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2025年7月16日水曜日

日本社会・文化の基本的特徴(加藤周一)


 以下、加藤周一の「日本社会・文化の基本的特徴」と題された1981年の講演全文を掲げる。『日本文化のかくれた形(かた)』(岩波 1984)に所収されているもので、ほかに木下順二の「複式夢幻能をめぐって」、丸山真男の「原型・古層・執拗低音ーー日本思想史方法論についての私の歩みーー」が入っている。私はこの書を読んでおらず(武田清子さんの編集であり、彼女の誤謬に満ちたフロイト解釈ーー今から思えば当時のことゆえ止むえないしろーー、ユングに偏った見方にとても抵抗があったせいもある)、たまたまネット上でPDFにて行き当たったのでここに掲げる。40年以上前の論だが、おそらく今でも殆どの指摘が生きている。現在の日本人ーーさらにもっと限定して言えば、まさにこの今のーー参議院選挙前ーーの日本人の有り様を批評(吟味)する上でもとても役立つ、と私は思う。



◼️加藤周一「日本社会・文化の基本的特徴」(1981年)

中国や西洋と比較して、時にはその他の社会と比較して、日本の文化と社会、あるいは日本人の行動様式、あるいはその背景にあると思われる日本人の意識の構造、そういうものにある種の特徴があると言われてきました。たしかによそにはなくて、日本にしかありそうもないこと、そういう現象があります。たとえば地下鉄の駅に拡声器があって、「ドアが閉まりますから、挟まれないようにご注意下さい」という。故障のない限りドアは閉まるに決っているわけで、日本以外の社会でならば、閉まらない時には、アナウンスすると思いますけれど、閉まる時にはいちいち言わない。まして挟まれないように気を付けろ、というのは、おそらく幼稚園の遠足の場合にかぎるでしょう。またたとえば、政治的な面では、明治以後の天皇制も独特でしょう。最高の権威があって、実権がない。万事の責任者であって、何事にも責任がない。そういう型が、社会のさまざまな水準の、さまざまな組織に共通しているということ。とにかくそういう風に日本の社会文化の特徴がいくつも指摘されてきたけれども、それをどういう観点から統一的に理解することが出来るか。どういう特徴が基本的で、そこから他の特徴が導きだされるか。 列挙されたさまざまの特徴を備える日本の社会または文化を、一つの統一ある全体として理解するためには、どういう「パラダイム」というか、どういう原理を使って説明することが出来るだろうか。これが私の今日の問題です。


そこで私はこういうことを考えてみました。第一には、競争的な集団主義 (competitive groupism)。 競争は、集団相互の間でも、一集団の成員相互の間でも、激しい。inter-group および intra-group の競争によって特徴づけられるような集団志向性です。第二には、そのことと関連して、 現世主義(this-worldliness)。 これは文化の此岸性といってもよいでしょう。日常生活の現実の外の、またはそれを超える価値や権威に、責

任をもって係わらない (commit しない)ということです。向う側、 彼岸でなくて、こちら側、此岸に係わる。 第三には、時間の概念に関連して、現在を貴ぶ態度。 あまり昔のことを心配しない。まあ昔のことは誰も心配しないかも知れないけれど、都合の悪いこを早く忘れる。個人が忘れるばかりでなく、集団的にも早く忘れるので、一種の国民的健忘症 (national amnesia) です。また未来のこともあまり心配しない。要するに、現在に生きる。「今此処」が大事だということになります。以上の三つのこと、競争的集団主義と、此岸性と、現在主義。それからもう一つ、集団内部の調整装置としての、象徴の体系がどういう風になっているかということ、この四つの点について話したいと思います。最後に、日本社会の持っている今言ったような特徴が、外に対する時はどういう形で表われて来るかということ、つまり対外的態度について付け加えたいと思う。これはちょっと次元の違う問題です。 初めの四つは密接に関連した内的な構造だと思いますけれども、それが外に対してはどうなるのか、それが最後の問題になるのでしょう。


