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2024年4月4日木曜日

ラテン語 paterは母

 


石塚正英氏は、フェティシズムとアニミズムの関係を問うためにネット上で検索するとしばしば行き当たる名で、以前にも一度引用したことがあるのだが[参照]、学者らしからぬ方のようで、次のような発言をされている。


いま政府は大学に軍事研究を押し付けてきます。しかも、科学研究費の分配という兵糧をちらつかせながら。先月には千葉市の幕張メッセで国内初の武器見本市が開催されました。私たちの意識の中に軍事が当然のような雰囲気を醸し出しています。そういう時代に今はなった。  


私の勤めている東京電機大学の研究者、技術者の中には、「石塚さんはそう言うけれども、私なんかいろんな企業と共同研究をやっていて、その中には軍事技術や武器の部品もあると言われます。だから、研究してはいけないと言っても無理だよ。否が応でもそうなっていく」と言います。私は、その現状をダイレクトに批判してはいないよね。そういう方向を受け入れる大学の在り方を倫理問題として考えなければいけないということを書いた。(石塚正英 『歴史知の知平 あるいは【転倒の社会哲学】 ――研究生活 50 年によせて―― 』2019 年 12 月 1 日、PDF


実にすぐれた指摘だね、悪い臭いがするからな、最近の研究者は。この2年強のあいだウクライナ紛争を契機にして国際政治学者の発言を眺めてつくづくそう感じてきたがね。科研費絡みで一度「あの連中のきわめて「悪い臭い」」という投稿をしたことがあるが。




私が感心した石塚正英氏の本職のほうの発言も抜き出しておこう。

(4)ド・ブロスとフォイエルバッハのフェティシズム 


私の研究の奥深いところというか、ベースには合理主義や科学知によって拒否された、先住民的、先史的な文化への接近があります。その代表がフェティシズムという人間精神・儀礼行動です。基本的には宗教前の儀礼ですが、これは価値転倒そのものの儀礼なわけで、善と思う基準、悪と思う基準は、ある儀礼により入れ替わってしまう。その儀礼をフェティシュという神を持ち出して執り行います。人はフェティシュを崇拝し、信仰する。しかし、あるとき、役立たずになれば違うフェティシュに代える。その好例は先ほどお話ししたポルトガル兵の持っていた鉄砲です。ワニの鱗を機関銃に代えていく。フェティシュそのものの信仰は持っているけれども、フェティシュという神が、自分たちと相対していて使い物にならなかったら捨てていってしまう。 


現代人であれば、これは善なのだという基準は決まっている。でも、フェティシズムの世界では入れ替わることがあるわけです。それが私の研究で土台になっているものなのです。来年 3 月頃に社会評論社から刊行予定の『価値転倒の社会哲学―ド・ブロスを基点に』でまとめます。 〔・・・〕


(5)バッハオーフェンの母方オジ権 


さて、さらにもう一人。ヨーハン・ヤーコブ・バッハオーフェンの母方オジ権、これもまた一つの概念をひっくり返しています。私の話を聞くと驚くよ。結論を言うと、母も父だということ。問題は、父という言語 pater です。ラテン語の pater に、最初は「父」という意味などないです。日本古代の語彙でも妻は女とは限らなかったでしょう。妻はパートナーという意味でしょう。男も妻だよね。女も妻です。でも、その後、妻といったら、パートナーは女だけになっていった。  


それと少し違うのですが、バッハオーフェンは 1861 年に『母権論』をバーゼルで出版するのだけれども、そこでの議論を紹介します。母権は物的な権力ではなく、どちらかというと心情的な権威のほうです。あるいはモラルというか。お母さんだけは自分の産んだ子どもを知っている。それから、氏族の中で子どもは育ちますが、お父さんは別氏族にいる。お父さんはときどきお母さんと子どものいる氏族にやってきて、夫婦の仲を契る。お父さんはまた元の氏族に戻っていく。  


