes n'ont jamais de signification intrinsèque ; leur signification est « de position », fonction de l'histoire et du contexte culturel d'une part, et d'autre part, de la structure du système où ils sont appelés à figurer.(レヴィ=ストロース『野性の思考』1962年)



マルクスが言っているのはまさにこの考え方なのである。人間は社会的関係の「位置によって」決まる。これが『資本論』序文の《個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである》の意味である。


柄谷はさらに次のようにも注釈している。


マルクスは『資本論』においていっている、貨幣が一商品であることを見ることはたやすいが、問題は、一商品がなぜいかにして貨幣となるかを明らかにすることだ、と。彼がボナパルトについていうのも同じことだ。ボナパルトに「痛烈にして才気あふるる悪口をあびせかけた」 ヴィクトル・ユーゴーに対して、マルクスは、「私は平凡奇怪な一人物をして英雄の役割を演ずることをせしめた情勢と事件とを、フランスの階級闘争がどんな風につくりだしていったかということをしめす」と書いている(『ブリュメール一八日』「第二版への序文」同前)。ユゴーのような批判を幾度くりかえしても、それは貨幣がただの紙きれだというのと同じく、何の批判にもならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第1章「移動と批判」第2節「代表機構」)




そう、イスラエルロビーや、シュワブ組に対して「痛烈にして才気あふるる悪口をあびせかけ」 ても詮無きことである。これらの集団がなくなっても我々が世界資本主義の掌の上の猿である限り、類似集団がすぐ湧き起こる。


我々にとって最も重要なのは資本主義のメカニズムへの徹底批判と代替世界システムの模索である。



マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できない。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらだ。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することである。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければならない。

Je ne comprends pas ce que les gens veulent dire quand ils prétendent que Marx s'est trompé. Et encore moins quand on dit que Marx est mort. Il y a des tâches urgentes aujourd'hui: il nous faut analyser ce qu'est le marché mondial, quelles sont ses transformations. Et pour ça, il faut passer par Marx:(ドゥルーズ「思い出すこと」死の2年前のインタビュー、1993年