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そこで第一の集団主義ですが、日本の集団の原型を、二つ考えてみましょう。その一つは「家」です。 家族主義、 これはいろいろな形で指摘されています。たとえば社会法学的な立場から、第二次大戦後早く、 川島武宜さんが言われた。人類学的な材料から、中根千枝さんも、「家モデル」を中心にして日本社会の集団主義を考えています。もう一つは、「ムラ」です。 「ムラ」の理想型を考えて、それを日本社会の集団性を説明するための「パラダイム」として使う。もちろん「家」と「ムラ」とは少し違うところがあります。「家」の場合には、よほど稀な例外を除けば、家族の一人を追い出すというようなことはありません。村の方はそうでないんで、規則に合わないやつを外に出す。 貝殻追放、日本語でいえば村八分です。そういうことを含めて、今「ムラ」のモデルを考えると「ムラ」集団の第一の特徴は、その中での conformism です。 みんなが一緒に同じようにしたい。 伝統的な地域社会だけでなく、現在の企業でも、運動競技のティームでも、ある程度までは大学でも、そうでしょう。国全体にもそういう傾向がある。みんなが同じようなことをして、同じような意見をもつのが理想です。 第二の特徴は、意見の一致が理想だから、 少数意見は望ましくない。少数意見の存在は、不幸な事故とみなされ、極端な場合には、そういう意見をもつ成員を集団の外に追い出す。 村八分にするわけです。要するに少数意見を含んだ集団ではないということが、第二の特徴です。


第三の特徴は、集団内部の構造が、しばしば、厳格な上下関係によって成り立っているということ。上下関係だから、「垂直」の秩序ともいえるでしょう。しかし日本の「ムラ」 集団の構造には、「水平」の面もあると思います。日本の伝統的な農村の中に、たとえば、若者や娘の集りのように、横の関係もあった。古くから日本の「ムラ」の中には、「水平」の人間関係も入っていたわけで、「ムラ」の秩序は、本来、縦と横です。


イギリスの社会学者のR・P・ドーアさんが、日本の集団の構造は、全く「垂直」でも、全く「水平」でもなくて、「斜め diagonal」 の人間関係だといったことがあります。 簡単に言えばそういうことになるでしょう。詳しく言えば、「斜め」と言うよりも、ある面には「垂直」要素があり、 ある面には「水平」要素があって、時と場合に応じて、どちらかの要素が強く出てくるということだろうと思います。そういう伝統的な「横」の構造からは平等主義が出て来やすい。「自由・平等・博愛」というときの「平等」は、たしかにアメリカ占領軍が、民主主義の原理として強調しました。 しかしその前から、日本の集団の中に「水平」要素、一種の潜在的な平等主義がなかったわけではない。これは、おそらく大事な点だろうと思います。 そもそも明治維新が徳川時代の身分制度を破って、人間関係の平等化の方向へ一歩を進めたわけです。その後に、一九四五年以後、現行の憲法や民法が、さらに平等主義を徹底させた。法的にみても平等主義は、だんだんに進んで来たので、占領下でいきなり進んだのではない。第一段階は明治維新、第二段階は占領下にはじまった戦後の平等主義、ということになります。それが徹底したのは、単に占領軍が押しつけたからではなく、元来こちら側というか、日本の土壌に平等要素があったからでしょう。そう解釈しないと、戦後日本の平等主義ーー経済的・社会的・文化的なーーが十分に説明されないと思います。殊に「平等」は徹底して、「自由」は徹底しない、という独特の組み合せが、説明されません。「自由・平等・博愛」の「自由」、個人の自由の方は、伝統的な集団主義と真向から対立し、従ってタテ前の「自由主義」、人権尊重にもかかわらず、実際には日本社会に徹底しなかったと思います。戦後の改革が総じてアメリカの押し付けにすぎないと言う人は、非常に大ざっぱです。もちろんそういう面もあるけれども、改革の中で日本の社会に本当に定着した部分は、元々そういう地盤のあったものです。要するに平等主義は定着した。しかし人権とか、少数意見の尊重とか、個人の自由とか、そういうことは定着しなかった。なぜなら伝統的地盤がなかったからです。 「博愛」についていえば、これはあまりいい訳語ではなかったかも知れません。フランス革命の fraternité は、 兄弟愛といった方が語源に忠実でしょう。とにかく横の関係です。それを集団の団結みたいなものに考えれば、おそらくフランス革命の時には、フランス国民の団結ということも意味していたはずです。そういう意味にとれば、具体的には、国民的団結で、これは日本国には、あり過ぎる程あるでしょう。そういうことが、日本の状況だと思うんですね。


