マナは神秘的であるのみならず、次元の異なったなにものかでもある。要するにマナは、まず第一にある種の作用、つまり共感的な存在の相互間に生み出される遠隔の霊的作用である。それはまた同時に、重さのない伝達可能な、そして自ら拡散する一種のエーテルである。Le mana nous est donc donné comme quelque chose non seulement de mystérieux, mais encore de séparé . En résumé, le mana est d’abord une action d’un certain genre, c’est-à-dire l’action spirituelle à distance qui se produit entre des êtres sympathiques. C’est également une sorte d’éther, impondérable, communicable, et qui se répand de lui-même. (マルセル・モース『社会学と人類学 』) |
モースは、マオリ族のハウをマナと同じだとしている。それを前提にして以下の文を読もう。 |
わたくしは,ハウについてお話ししましょう。ハウは吹き寄せる風のことではありません。そのようなものではけっしてないのです。たとえば,あなたがある特定の品物(オガンダ)を持っていて,それをわたくしにくれたとしましょう。しかも,あなたは一定の代価ももとめないで,それをわたくしにくれたのです。わたくしたちは,それを売り買いしたのではありません。 |
さて,わたくしが,この品物を第三者に贈ると,しばらくたってその者はわたくしに代償(utu)としてなにかを返そうと決心し,わたくしになにかの品物を贈ってよこします。 |
ところで,かれから貰ったこのオガンダは,わたくしがあなたから貰い,さらにかれに譲り渡したオガンダの霊(hau)なのです。わたくしはあなたのところから来たオガンダの身代わりとして貰ったオガンダをあなたにお返ししなければなりません。 わたくしとしては,これらのオガンダが望ましいもの(rawe)であってもまたいやなもの(kino)であっても[ils soient désirables (rawe), ou désagréables (kino)]、それをしまっておくのは正しく(tika)ないのです。わたくしはそれらをあなたにおかえししなければなりません。それはあなたから貰ったオガンダのハウであるからです。 |
もしわたくしが二つ目のオガンダをひとり占めでもしようものなら,わたくしは疾病あるいは死にさえ見舞われるでしょう[il pourrait m'en venir du mal, sérieusement, même la mort]。このようなものがハウ,つまり身の回り品のハウ,オガンダのハウ,森のハウなのです。(マルセル・モース『贈与論』) |
このハウとしてのマナを額面通りに取るなら、マルクスのフェティッシュと等置して扱う誘惑から逃れがたい。
一見したところ、商品はきわめて明白で平凡な物に見える。だがそれを分析してみると、形而上学や神学の細かな問題が一杯詰まった、ひじょうに複雑な物であることがわかる。Eine Ware scheint auf den ersten Blick ein selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, daß sie ein sehr vertracktes Ding ist, voll metaphysischer Spitzfindigkeit und theologischer Mücken.(マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」) |
商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第1篇第1章第4節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」) |
交換(コミュニケーション)に伴うフェティッシュの発生を示す構造図は、「マルクスの商品語=ラカンの人間語」で掲げた次の図である。 |
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上図の右下の剰余価値aがフェティッシュである。 |
私が対象aと呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである。[celui que j'appelle l'objet petit a .. ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche] (Lacan, AE207, 1966年) |
装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ]〔・・・〕 剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン, Radiophonie, AE434, 1970) |
フェティッシュは欲望される対象ではない。そうではなく欲望を引き起こす対象であり、欲望の原因である。原因、すなわち《われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる。quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. 》(J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011)。
ラカン派文脈において長い間、フェティッシュは想像界に位置づけられるものとして扱われてきたが、少なくとも原点にあるフェティッシュはそうではないのである。ジャック=アラン・ミレールは、フェティッシュをサントーム(現実界の症状)と近似するものと扱うようにもなったが[参照]、これはフロイトを読み込めば当然そうあるべきである。
実は先ほどの図の対象aだけがフェティッシュではない。ラカンの斜線を引かれた主体自体ーー先程の図の左下のポジションにある$ーーもフェティッシュに大きくかかわる。 |
ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている。Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne. (Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012) |
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フェティシズムが自我分裂に関して例外的な事例を現していると考えてはならない。Man darf nicht glauben, daß der Fetischismus ein Ausnahmefall in bezug auf die Ichspaltung darstellt〔・・・〕 幼児の自我は、現実世界の支配の下、抑圧と呼ばれるものによって不快な欲動要求を払い除けようとする。Wir greifen auf die Angabe zurück, dass das kindliche Ich unter der Herrschaft der Real weit unliebsame Trieb-ansprüche durch die sogenannten Verdrängungen erledigt. |
我々は今、さらなる主張にてこれを補足しよう。生の同時期のあいだに、自我はしばしば多くの場合、苦しみを与える外部世界から或る要求を払い除けるポジションのなかに自らを見出だす。そして現実からのこの要求の知をもたらす感覚を否認の手段によって影響を与えようとする。この種の否認はとてもしばしば起こり、フェティシストだけではない。 Wir ergänzen sie jetzt durch die weitere Feststellung, dass das* Ich in der gleichen Lebensperiode oft genug in die Lage kommt, sich einer peinlich empfundenen Zumutung der Aussenwelt zu erwehren, was durch die Verleugnung der Wahrnehmungen geschieht, die von diesem Anspruch der Realität Kenntnis geben. Solche Verleugnungen fallen sehr häufig vor, nicht nur bei Fetischisten, (フロイト『精神分析概説』第8章、1939年) |
この自我分裂を埋め合わせようとするのが何よりもまずフェティッシュの機能である。 自我分裂をめぐってのフロイトの叙述をもう一文掲げておこう。 |
欲動要求と現実の拒否のあいだに相剋があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として居残っている。Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. われわれは自我過程の統合を自明視しているので、このような過程の全体はきわめて奇妙なものに見える。しかしこの自明視は明らかに誤りである。きわめて重要な自我の統合機能は、いくつかの特別な条件のもとで成立するのであり、さまざまな障害を蒙るものなのである。Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. Der ganze Vorgang erscheint uns so sonderbar, weil wir die Synthese der Ichvorgänge für etwas Selbstverständliches halten. Aber wir haben offenbar darin unrecht. Die so außerordentlich wichtige synthetische Funktion des Ichs hat ihre besonderen Bedingungen und unterliegt einer ganzen Reihe von Störungen. (フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年) |
かつまたフェティッシュの原点にある現象は、フロイト用語では、或る対象への固着[Fixierung](欲動の固着・リビドー の固着)であり、この固着とは、身体的なものが心的なものに翻訳されずエスに置き残され反復強迫を生むことをいう。すなわちフェティッシュの根は、自我ではなくエスの審級に位置づけられ、かつまた無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]である。別の言い方をすれば、常に同じ場処ーー固着された点ーーに回帰することである。
対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
無意識の最もリアルな対象a、それが享楽の固着である[ce qui a (l'objet petit a) de plus réel de l'inconscient, c'est une fixation de jouissance.](J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97) |
享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009) |
ラカンはこの原点にある固着としての対象a=フェティッシュを黒いフェティッシュと呼んだーー、《享楽が純化されるとき、黒いフェティッシュとなる。Quand la jouissance s'y pétrifie, il devient le fétiche noir》(Lacan, Kant avec Sade , E773, 1963年)
最後に精神分析文脈から離れて、私が好んできたミシェル・レリスのジャコメッティ論の冒頭の文を引用しておこう。 |
フェティシズムは、最古代には、われわれ人間存在の基盤であった[le fétichisme qui, comme aux temps les plus anciens, reste à la base de notre existence humaine ](ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929) |