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2024年8月16日金曜日

柄谷書評「フェティッシュとは何か」

 

先日、柄谷行人が事実上、「フェティッシュの問題について、もっと踏み込んで書かないと」と言っているのを見たが、柄谷はウィリアム・ビーツの『フェティッシュとは何か ―その問いの系譜』の書評をしているのを見出したので、ここに備忘として掲げる。


◾️「フェティッシュとは何か」書評 交易商人の驚きから現れた言葉

評者: 柄谷行人 / 朝⽇新聞掲載:2018年09月29日

 フェティシズムという概念は、フランスの思想家ド・ブロスが『フェティシュ諸神の崇拝』(1760年)で定式化したもので、アフリカの住民の間で行われていた護符・呪物崇拝を意味していた。アダム・スミス以来経済学者が商品の価値をその生産に要した労働から来ると考えたのに対して、マルクスは『資本論』で、物の交換価値を、物に付着したフェティッシュ(霊の力)のようなものだと考えた。そして、それが商品から貨幣・資本に発展する姿を、「精神」(霊)の発展を論じたヘーゲル哲学に合わせて書いた。


 しかし、以後、このフェティシズムが重視されなかったことにはいくつかの理由がある。『資本論』第一巻初版(1867年)が刊行されてまもなく、エドワード・タイラーが『原始文化』を刊行し、そこで提起したアニミズムという概念が支配的となった。さらに、アルフレッド・ビネーがフェティシズムを性的倒錯の意味で使ったことも大きい。以来、フェティシズムはむしろ、嘲笑的なジョークとして扱われてきたのである。マルクス主義者もルカーチ以後、もっぱら物象化(人間と人間の関係が物と物の関係としてあらわれること)を論じ、フェティシズムについては真面目に考えなかった。

 本書が独自なのは、フェティシズムがいかに生じたかを理論的に考察するかわりに、フェティッシュという言葉がいかに出現したかを歴史的に考察したことである。〝フェティソ〟は、アフリカにあった言葉ではなく、ラテン語から作られた新造語であった。そして、それは、十五世紀に、ポルトガルの商人がアフリカ人と交易したことから生じた。彼らは、西洋人がガラクタと見なす物を得るために、アフリカ人がすすんで金を手放すのを見て、驚きあきれて、それをフェティッシュと呼んだのである。以来、一六世紀から一七世紀に、スペイン人、オランダ人が西アフリカに交易のために到来したが、その間にこの言葉が定着した。さらに、ド・ブロスがそれを一般理論化し、キリスト教でいう偶像崇拝と区別して、フェティシズムと呼んだ。


 本書が示すのは、フェティシズムが、アフリカあるいは未開社会にあったものではなく、それが西洋の商人資本主義と遭遇したときに見出されたということである。著者によれば、それは「キリスト教封建制、アフリカの氏族制、そして商業資本家的社会システム」という三角形の中で生まれた。思えば、フェティッシュという概念は、未開社会にあったというより、近代の西洋人をかきたてた、商品・貨幣の物神崇拝から生まれたのである。そして、それは今もますます、世界を席巻している。



というわけだが、語源的には交易商人の驚きから現れた言葉〝フェティソ〟であるにしろーー私は今までウィリアム・ビーツを何度か引用してきたがーービーツは次のようにも記している。


最初期のフェティッシュの言説は、魔術と女性のセクシャリティのコントロールに関わる。The earliest fetish discourse concerned witchcraft and the control of female sexuality. 〔・・・〕


フェティッシュ的固着の起源は、欲望を構造化するための単独的な個人的出来事の力にあった。トラウマ的固着、反復強迫の源泉としての固有の強度をもった出来事への固着の考え方は、もちろん性的フェティッシュの精神分析的概念の根源である。

the origin of the fetishistic fixation was in the power of a singular personal event to structure desire. The idea of traumatic fixation upon a specific intense experience as the source of a repetition compulsion is, of course, fundamental to the psychoanalytic notion of the sexual fetish. (WILLIAM PIETZ, The problem of the fetish, 1985年、PDF


ーーこのフェティッシュ的固着、あるいはトラウマ的固着が何よりも肝腎じゃないかな。


そもそも柄谷が頻用するフロイトの「抑圧されたものの回帰」はこの固着への回帰なのだから。


侵入、抑圧されたものの回帰[…des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen.]