第四の特徴は競争です。 集団主義は、日本だけじゃなくて、たとえばアジアの多くの社会にそういう傾向が強い。 今かりに個人主義的な社会と、集団主義的な社会という言葉をつかえば個人主義という言葉もいろいろに解釈できると思うけれどもーー個人主義的な傾向が強かったのは、西ヨーロッパと北アメリカでしょう。北アメリカの中でも、東北部殊にニュー・イングランドでしょう。 その他の社会の多くは、集団主義社会です。ですから、集団主義的社会と個人主義的社会との対照は、日本の社会を西ヨーロッパ 北アメリカの社会から鋭く区別するために役立つけれども、アジアの社会から区別するためには役立たないだろうと思う。それならば、日本の社会は、他の多くのアジアの社会と、どういう点で違うか。それは今日の日本の集団が激しく競争的だということではないでしょうか。まず集団相互の競争が激しい。たとえばニッサンとトヨタ。京都大学と東京大学。集団の中でも自分が出世するために、他の人と競争して、休暇もとらない。そういう競争のいちばん単純な形は、スポーツの試合です。他の人より速く走るとか、速く泳ぐとか、目的は単純ではっきりしている。またその目的を達成するための手段または手続きについて、明瞭な規則がある。日本の典型的な集団はどれも、スポーツの場合と同じように、何らかの領域で同じ目標を認め、特定の規則に従って、その目標を達成しようとして競争している。 そうすることが、集団の活動を支える主要な動機です。こういう集団の間には、競争が成り立つし、現に成り立っているわけです。しかしすべての集団が、特定の目的の達成に熱心なわけではありません。たとえば、世襲の身分によって定義される集団、貴族の集団があるとしましょう。そこに一ぺん属してしまえば、何もしなくてもよろしい。貴族は何の目的も達成しません。ただ貴族であるということだけで、さまざまの利点がある。身分的集団では、その集団に属しているだけで有難い、何かよいことがあります。そういう集団の間に、競争はおこりようがない。せいぜい嫉妬がある程度のことでしょう。

相互の競争が激しい集団は、目標指向型の集団(goal-oriented group) です。そういう集団が競争に勝つためには、その集団の行動が、目的との関連において、能率的でなければならないでしょう。 能率をよくするためには適材適所に配置する必要がある。したがって集団内部に、一種の能力主義が発生するはずです。集団成員の間に能力上の競争が激しくなる。ただしこの場合の能力は、狭い意味での仕事の能力とは限らず、同僚とのつき合いを巧くやる能力も含まれるでしょう。極端な場合には、能力を発揮しない能力でさえあるかもしれません。また適材適所の適所は、必ずしも上下関係の上ということではなく、実質的な要所である場合が多いでしょう。そこが日本の組織の微妙で、おもしろいところだろうと思います。とにかく身分的集団が静的であまり動かないのに対し、近代日本の目的指向型の典型的な集団は、活動的で、しばしば攻撃的です。その意味では、かつての陸軍も、今日の企業も、ちがいません。またそうでなければ、あの経済成長も、自動車輸出も起こらなかったでしょう。しかもこの活動的な集団は、内部での競争があまり激しく、集団全体の能率を妨げることを避けるために、巧妙な仕掛けを備えています。 それは、責任を集団全体でとるという仕組です。 失敗があっても、個人の責任者をはっきりさせない。集団の親玉、たとえば会社の社長でさえも、必ずしも責任を取らない。成功も、失敗も、すべては会社全体の責任ということになる。たとえばアメリカでは、会社の業績が悪いと、社長が株主会に対しその責任を取らなければならないでしょう。日本でそういうことは、ほとんどありません。社長だけではなくて、社員が何か失敗しても、そのために社員が首になることは、余程のことでない限りめったにない。 人間誰でも失敗しますから、これは個人にとって有難いやり方でしょう。小さな会社の内部の話ではなくて、国全体としてもそうです。あの十五年戦争で、日本側には、戦争責任者というものが、個人としては一人もいない。みんなが悪かった、ということになります。戦争の責任は日本国民全体が取るので、指導者が取るのではない。「一億総懺悔」ということは、タバコ屋のおばさんも、東条首相も、一億分の一の責任になる。一億分の一の責任は、事実上ゼロに近い、つまり、無責任ということになります。みんなに責任があるということは、誰にも責任がないというのと、ほとんど同じことです。これは普通、西洋社会には通用しない考え方でしょう。 

