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2023年7月5日水曜日

池内恵と細谷雄一の「工作員」発言


 最近は中堅世代の「国際政治学者」のツイートを眺めることはほとんどしていないのだが、さる人のツイートで、池内恵が、大庭三枝や東野篤子へのいわゆる「親露派」の反応に触れつつ、「某国工作アカウント」という語を4月に使っているのを今ごろ知った。




この話のベースにある大庭三枝とその絡みは次のもののようだ。


「侵略行為を自衛と主張するなど」ことが、戦前の大日本帝国と今回のロシアとの類似点だという考え方に対して、池内恵が「ロシア工作員」としているだけではなかろうがーーおそらくそれ以外にも諸々の反応に対して言っているのだろうがーー、この言葉の使い方は、学者としてはひどくマズイのではないか。


ウクライナのネオナチの危険性を早い段階で指摘した清義明が昨年の4月、細谷雄一の「工作員」ツイートにこう反応していたが。


清義明 @masterlow Apr 4 2022

先日の「60-70年代左翼は親ソ」発言あたりから、メーター振り切りだしたので、いろいろやらかすのではないか、この方は。

ついに工作員認定(というか妄想)・・・


Yuichi Hosoya 細谷雄一  @Yuichi_Hosoya Apr 4


ロシアのプロパガンダ、影響力工作について、かなりの程度同じパターン(「ネオナチ」「アゾフ大隊」「アメリカの非人道性」)が繰り返されているので、それをかなりの頻度で連日繰り返しているアカウントは、相当程度、ロシア政府との繋がりのある工作活動であることを、自ら証明しているのはないか。


清義明@masterlow


まあ仮にそういう推測が成り立つとしたら、ご自分はウクライナの工作員と言われても仕方ないのでは。


というか、ネットにそんなヤツごろごろいるだろ、と。


私は、中堅の国際政治学者たちがこういうことを言ってしまうようになっている「集団的症状」にはいまだ関心がある。彼ら個々人にはもはやまったく関心がないが。

フロイトは『集団心理学と自我の分析』でシラーの《だれもがひとりひとりみるとかなり賢くものわかりがよい。だが一緒になるとたちまち馬鹿になってしまう。》(シラー『クセーニエン』ーーゲーテとの共著[Goethe und Schiller Xenien]1796年)を引きつつ議論を展開し、集団になると《情動興奮と思考制止》を生む等々としている参照]。

私はあれら国際政治学者集団が、無意識的な「米ネオコンの工作員」になってしまっているのではないかと疑っている。さらに、彼らは冷戦終了後に政治学を学んだ世代であり、米一極集中覇権主義の環境の下で、米ネオコンイデオロギーに洗脳されているのではないか、とも。

ここでは何度か掲げているジェフリー・サックスの米ネオコンをめぐる記述を再掲しておこう。

ネオコンの主要なメッセージは、米国は世界のあらゆる地域で軍事的に優位に立たなければならず、いつの日か米国の世界または地域の支配に挑戦する可能性のある地域の新興勢力、特にロシアと中国に立ち向かわなければならない、というものである。この目的のために、米国の軍事力は世界中の何百もの軍事基地にあらかじめ配置され、米国は必要に応じて選択の戦争を導く準備をしなければならない。国連は、米国の目的に役立つときだけ、米国が利用するものだ。〔・・・〕

ネオコンは、2008年にジョージ・W・ブッシュ・ジュニアの下で米国の公式政策となる以前から、ウクライナへのNATO拡大を唱えていた[The neocons championed NATO enlargement to Ukraine even before that became official US policy under George W. Bush, Jr. in 2008.]。彼らは、ウクライナのNATO加盟が米国の地域的・世界的支配の鍵になると考えていたのである。