ならば、たいがいはお母さんが子どもたちの保護者でしょう。そして、ラテン語 paterの「pa」は保護、 「ter」は人を意味します。 「pa」する人で「pater」、保護人となります。


お母さんが保護者だったころから pater という言葉はある。そのころはまだファミリーが生まれていない、あるいは確立していないので、お父さんは一緒に住んでいない。なので、子どもたちがお父さんに育てられること、保護されることはないわけです。言語学的にも社会組織的にも pater という言葉が最初に当てはまるのは母たちです。私の独断のようなもので、みなに反論されるかもしれないけれども、もともとはお母さんが pater であったこともある。 

(石塚正英 『歴史知の知平 あるいは【転倒の社会哲学】 ――研究生活 50 年によせて―― 』

2019 年 12 月 1 日)



これまたひどく面白い。かなり前引用したことのある松田義幸・江藤裕之の、これまた主にバッハオーフェンに依拠した論『古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描』(2007年)の記述を思い出したね。


インド・ヨーロッパ言語文化圈に見る、ma、mah、man、mana、manas、manos、men、mene、met、meter、materといったma、meを含んだ単語は、月女神の「創造の言葉」のlogos、Omから派生したものである。


そもそも、今日、manは「男」を意味しているが、これは「女」を意味していたのだ。manは万物創造の月女神であり、祖霊のmanesの母であった。サンスクリットのmanも、「真言」のMantraに見るように、月女神と叡智を意味していた。ma、meを語源にして派生した現在の英単語を見ると、「母親」と「物質(創造物)」と「叡智」「測定」に関するものが多い。

maという基本音節は、インド·ヨーロッパ言語文化圏でも、「母親」と「女神」を意味している。mother, materal (母の)、matron (既婚婦人)、matrix (母体), menses (月経)、menage/manage(家庭、家事、家政、世帯、管理)。


次に、「創造物の根源」に関してみると、matter (物質)、material(材料)、mud (泥)等がある。「女神」「女神の叡智」に関しては、moon、Mut (母神)、Maat (娘神)、Demeter、Muses、Mnemosyne (記憶の女神)、Menrva (Minerva)、omen (前兆、月、啓示)、amen (アーメン、再生の月)、mind, mentality等ある。


「学問」「測定」に関しては、mathematics (数学)、matrix (行列)、metrics (計量学)、mensuration (測定法)、meter (配分)、geometry (幾何学)、mete (配分)、 trigonometry (三角法)、hydrometry(液量測定)、meter (計器)等がある。


これら語源から派生した単語を見ると、自然と共に生きていた時代の女性たちは、宇宙原理、自然原理、女性原理に従った「創造→維持→破壊」の三相一体の周期、循環に生まれながらにして熟知していたことがよく分かる。

女性は経血(menstrul blood)の周期と月の朔望の周期、潮の干満の周期が密接に関係していることから、天文に関する研究を文化、文明の基礎学問とみなしていた。天文に関する「母親の知恵」が学問のmathesisであり、「天文の学問のある母親たち」をMathematici と呼んでいた。今日の「数学」を意味するmathematicsの語源である。特に、月女神に仕える巫女はその能力に長じたsybilsで、女神Cybeleと同語源である。(「古代母権制社会研究の今日的視点 一 神話と語源からの思索・素描」、 松田義幸・江藤裕之、2007年、PDF



こういったことを研究するのが根源的フェミニストじゃないかね、日本の「標準的な」フェミニズム研究はチョロ過ぎるよ。


日本のフェミニストがまったくついていけていない真のフェミニストのひとりにクリスティヴァがいるが、ここでは彼女のパートナーであるソレルスの文を掲げておこう。


世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …

Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes, et depuis toujours elles le savent et elles ne le savent pas, elles ne peuvent pas le savoir vraiment, elles le sentent, elles le pressentent, ça s'organise comme ça. Les hommes? Écume, faux dirigeants, faux prêtres, penseurs approximatifs, insectes... Gestionnaires abusés... Muscles trompeurs, énergie substituée, déléguée...(ソレルス『女たち』1983年)