丸山真男さんは、「日本政治の心理と論理」で、 ニュールンベルク裁判と東京裁判とを比較しています。 ニュールンベルク裁判では、戦争の責任者がはっきりしていた。ナチの指導者たちは、自分に責任があるとはっきり言う。日本の戦争指導者たちは、みんな、自分は戦争をしたくなかったけれども、何となく空気が戦争の方向に動いていたから、賛成したのだという。一九四一年の東条内閣に、戦争をやろうと思っていた大臣は一人もいなかった。――これは、まことにおどろくべきことです。日本の集団の無責任体制が、これほど鮮やかに現れたことも稀でしょう。それが機能しなかったのは、相手が外国人だったからです。ドイツには、ニュールンベルク裁判の他にも、ドイツ人による戦争犯罪の裁判がありました。日本には外国人によって強制された場合以外に、日本人による戦争犯罪の裁判は、一度もありませんでした。日本側では、敗けても、勝っても、何をやっても、責任は集団の全体にあって、個人にはない。裁判はなかったばかりでなく、そもそも考えられなかったはずでしょう。


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このような集団に強く組みこまれた個人にとって、世界とは集団そのものです。集団、または社会、または今此処の世の中、つまり此岸ということになるでしょう。死ぬと、日本人は、此岸から彼岸へ移るのかどうか。必ずしもそうではなくて、彼岸さえも、実は此岸の、具体的には所属集団の、延長と考えられている場合が多い。日本の文化が定義する世界観は、基本的には常に此岸的日常的現実的であったし、また今もそうである、といってよいと思います。小さな村の中に家族が住んでいて、その家族の中で、誰かが死ぬと、死者の魂はどこへ行くか。しばらくの間、どことも定めず、空中に漂っている、という説もあります。たとえば多くの儒者は、それに近いことを考えていたのでしょう。しかし柳田国男によれば、典型的には、村の近くの山の上に行き、そこから村を見まもっている。村はたいてい、水のある所ですから、山の裾、谷間など、下の方にあって、山の上からよくみえます。その山の上に魂が、永久に居るわけじゃないけれど、しばらく居る。そして特定の機会に村へ帰って来ます。 いろんな風俗や習慣があるようですが、とにかく適当な機会に帰って来る。誰でもよく知っている機会は、夏のお盆です。 帰って来るところは、隣村などということは絶対にない、必ず自分の村、しかも自分の家族のところです。つまり生きていた時の集団への所属性は、死んでも変わらない。日本人の集団所属性は死よりも強し。そういうことです。あるいは、死後の世界が集団の延長だといってもよい。窮極的には、此岸から断絶し、独立した彼岸は、ない。本来の現実は、村そのものしかないわけです。家族、村、此岸、それが唯一の窮極的な現実です。