(ジェフリー・サックス「ウクライナは最新のネオコン大災害」

Ukraine is the latest neocon disaster By Jeffrey Sachs June 28, 2022

こういった指摘はサックスだけでなく数多くある、➡︎「ほぼすべての学者を含むほとんどの市民が気づいていない事」。


ここでさらに、英語圏ではラカン派の代表的論者と言ってよいだろう、ポール・バーハウの「教育と洗脳」をめぐる記述を掲げておく。


教育は常に、シニフィアンを送り届ける過程、つまり教師から生徒へと、知を受け渡す過程である。この受け渡しは、陽性転移があるという条件の下でのみ効果的である。人は愛する場所で学ぶ。

これは完全にフロイト派のタームで理解できる。主体は大他者のシニフィアンに自らを同一化する。すなわち、この大他者に陽性転移した条件の下に、この大他者によって与えられた知に同一化する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility. 2011年)

コミュニケーションとしての言語の機能。この機能で重要なのは、メッセージというよりも、むしろ送り手と受け手の関係である。この関係によって、メッセージがどのように受け取られるか、あるいは受け取られないかが決まり、より具体的には、メッセージが「取り込まれ」、保持されるか、あるいは送り手の外に戻されるかが決まる。

教育はこの典型的な例である。人は「学ぶ」、つまり、肯定的な伝達関係においてシニフィアンを取り込むのである。これは、実際に教えられることの正確さや不正確さよりも、はるかに決定的な重要性を持っている。その結果、すべての教育は、洗脳の機会となる危険性をはらんでいる[all education runs the risk of turning into an opportunity for indoctrination.](Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)


より詳しくは教育と洗脳」を参照されたし。

…………


池内恵は昨年来、「どっちもどっち論」の気配がわずかにでもある論考を「アホか」のたぐいの語を使って強く非難してきた人物である。


つまり池内恵や細谷雄一、さらに篠田英朗などは、ロシア絶対悪の「狂信者」にほかならない。



あれら国際政治学者集団の、ロシアにわずかでも親和性を示した見解に対する反応は、この一年4ヶ月、「絵のごとく」同じ構造をもっている。


信念は牢獄である[Überzeugungen sind Gefängnisse]。それは十分遠くを見ることがない、それはおのれの足下を見おろすことがない。しかし価値と無価値に関して見解をのべうるためには、五百の信念をおのれの足下に見おろされなければならない、 ーーおのれの背後にだ・・・〔・・・〕


信念の人は信念のうちにおのれの脊椎をもっている。多くの事物を見ないということ、公平である点は一点もないということ、徹底的に党派的であるということ[Partei sein durch und durch]、すべての価値において融通がきかない光学[eine strenge und notwendige Optik in allen Werten] をしかもっていないということ。このことのみが、そうした種類の人間が総じて生きながらえていることの条件である。〔・・・〕


狂信家は絵のごとく美しい、人間どもは、根拠に耳をかたむけるより身振りを眺めることを喜ぶものである[die Menschheit sieht Gebärden lieber, als daß sie Gründe hört...](ニーチェ『反キリスト者』第54節、1888年)


……………

なおここでの工作員用語は、上に示したように、厳密には「某国工作アカウント」(池内恵)、「ロシア政府との繋がりのある工作活動」のアカウント(細谷雄一)であり、この二人は、ロシア工作員アカウントが跳梁跋扈していると「ほとんどマガオで」言っているのである。


他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させる。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。

Eine Reihe von Vorwürfen gegen andere Personen läßt eine Reihe von Selbstvorwürfen des gleichen Inhalts vermuten. Man braucht nur jeden einzelnen Vorwurf auf die eigene Person des Redners zurückzuwenden. Diese Art, sich gegen einen Selbstvorwurf zu verteidigen, indem man den gleichen Vorwurf gegen eine andere Person erhebt, hat etwas unleugbar Automatisches.

(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905年)

自己を語る遠まわしの方法[une manière de parler de soi détournée]であるかのように、人が語るのはつねに他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ[qui joint au plaisir de s'absoudre celui d'avouer.]。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)



そして私がこの記事を記した起源は本日付の次のツイートにある。


※参照:「あの連中のきわめて悪い臭い