この侵入は固着点から始まる。そしてリビドー的展開の固着点への退行を意味する[Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle zum Inhalte.](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年)

現実では満たされることのないリビドーの鬱積は、過去の固着への退行の助けを借りて、抑圧された無意識を通して捌け口を見出す。Eine nicht real zu befriedigende Libidostauung schafft sich mit Hilfe der Regression zu alten Fixierungen Abfluß durch das verdrängte Unbewußte. (フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)


柄谷行人がしきりに依拠する『モーセと一神教』にも次のようにある。

一方は、古い家族の歴史への固着とその残存、もう一方は、過去の復活、長い間隔をおいての忘れられたものの回帰[einerseits Fixierungen an die alte Familiengeschichte und Überlebsel derselben, anderseits Wiederherstellungen des Vergangenen, Wiederkehren des Vergessenen nach langen Intervallen.   ](フロイト『モーセと一神教』3.1.4  Anwendung)

忘れられたものは消去されず「抑圧された」だけである[Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年)


ウィリアム・ビーツの簡潔明瞭な指摘ーーフェティッシュ的固着ーー、これを徹底的に「踏み込んで」書いてほしいね、柄谷が『力と交換様式』の次に予定している書には。



「初期の」性的刻印に関して…精神分析は新しい病因的固着[pathologische Fixierungen ]が、五歳あるいは六歳以降に起こりうるかを疑っている。

alle diese »frühzeitigen« Sexualeindrücke… während die Psychoanalyse daran zweifeln läßt, ob sich pathologische Fixierungen so spät neubilden können. 


真の解釈は、フェティッシュの発生の最初の記憶の背後に、埋没され忘れられた性的発達の最初の記憶の段階があり、それがフェティッシュによって表象される。それは、あたかも「隠蔽記憶 Deckerinnerung」によるようにして、フェティッシュはこの記憶の残滓と沈殿物を表象するのである。つまり幼児期の最初の数年のこの段階に、フェティシズムとフェティッシュの選択が構成的に決定づけられる。


Der wirkliche Sachverhalt ist der, daß hinter der ersten Erinnerung an das Auftreten des Fetisch eine untergegangene und vergessene Phase der Sexualentwicklung liegt, die durch den Fetisch wie durch eine »Deckerinnerung« vertreten wird, deren Rest und Niederschlag der Fetisch also darstellt. Die Wendung dieser in die ersten Kindheitsjahre fallenden Phase zum Fetischismus sowie die Auswahl des Fetisch selbst sind konstitutionell determiniert.. (フロイト『性理論三篇』第1篇、1905年、1920年注)


このフェティッシュ的固着、あるいは隠蔽記憶を「抑圧されたもののーー高次元でのーー回帰」としての交換様式Dになんとか結びつけたいところだよ、ボクなんかこのところずっとそればかり考えてるんだが(?)いかんせんマルクスに浅薄な知しかなくて、あと20年ぐらいかかりそうでもう死んでるよ。


隠蔽記憶が大事じゃないかといまのところ思案してないではないが。

隠蔽記憶…幼児期から来る本質的なものはたんにいくつかではなく実際にはすべてがこの隠蔽記憶のなかに保持されている。Deckerinnerungen…In diesen ist nicht nur einiges Wesentliche aus dem Kindheitsleben erhalten, sondern eigentlich alles Wesentliche.(フロイト 『想起、反復、徹底操作』1914年)

幼児期のある出来事が記憶の中に現れるのは、それ自体が黄金であるからというのではなく、それが黄金のそばに置かれているからである。ein gewisses Erlebnis der Kinderzeit kommt zur Geltung im Gedächtnis, nicht etwa weil es selbst Gold ist, sondern weil es bei Gold gelegen ist. (フロイト『隠蔽記憶について Uber Deckerinnerungen』1899年)


この黄金がひょっとしてエデンの園じゃないかな、とね・・・《人類はエデンの園にいたとき、いわば原遊動的な状態にあった。しかし、それは定住化とともに失われ、A・B・Cが支配する社会が形成された。ゆえに、エデンの園に戻ることが目指される。それがDであるといってもよい。》(柄谷行人『力と交換様式』2022年)