そういう世界観の此岸性は、どういうことを意味するでしょうか。仏教が入って来たときには、その大衆への浸透を妨げる。それにもかかわらず、仏教が大衆のなかへ入ってゆけば、仏教そのものが、現世利益・此岸的効用の方へ、変ってゆく。 仏教からその彼岸性を奪う変化を「世俗化」とよぶとすれば、徳川時代に仏教の世俗化が徹底します。徳川幕府は仏教寺院を行政制度化して、誰も仏教徒でなければいけないということにした。仏教が政治権力と結び付いた時代は同時に、思想的には仏教の世俗化が徹底した時代だと思います。 この時代の政治倫理的な価値体系、あるいは文学的・芸術的な表現は、早くも一七世紀から世俗的なものでした。儒教倫理は此岸的です。文学作品や絵画に、仏教的・宗教的「モティーフ」は、はなはだ少ない。その頃、アジアの大部分の地域の文化はーー中国の場合にはちょっと難しい問題があるけれどもーー仏教的です。 ヨーロッパでは、教会が魔女狩りをやっていました。日本ではそれが起こる程の排他的で、教条的な宗教体系は、もはや生きていなかった。文化自体が世俗化していた、ということになるでしょう。このように早くから現れた世俗的文化は、おそらく、日本の実用的な技術主義(二宮尊徳の「仕法」から戦後日本のGNP信仰まで)、享楽主義(『好色一代男』から週刊誌まで)、および美的装飾主義(琳派の絵画工芸から日本料理の盛りつけまで)に、共通の背景でしょう。他方同じ背景は、徳川時代以降の日本が、孤立した例外(三浦梅園や西田幾多郎)を除いて、抽象的包括的な形而上学の体系を生み出さなかったということも、説明するにちがいありません。


個人が集団へ高度に組みこまれている条件のもとでは、個人がその所属集団、具体的には家や村や藩や国家に超越的な権威または価値へ「コミット」することは、困難なはずです。あるいは逆に、そういう絶対的な価値がないから、個人が集団の利益に対して自己を主張することができない、つまり高度の組みこまれが維持される、ということもできるでしょう。これは鶏と卵の関係です。どちらが先であるかは別として、とにかく、日本文化の一つの特徴は、先に触れたように、集団に超越する価値が決して支配的にならないということです。明治以後の支配層は天皇を絶対化しようとしました。しかし天皇はまさに国民という集団の象徴であり、天皇の絶対化は、集団に超越する価値(たとえば儒教の「天」、キリスト教の「神」)の絶対化であるどころか、集団そのものの絶対化に他なりません。

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超越的価値に束縛されない文化は、どこへ向かうでしょうか。そこでは宗教戦争が起りにくい。また社会の現状を否定するためには、現状から独立した価値が必要であり、そういう価値のないところでは、「ユートピア」思想が現れないでしょう。「ユートピア」思想を支えとする革命も起こらない。 個人的な行動様式としては、それとして自覚されない便宜主義 (opportunism)・大勢順応主義ーーしばしば「現実主義」とよばれる態度ーーが、典型的になる。 芸術的な表現についてみれば、全体の秩序よりも、部分の感覚的洗練が強調されることになるでしょう。個別的・具体的状況に美的価値も超越しない。細部から離れて全体を秩序づける原理がない。この部分強調主義の典型的な例は、たとえば平安朝の仮名物語と、一七世紀初めの大名屋敷の平面図だろうと思います。 平安朝物語の話全体の構造ははっきりしない。始めがあり、終りがあって建築的にできているものではない。たとえば『宇津保物語』は、ほとんど、短篇をたくさん積み重ねて行くうちに、おのずから全体になった、という形のものです。 こういう長い小説に、一人の人間が、子供の時から次第に大きくなって、多くのことを経験して、遂に死ぬまで、というような整った形がないわけです。それぞれ独立性の強い章が並列されて、まとめてみると、非常に長い物語になっている。これは明らかに、部分の方がまずあって全体にたどり着いたので、全体がまずあって部分を書きこんでいったというものではありません。徳川初期の大名屋敷の平面図はこれは寺院建築などとちがって、中国の記念碑的建築様式の影響のないものでしょう 左右相称でないばかりか、途方もなく複雑です。これも明らかに、まず建物全体の空間の形を考え、その空間を細分して部屋を作ったのではなく、まず部屋から作り出して、作りやめたときに、初めには想像もしなかった全体の形ができあがっていた、ということにちがいない。これは要するに、建て増し精神です。普通我々が建て増すのは、一度に建てるお金がなかったからですが、大名屋敷の方は、おそらく金の問題ではない。むしろ空間の部分と全体との関係について、基本的な一種の見方、一種の哲学を反映しているのだろう、と思います。その哲学は、部分から出発して、おのずから全体に至るというものです。たくさんの部屋の続きが全体になる。部屋を作るのにくたびれた時に終る。どこで終るか初めから計画していたわけではない。徳川時代初期の大名屋敷の平面図は、いくつも残っていますから、こうい特徴は一般化して考えることができる。それが部分尊重主義で、日本の芸術の一つの特徴、さらに進んで、空間に対する日本人の考え方の特徴だと思います。


