いやあキミ、臭いを嗅ぐんだよ、池内恵とその愉快な仲間たちの。前回は品が落ちるので、敢えて示さなかったが、少しでも連中を観察したことがある人なら、彼らにひどい悪臭を感じ取ってしまう者は、よほどニブくなければ、いくらでもいるよ。
ーーこれ自体、私は国際政治学者集団に限らずもっと一般化した仕方で、《大学人は不可視の行政機関の音楽に踊る奴隷》で示している。なによりも科研費取得だな、それが大学人を政府機関の無意識的な工作員にする。
僕は宇露紛争が始まって一年たったころから、連中の悪い臭いにひどい吐き気がするようになったので、もう観察するのをやめたけどさ、別にニーチェのような「潔癖な本能」が備わっていなくても、鼻がつまってなかったらこれは当然の感性だよ。
最後に、わたしの天性のもうひとつの特徴をここで暗示することを許していただけるだろうか? これがあるために、わたしは人との交際において少なからず難渋するのである。すなわち、わたしには、潔癖の本能がまったく不気味なほど鋭敏に備わっているのである。それゆえ、わたしは、どんな人と会っても、その人の魂の近辺――とでもいおうか?――もしくは、その人の魂の最奥のもの、「内臓」とでもいうべきものを、生理的に知覚しーーかぎわけるのである……[so daß ich die Nähe oder – was sage ich? – das Innerlichste, die »Eingeweide« jeder Seele physiologisch wahrnehme – rieche...] わたしは、この鋭敏さを心理的触覚として、あらゆる秘密を探りあて、握ってしまう。その天性の底に、多くの汚れがひそんでいる人は少なくない。おそらく粗悪な血のせいだろうが、それが教育の上塗り(育ち)によって隠れている。 Ich habe an dieser Reizbarkeit psychologische Fühlhörner, mit denen ich jedes Geheimnis betaste und in die Hand bekomme: der viele verborgene Schmutz auf dem Grunde mancher Natur, vielleicht in schlechtem Blut bedingt, aber durch Erziehung übertüncht, wird mir fast bei der ersten Berührung schon bewußt. |
そういうものが、わたしには、ほとんど一度会っただけで、わかってしまうのだ。わたしの観察に誤りがないなら、わたしの潔癖性に不快の念を与えるように生れついた者たちの方でも、わたしが嘔吐感を催しそうになってがまんしていることを感づくらしい。だからとって、その連中の香りがよくなってくるわけではないのだが……(ニーチェ『この人を見よ』1888年) |