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2024年8月16日金曜日

フェティシズムとアニミズムの相違

 

前回掲げた『フェティッシュとは何か?──その問いの系譜. ウィリアム・ピーツ 』(杉本隆司訳)の柄谷行人の書評の一部を再掲する。

…マルクスは『資本論』で、物の交換価値を、物に付着したフェティッシュ(霊の力)のようなものだと考えた。そして、それが商品から貨幣・資本に発展する姿を、「精神」(霊)の発展を論じたヘーゲル哲学に合わせて書いた。


 しかし、以後、このフェティシズムが重視されなかったことにはいくつかの理由がある。『資本論』第一巻初版(1867年)が刊行されてまもなく、エドワード・タイラーが『原始文化』を刊行し、そこで提起したアニミズムという概念が支配的となった。さらに、アルフレッド・ビネーがフェティシズムを性的倒錯の意味で使ったことも大きい。以来、フェティシズムはむしろ、嘲笑的なジョークとして扱われてきたのである。マルクス主義者もルカーチ以後、もっぱら物象化(人間と人間の関係が物と物の関係としてあらわれること)を論じ、フェティシズムについては真面目に考えなかった。

(「フェティッシュとは何か」書評 交易商人の驚きから現れた言葉 評者: 柄谷行人 / 朝⽇新聞掲載:2018年09月29日)


ここにあるフェティシズムとアニミズムの関係について、このピーツの『フェティッシュとは何か?』の翻訳者であると同時に、フェティッシュ概念起源であるシャルル・ド・ブロス『フェティシュ諸神の崇拝』( Charles de Brosses, Du Culte des dieux fétiches, 1760)の翻訳者でもある杉本隆司氏は次のように言っている。


一九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、フェティシズムは「アニミズム」、「トーテミズム」、そして「マナ」といった概念に置き換えられ、事実上、宗教学・人類学の領域から姿を消してゆく。(杉本隆司「啓蒙思想としてのフェティシズム概念」2005年)

『フェティシュ神』でド・ブロスが論証しようとしたのは、野生人(特にアフリカ黒人)と古代人(特にエジプト)の宗教が、フェティシズムという概念で括ることのできる同一の宗教であるという点である。(杉本隆司「ド・ブロスの宗教起源論と言語起源の問題」2010年)




さらにフレイザー『金枝篇』の新訳者石塚正英氏は次のように言っている。

アニミズムとフェティシズム、この二つの原初的信仰の差異は何でしょうか。それは、前者において、神霊はこれを信仰する人間と共にある。対して後者において、神霊はこれを信仰する人間がみずからつくる。


後者について敷衍すれば、神が人をつくるのでなく、人が神をつくる。これがフェティシズムです。(石塚正英「フェティシズムとアニミズム・神々は儀礼から生まれた」2020年)

フレイザーの理解するアニミズムはフェティシズムに近いです。フレイザーのそのような理解が生まれる背景・根拠の一つとして次のことが指摘できるでしょう。先史古代世界や非ヨーロッパ世界に存在するさまざまな儀礼・信仰、アニミズム、トーテミズム、シャーマニズムなどには、フェティシズムが潜在している、ということです。もっとも原初的な精神運動であるフェティシズムにおいては、人は見たものを見たまま、あるがままに理解する。そこに比喩とか抽象とかは介在しない。それに対してアニミズムでは、人は見たものを比喩的・抽象的に解釈する。そのように精神的・思想的にみて一定程度反省の加わった信仰形態のアニミズムではあっても、しかし儀礼の現象面ではいっそう原初的な信仰形態であるフェティシズムを引きずり、両者は往々習合しているのです。

19世紀以降の進化主義者は、進化の過程でどちらが先か後か、という区別をしたがりますし、アニミズムが先で、あるいは本流で、フェティシズムはアニミズムの未熟な段階、あるいは派生や堕落と見たがります。私は、単系発展段階説には立ちません。必要な観点は類型化ないし多様化です。  


そのフェティシズム現象を象徴的にいうと、儀礼による神殺害の背景には儀礼による神創出がある、ということです。その際、ここにいう神殺害は、『金枝篇』のモチーフであるアニミズムを意味しています。そして、ここにいう神創出とは、先ほど特徴づけしましたフェティシズムの第一を言い表しています。みずからつくった神であればこそ、また、みずから殺したり再生させたりできるのです。 (石塚正英「フェティシズムとアニミズム・神々は儀礼から生まれた」2020年)