このような空間の概念と並行関係にあるのが、「現在」の並列的な継起として表象される時間の概念です。 部屋から部屋へ続けていったものが屋敷で、今日現在からもう一つの今日現在へ続いてゆくものが、歴史的時間です。その意味での、現在主義。そこには始めがなく、終りがない。 神話の水準でいえば、創世期神話と終末論を欠くのです。反論したい方は、『古事記』に創世期があるじゃないか、とおっしゃるでしょう。しかしあれは、外国の直接の影響のもとに書かれたものです。 中国・朝鮮は創世期の話を持っているんで、日本も対抗上作らなきゃいけないと考えて作ったので、日本土着の基本的な時間の見方とは、あまり深く係わってはいないでしょう。日本では、いつ始まるともなく歴史が始まり、いつまでということはなく、ただどこまでも現在が続いてゆく。そういうのが、私の言うところの「現在主義」です。宵越しの金は使わない。明日は明日の風が吹く。人が悲観的になるのは、明日のことを心配するからです。 明日のことを考えなければ楽天的に今日を暮すことができるでしょう。たとえば東京の電車は、のべつに混んでいる。朝でも、昼間でも、夜でも。しかし多くの人たちは、その電車のなかで割に明るい顔をしていると思う。そうでなければ、おだやかな寝顔、あるいは劇画に読み耽っている真面目な顔です。この明るい顔・居眠り・劇画耽読は、私が住んでいたことのある他の大都会、パリやヴィーンやロンドンやニューヨークの地下鉄のなかでは、極めて稀にしか見かけないものです。これはおそらく「明日は明日の風が吹く」哲学と関係があることなのでしょう。一九四一年一二月八日の東京市民の表情は、愉しそうでした。数年後に何が起こったかは、御存知の通りです。一九八〇年代に入って、アメリカ軍国主義と日本国との結びつきは、いよいよ深くなろうとしている。それでも日本人の顔が明るいのは、数年後に何が起こり得るかを考えずに暮すことができるからでしょう。


このような時間の概念をよく反映しているのは、またおそらく、一二世紀頃から一三世紀・一四世紀にかけて、さかんに作られた絵巻物です。絵巻物は、細長いものを丸めてあって、展覧会では、一部しか見られない。絵巻物の全体を一緒に見ることは、そもそも不可能です。むやみに長いから、ある部分を見ていると、別の部分は遠くなって見えません。これは本来、自分の前に置いて、右から少しずつ展げて見てゆく。見てしまった所は、巻いてしまう。 これから見る所は、まだ展げてないから、見えない。物語は時間の経過と共に進み、挿絵もその順序を追うわけで、絵巻物を見る人は、話の前後から切り離して、絶えず現在の場面だけを見るということになります。現在の状況を理解、あるいは評価するために、前の事情も、後の発展も、基本的には必要がない。そういうことは、ヨーロッパの中世の「プリミティヴ」と対照的です。そこではキリストの受難という時間的に長い経過の出来事を、一枚の絵に描いている。そういう時間的経過の空間的表現は、日本にはあまりない。日本では絵巻物の方が典型的です。 現在だけが、問題だということになるでしょう。その現在は、いわば予測を超えて、次々に出現する。巻物は開けてみなければ、どんな絵が出て来るか分らないわけですから。突如として、何かが出て来る。またその次の何かが出て来る前に、あまりぐずぐずしないで、速くそれに反応する必要がある。 絵巻物の世界は、予測し難い状況の変化への、速い反応の連続だ、という風にも考えることができます。


