2024年5月4日土曜日

芸術家が政治的なことに関わらない「口実」


 昔ーー2015年だからもう10年近く前だがーージイドとプルーストをセットで引用しているな、政治的なことにウンザリしていた時期だと思うが。ジイドの日記は仏原文にも行き当たったので、ここに併せて付け加えておく。


今日、社会問題が、私の思想を占めているのは、創造の魔神が退いたからである。これらの問題は、創造の魔神がすでに敗退したのでないなら、席を占めることはできなかったのである。どうして自己の価値を誇称する必要があろう、(かつてトルストイに現れたもの)、すなわち否定し難い減退を自分のうちに認めることを何故拒否する要があろう。(「ジイドの日記」1932 年 7 月 19 日)

Si les questions sociales occupent aujourd'hui ma pensée, c'est aussi que le démon créateur s'en retire. Ces questions n'occupent la place que l'autre ne l'ait déjà cédée. Pourquoi chercher à se surfaire ? refuser de constater en moi (ce qui m'apparaît en Tolstoï) ; une indéniable diminution ?

Andre Gide Journal, [19 juillet 1932]



プルーストのほうは、ドゥルーズが『プルーストとシーニュ』で長々と引用している「未知のシーニュ」signes inconnusーー 井上究一郎訳では「未知の表徴」と訳されているーーをめぐる箇所だ。作家が政治に関わるのは彼らが才能を持っていないか、才能が枯渇したからだとあり、これは明らかにジイドの「創造の魔神の減退」le démon créateur s'en retireとともに読むことができる。



未知の表徴(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状の表徴)、そんな未知の表徴をもった内的な書物といえば、それらの表徴を読みとることにかけては、誰も、どんな規定〔ルール〕も、私をたすけることができなかった、それらを読みとることは、どこまでも一種の創造的行為であった、その行為ではわれわれは誰にも代わってもらうことができない、いや協力してもらうことさえできないのである。

Le livre intérieur de ces signes inconnus (de signes en relief, semblait-il, que mon attention explorant mon inconscient allait chercher, heurtait, contournait, comme un plongeur qui sonde), pour sa lecture personne ne pouvait m'aider d'aucune règle, cette lecture consistant en un acte de création où nul ne peut nous suppléer, ni même collaborer avec nous. 〔・・・〕


だから、いかに多くの人々が、そういう書物の執筆を思いとどまることだろう! そういう努力を避けるためなら、人はいかに多くの努力を惜しまないことだろう! ドレフェス事件であれ、今次の戦争であれ、事変はそのたびに、作家たちに、そのような書物を判読しないためのべつの口実を提供したのだった。彼ら作家たちは、正義の勝利を確証しようとしたり、国民の道徳的一致を強化しようとしたりして、文学のことを考える余裕をもっていないのだった。

しかし、それらは、口実にすぎなかった、ということは、彼らが才能〔ジェニー génie〕、すなわち本能をもっていなかったか、もはやもっていないかだった。なぜなら、本能は義務をうながすが、理知は義務を避けるための口実をもたらすからだ。ただ、口実は断じて芸術のなかにはいらないし、意図は芸術にかぞえられない、いかなるときも芸術家はおのれの本能に耳を傾けるべきであって、そのことが、芸術をもっとも現実的なもの réel、人生のもっとも厳粛な学校、そしてもっとも正しい最後の審判たらしめるのだ。そのような書物こそ、すべての書物のなかで、判読するのにもっとも骨の折れる書物である、と同時にまた、現実réalité がわれわれにうながした唯一の書物であり、現実そのものによってわれわれのなかに「印刷=印象 impression」された唯一の書物である。


人生がわれわれのなかに残した思想が何に関するものであろうとも、その思想の具体的形象、すなわちその思想がわれわれのなかに生んだ印象の痕跡は、なんといってもその思想がふくむ真理の必然性を保証するしるしである。単なる理知のみのよって形づくられる思想は、論理的な真実、可能な真実しかもたない、そのような思想の選択は任意にやれる。われわれの文字で跡づけられるのではなくて、象形的な文字であらわされた書物、それこそがわれわれの唯一の書物である。といっても、われわれが形成する諸般の思想が、論理的に正しくない、というのではなくて、それらが真実であるかどうかをわれわれは知らない、というのだ。


印象だけが、たとえその印象の材料がどんなにみすぼらしくても、またその印象の痕跡がどんなにとらえにくくても、真実の基準となるのであって、そのために、印象こそは、精神によって把握される価値をもつ唯一のものなのだ、ということはまた、印象からそうした真実をひきだす力が精神にあるとすれば、印象こそ、そうした精神を一段と大きな完成にみちびき、それに純粋のよろこびをあたえうる唯一のものなのである。


作家にとっての印象は、科学者にとっての実験のようなものだ、ただし、つぎのような相違はある、すなわち、科学者にあっては理知のはたらきが先立ち、作家にあってはそれがあとにくる。われわれが個人の努力で判読し、あきらかにする必要のなかったもの、われわれよりも以前にあきらかであったものは、われわれのやるべきことではない。われわれ自身から出てくるものといえば、われわれのなかにあって他人は知らない暗所[l'obscurité qui est en nous et que ne connaissent pas les autres] から、われわれがひっぱりだすものしかないのだ。……(プルースト「見出された時」)



ーー芸術家が政治的なことに関わらない「口実」としては、このプルーストの文が最も説得的なもののひとつじゃないかね。


で、《われわれのなかにあって他人は知らない暗所》って何だろ?


あるいは、対象の鞘ではなく《自分自身の内部にのびている》ものって?


人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。

それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに[de la nature, de la société, de l'amour, de l'art lui-même]、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている[toute impression est double, à demi engainée dans l'objet, prolongée en nous-mêmes par une autre moitié]。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」)




私はこの「未知の表徴=われわれのなかにあって他人は知らない暗所=対象の鞘ではなく自分自身の内部にのびているもの」についてのそれなりの「解釈」があるんだが、ここではバルトの「身体の記憶」la mémoire du corpsだけを掲げておくよ。



私の身体は、歴史がかたちづくった私の幼児期である[mon corps, c'est mon enfance, telle que l'histoire l'a faite]〔・・・〕

匂い、疲れ、声の響き、流れ、光、リアルから来るあらゆるものは、どこか無責任で、失われた時の記憶を後に作り出す以外の意味を持たない[des odeurs, des fatigues, des sons de voix, des courses, des lumières, tout ce qui, du réel, est en quelque sorte irresponsable et n'a d'autre sens que de former plus tard le souvenir du temps perdu ]〔・・・〕


幼児期の国を読むとは、身体と記憶によって、身体の記憶によって、知覚することだ[Car « lire » un pays, c'est d'abord le percevoir selon le corps et la mémoire, selon la mémoire du corps. ](ロラン・バルト「南西部の光 LA LUMIÈRE DU SUD-OUEST」1977年)



私は当面、この「失われた時の記憶=身体の記憶」に関わっているように見える者たちのみを、彼らがこの今「非政治的」であっても許すことにしている。で、この「未知のシーニュ」に関わっている者たちはツイッターなどで駄弁を弄する暇はないんじゃないかね。


ま、これは厳密にいえば極論で、そのほかにもフロイト曰くの病人のエゴイズム[Egoismus der Kranken]》等々あるがね。とはいえこれを言い出したらキリがなくて、フロイトにとってリビドーの固着は原症状だが、では例えば、マドレーヌへの固着をしているヒトはどうなの、許すの?と問われたら答えに詰まるね。