要するに「神が人をつくる」のがアニミズム、「人が神をつくる」のがフェティシズムであるならば、現在的感性であれば何の違和もない。むしろ神の起源がアニミズムとすることこそ滑稽である。


日本の宗教はしばしばアニミズムと言われることがあり、例えばお盆行事は確かにアニミズム的だろう。



我々の祭の日の中で、一ばん全国的なものは盆の魂祭であろう。これは早くから仏寺の管掌に属し、従って仏教によって解釈せられ、国の祭日からは除外せられていたが、それはただ一部の変化に止まり、事実はこれもまためでたい節供であり、人が集ってイワウ日であったことは、かなりはっきりと私は証明することが出来る。日本の東半分では、今でも盆の魂祭に対して、暮にもう一度ミタマ祭というのがあり、この方は全く仏教との交渉がなく、清らかな米の飯を調じて、祖霊に供しまた自分たちもこれに参与する。ただ荒御霊と称して新たに世を去った霊魂のために、特別の作法がある点だけが、盆祭とよく似ている。つまりは盆の行事は、この方に力を傾け過ぎていたのである。(柳田国男「年中行事覚書」)


盆の祭り(仮りに祭りと言うて置く)は、世間では、死んだ聖霊を迎へて祭るものであると言うて居るが、古代に於て、死霊・生魂に区別がない日本では、盆の祭りは、謂はゞ魂を切り替へる時期であつた。即、生魂・死霊の区別なく取扱うて、魂の入れ替へをしたのであつた。生きた魂を取扱ふ生きみたまの祭りと、死霊を扱ふ死にみたまの祭りとの二つが、盆の祭りなのだ。


盆は普通、霊魂の游離する時期だと考へられて居るが、これは諾はれない事である。日本人の考へでは、魂を招き寄せる時期と言ふのがほんとうで、人間の体の中へ其魂を入れて、不要なものには、帰つて貰ふのである。此が仏教伝来の魂祭りの思想と合して、合理化せられて出来たものが、盆の聖霊会である。


七夕の祭りと、盆の祭りとは、区別がない。時期から言うても、七夕が済めば、すぐ死霊の来る盆の前の生魂の祭りである。現今の人々は、魂祭りと言へば、すぐさま陰惨な空気を考へる様であるが、吾々の国の古風では、此は、陰惨な時ではなくして、非常に明るい時期であつた。(折口信夫「盆踊りの話」)



とはいえこのアニミズムの底にはフェティシズムーード・ブロスの物神崇拝[Du Culte des dieux fétiches]ーーがあるのでは、と問うてみる必要はないだろうか。私には柳田国男とは異なり折口信夫にはそのアスペクトがかすかにあるように感じられる。



肉体とともに霊魂も衰弱する現象をアニミズムでは説明できない。それはフェティシズムによってこそ解明される。18 世紀中期の啓蒙思想家シャルル・ド=ブロスが説いたフェティシズムによれば、霊魂と肉体は、混然一体とは言わないまでも、不可分離である。一方が他方から分離することはあり得ないので、老いた王の身体から霊魂だけを若い新王に移すということはあり得ない。王が衰弱すれば、霊魂も衰弱し、肉体の死とともに霊魂も死ぬ。「エジプトの偉大なる神々もまた死の運命を免れることはできなかった」というフレーズを素直に解釈するということは、アニミズムでなくフェティシズムに依拠してはじめて叶うのである。(石塚正英『価値転倒の社会哲学―ド=ブロスを基点に』第3章「ド=ブロスの『フェティシュ諸神の崇拝』に読まれるフェティシズム」2020 年)