状況が変化するのは、絵巻物の世界だけでなく、現実の世界でもそうです。日本では、状況は「変える」ものではなく、「変る」ものです。 そこで予想することの出来ない変化に対し、つまり突然あらわれた現在の状況に対し、素早く反応する技術ーー心理的な技術が発達する。実はそのことが、絵巻物における時間観念に、集約的に反映していたと考えられます。また、そのことの反映は、絵巻物に限らない。たとえば、今日の日本の外交みたいなものです。 第二次大戦後の日本の外交で、非常に大事な問題の一つは、あきらかに中国との関係をどう調整するかということだった。しかし、日本政府は、米国の中国封じ込め政策に同調し、北京政府の承認を全く考えていなかった。つまり将来の状況を予測せず、現状をそのまま認めていたのです。ところが突然、 一九七二年の春に、ニクソン政府の中国接近が始まると、その後、半年経つか経たぬうちに、もう田中首相が北京政府を承認していました。 中国封じ込め政策の状況を変えたのは、米国で、日本ではない。日本側は、他力によって変化した状況に、敏捷に反応したのです。これは、まさに座頭市型外交と称ぶのにふさわしい。 座頭市の目はみえないから、敵の近づくのが分らない。しかし、仕込み杖の届く範囲まで相手が来たときには、非常に速く反応する。 座頭市と日本外務省の行動様式は、根本的に似ています。 「ニクソン・ショック」の次が、「石油ショック」。むやみに「ショック」が多いのは、先の見通しが全くついていないということと同じです。ただし「ショック」の後の反応は速くて、適切です。鎌倉時代の美術から、今日の外交まで、日本文化の「現在主義」は生きています。


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最後にもう一つ、日本の集団内部の秩序維持の装置について。 今まで比較的簡単に、上下関係と水平関係があると言ってきましたが、それは抽象的な言い方で、具体的な規則の体系がなければ、集団内の秩序は保たれないでしょう。そういう規則の体系の特徴には、二つの面がある。その一つの面は、極端な形式主義です。もう一つの面は、極端な主観主義、または主観的な「気持」尊重主義です。 第一の形式主義は、独特の儀式(ritualism) と名目尊重の習慣に、典型的にあらわれています。まず複雑な儀式の体系がある。社会生活のどの面にもあったし、今もあると思いますが、なお生きているものについて言えば、たとえば贈答形式です。 お中元とかお歳暮とか。またたとえばやたらにハンコを押す、 押さなければならない習慣。私の名前は加藤で、加藤というハンコなどはどこにでもあって安く買える。そんなものは、人物を同定するために、何の役にもたたないでしょう。それでも、そのハンコを押せば、役所は満足し、押さなければ、郵便物一つ受けとれません。これは実質的な意味が全くなくなっても、儀式的な形式が残るという見事な例です。


名目主義は、言葉が示す物や現実よりも、言葉そのものを尊ぶ風習です。わが国は文字の国ですから、名前が非常に大事なわけです。たとえばある時私は、スイスで、モン・ブランの案内人に会ったことがあります。ほんとうの登山の案内人ではなくて、観光の案内人です。観光客が各国から来て、登山電車でモン・ブランに登る、 ーー彼らをその案内人が山の上まで連れて行くわけです。その男が私に、日本の観光客は世界で一番いい、こんなに案内しやすい観光客はほかにない、といいました。なぜだろうか。 そもそもモン・ブランという山は、普通天気が悪い。私はジュネーヴに一年住んでいたことがありますが、めったに見たことがないほどです。殊に上の方は天気が悪い。わざわざ観光に来ても、案内人に案内されて山の上まで行って、霧がまいて来たら、もう何も見えない。ほとんどすべての観光客は、長い間電車に乗って、お金を払って、なにも見えないと、たいてい文句を言う。ドイツ人も、アメリカ人も、どこの国の観光客も。ただ、日本の観光客だけが、文句を言わない。霧でなにも見えなくても、自分達同士で写真を撮っている。そうすることで、大へん機嫌がよく、非常に満足して、案内人に文句を言わないそうです。なにも見えなくても、どうして日本の観光客は、満足できるのか。それは名前でしょう。この写真はモン・ブランで撮ったということです。自分の連れの顔だけ撮るんだったら、モン・ブランの上で撮ろうと、浅間山の上で撮ろうと大差ないでしょうが、名前が大事だ。 和菓子にも立派な名前が付いている国です。 「夜の梅」とか、「春の月」とか、羊かんならば、味はどうせ似たようなものでしょうが。これほど菓子の名前が文学的な国は、私の知るかぎり、他にありません。 要するに儀式と名目の複雑な象徴体系があり、極端な形式主義があって、集団の成員がそれを守っている限り、集団の秩序が保たれる仕組みです。形式または規則を守る側からいえば、それを守っている限り、なにも考えなくても、集団のなかでうまく行くように保障されているといってもよい。そのうまく行くということの中には、個人の安全、個人の安全の集団による保障ということが含まれます。すべての大勢順応主義者にとって、日本の社会は、非常に安全な社会です。