日本文学者の土橋寛によれば、古代の日本において、「タマ」の語があらわす霊魂観念には二つのものがあった。ひとつは、身体から独立し、人間が亡くなっても存在する。“自由霊”で、これはアニミズム的な霊魂観念(霊魂を実体としてとらえる)を示している。もうひとつは、身体と結合し、人間が亡くなると消滅する。“内在霊”で、これはプレアニミズム的な霊魂観念(霊魂を力や作用としてとらえる)を示している。後者は人類学でいう「マナ」にあたり、「生命力」「霊力」などと表現するのがふさわしい。タマは自然物や人工物にも存在するが、それは人間の“内在霊”と同質のものであり、倉稲魂[ウ カ ノ ミ タ マ](稲の霊魂)や国魂などのタマも、やはり“内在霊”としての霊魂をあらわしている(土橋・1962、同・1990)この明晰な説明にしたがえば、国魂とは要するに、そのクニをクニとして成り立たせている根源的な生命力のことである。 (三谷芳幸『大地の古代史―土地の生命力を信じた人びと』 2020年)


ーーこの「自由霊」がアニミズムとしたら、「内在霊」はフェティシズムに近似するのではなかろうか。



我々の古代人は、近代に於て考へられた様に、たましひは、肉体内に常在して居るものだとは思って居なかった様である……たましひの居る場所から、或る期間だけ、仮りに人間の体内に入り来るものとして居た (折口信夫「原始信仰」)

魂を身に鎮定せしめる方法をたまふりと言ふ。鎮魂の第一義である。この魂をふるには、方術があった。舞踊〔アソビ〕を以て喚び出したものを、歌を誦することによって、身体の奥所――こころ――に入れるのであった。 (折口信夫「日本古代の国民思想」)

歌からは凡て鎮魂の意味を離すことが出来ない。つまりは魂を鎮める為のもので、歌をうたふとその人の魂が相手の体にくっつく事になるのである。(折口信夫『歌の発生及びその万葉集における展開』 )


折口は日本人の神観念には、霊魂を神とする観念、霊魂を内にそなえた神の観念、鎮魂呪術を行う呪術者を神とする観念の三つがあると説いている。(小川直之「折口信夫の霊魂論覚書」2007年)



・・・ということを記すと、冒頭の柄谷の言うように《フェティシズムはむしろ、嘲笑的なジョークとして扱われて》しまう不幸な時代ーーエビデンス主義に典型的な似非科学の時代ーーをわれわれは生きている。


…………………



※附記


本居宣長の神の定義はいかにもアニミズム的である。


さて凡て迦微(かみ)とは、古御典等(いにしえのみふみども)に見えたる天地の諸の神たちを始めて、其を祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐひ海山など、其余何にまれ、尋(よの)常ならずすぐれたる徳のありて、可畏き物を迦微とは云ふなり、(すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功しきことなどの、優れたるのみを云に非ず、悪きもの奇(あや)しきものなども、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云なり、

さて人の中の神は、先づかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり、其は遠つ神とも申して、凡人とは遥に遠く、尊く可畏く坐しますが故なり、かくて次々にも神なる人、古も今もあることなり、又天の下にうけばりてこそあらね、一國一里一家の内につきても、ほどほどに神なる人あるぞかし、

さて神代の神たちも、多くは其代の人にして、其代の人は皆神なりし故に、神代とは云なり、又人ならぬ物には、雷は常にも鳴る神神鳴りなど云へば、さらにもいはず、龍樹靈狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物にて、可畏ければ神なり、(中略)又虎をも狼をも神と云ること、書紀万葉などに見え、又桃子(もも)に意富加牟都美命((おおかむつみのみこと)と云名を賜ひ、御頸玉(みくびたま)を御倉板擧(みくらたなの)神と申せしたぐひ、又磐根木株艸葉(いわねこのたちかやのかきば)のよく言語したぐひなども、皆神なり、さて又海山などを神と云ることも多し、そは其の御霊の神を云に非ずて、直に其の海をも山をもさして云り、此れもいとかしこき物なるがゆゑなり、)

抑迦微は如此く種々にて、貴きもあり賤しきもあり、強きもあり弱きもあり、善きもあり悪きもありて、心も行もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば(貴き賤きにも、段々多くして、最賤き神の中には、徳すくなくて、凡人にも負るさへあり、かの狐など、怪きわざをなすことは、いかにかしこく巧なる人も、かけて及ぶべきに非ず、まことに神なれども、常に狗などにすら制せらるばかりの、微(いやし)き獣なるをや、されど然るたぐひの、いと賤き神のうへをのみ見て、いかなる神といへども、理を以て向ふには、可畏きこと無しと思ふは、高きいやしき威力の、いたく差(たが)ひあることを、わきまへざるひがことなり、)大かた一むきに定めては論ひがたき物になむありける(本居宣長『古事記伝』三)


「近世最大の論争」と呼ばれる宣長と秋成論争(1786年)がある。秋成は「やまとだましひ」の「臭気」といい、伊勢の「田舎者」と評す。宣長は「小智をふるふ漢意の癖」やら「まなさかしら心」と評す。本居宣長は1730年生れ、上田秋成は1734年生れであり、両者とも50歳代のこと。


本朝は、天照大御神の御本國、その皇統のしろしめす御國にして、萬國の元本大宗たる御國なれば、萬國共に、この御國を尊み戴き臣服して、四海の内みな、此まことの道に依り遵はではかなはぬことわりなる云々(本居宣長『玉くしげ』)


数多くの書簡のやりとりがあるが、ここでは秋成のひとことだけを掲げておこう、《しき嶋のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花》(上田秋成、胆大小心録)



他方、ド・ブロスの『フェティッシュ神』を《比較民族学の最初の著作》と呼んだマルセル・モースのマナ概念はいかにもフェティッシュ的である➡︎マナとフェティッシュ


レヴィ=ストロースはモースのマナを《浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)》と呼んだ。

われわれは、マナ型に属する諸概念は、たしかにそれらが存在しうる数ほどに多様であるけれども、それらをそのもっとも一般的な機能において考察するならば(すでに見たように、この機能は、われわれの精神状態のなかでもわれわれの社会形態のなかでも消滅してはいない)、まさしく一切の完結した思惟によって利用されるところの(しかしまた、すべての芸術、すべての詩、すべての神話的・美的創造の保証であるところの)かの「浮遊するシニフィアン(signifiant flottant)」を表象していると考えている。 (レヴィ=ストロース『マルセル・モース著作集への序文』) 


この浮遊するシニフィアンとしてのマナは、おそらく、シニフィエなきシニフィアン[signifiant sans signifié]と言い換えうる。


ではフェティッシュは? 実はフロイトにおいてフェティッシュは二重の相がある。



確かに、我々がフェティッシュの起源を観察した時、原初の欲動代理は二つ部分に分割され、一方は抑圧を受け、他方はまさにこの密接な結びつきのために理想化の運命を辿る。Ja, es kann, wie wir's bei der Entstehung des Fetisch gefunden haben, die ursprüngliche Triebrepräsentanz in zwei Stücke zerlegt worden sein, von denen das eine der Verdrängung verfiel, während der Rest, gerade wegen dieser innigen Verknüpftheit, das Schicksal der Idealisierung erfuhr. (フロイト『抑圧』1915年)


欲動代理 [Triebrepräsentanz]とあるが欲動の固着の別名である[参照]。



これ以外に理想化されたフェティッシュがある。こちらのほうが物神崇拝の巷間における内実だろう。


他方、固着のほうは、少なくともそのある相は、ウィリアム・ピーツの言う《フェティッシュ的固着》と言い換えうる。

フェティッシュ的固着の起源は、欲望を構造化するための単独的な個人的出来事の力にあった。 the origin of the fetishistic fixation was in the power of a singular personal event to structure desire. the origin of the fetishistic fixation was in the power of a singular personal event to structure desire. (WILLIAM PIETZ, The problem of the fetish, 1985年、PDF


そしてこの固着のラカン派における定義は、一者のシニフィアン[le signifiant Un]=S2なきS1[S1 sans S2]である[参照]。実は今こう記してきてはじめて気づいたのだが、これはいかにも浮遊するシニフィアンではなかろうか。


なおフロイトはこの固着を境界表象 [Grenzvorstellung]と呼んだ。自我とエスの境界にあるシニフィアンである。ラカンはこの固着としての一者のシニフィアンを、身体の出来事のシニフィアンS(Ⱥ)で示した、《S(Ⱥ)を私は「過剰なる一者」と呼ぶ[S(Ⱥ),  …ce que j'ai appelé l'« Un en trop »] 》(Lacan, S14, 14  Décembre  1966)



※続き違うわ、坊や、幸いなことによ