日本の集団内部の規則の、あるいは習慣の、もう一つの面は主観主義で、実際にどういう行動をしようとも、当人の心が大事だというものです。これもいろいろな形で出て来る。犯罪や事件が起こった時には、その動機が非常に大事だとされる。当人の「気持」や「心」の問題です。 日常生活のなかでも、しきりに、「悪気で言ったのではない」とか、「悪気でやったのではないだろう」とか、いいます。 十五年戦争当時、高名な文学者武者小路実篤は、戦争を讃美しました。戦後、当人の証言によれば、それは軍閥に「だまされていた」からです。 別の言葉でいえば、悪気で戦争を讃美したのではなかった。その戦争で、どれほど多くの日本人や中国人やその他の人々が無意味に殺されたとしても、そのことよりも、悪気でなかったことの方が大事だから、武者小路実篤は立派な人になるのです。 「気持」や「心」の尊重は、また「以心伝心」を理想的な「コミュニケイション」とみなす考え方にもあらわれています。そういう「コミュニケイション」の形式が一番威力を発揮するのは、同じ集団の内部で、しかもその集団の成員が多くない場合でしょう。 小集団の内部では、言葉に訴えないでも、非常に微妙なことが分り合える。しかし外部に対しては、言葉に訴えなければ、「コミュニケイション」は成立しないのが普通でしょう。だから、伝統的な日本社会で、 intra-group communication の円滑は、 inter-group communication の困難と、切り離すことができません。それは「コミュニケイション」における「心」主義・主観主義の両面でしょう。日本の大臣は、議会でさえ、「その話はしない方がいいでしょう」とか、「お互いに分っているじゃありませんか、そうしつっこく聞かなくても」などといいます。これは比較政治言語学的に、議会答弁として、かなり特殊なものだろうと思います。

芸術的には、そういう「心」 尊重主義がどういう風に表現されるか。中国の水墨画と日本の一四世紀以後の水墨画を比較すると、中国の方が写実的です。 画家の目が外に向いている。水墨画には、抽象的表現主義みたいな要素があって、 中国の画論では「気韻躍動」という。その面を極端まで持って行けば、 ジャクソン・ポロックに近づくでしょう。写実の面を徹底すれば、西洋の近代絵画の写実主義に似てくるでしょう。 中国の水墨画には、抽象的表現主義と、写実主義との緊張関係がある。 水墨画が日本へ来ると、そのつり合いが崩れ、しばしば写実の犠牲において、抽象的表現主義に近づく。その例はいくらでもありますが、たとえば石濤と池大雅を比較すれば、明らかでしょう。石濤は、写実を通しての「気韻」。大雅は、いきなり「気韻」、「心」、主観的な表現主義へ向かいます。日本の「気持」主義、「心」 尊重主義です。

このように日本社会の一方には、外面的な形式主義があり、他方には極端な主観主義がある。この社会は、一方で、ルース・ベネディクトもいったように、内面化されない外在的規則の繁雑な体系に従って機能していると同時に、他方では、客観的規範として外在化されることのない内面的な感情を高い価値とみなす。徳川時代の町人社会の「義理」は、簡単には言い切れない点もあるけれども、大ざっぱに言えばーー、外在的規範、繁雑な儀式的規則、社会的制裁によって強制される秩序の全体を、意味するでしょう。「人情」は、外在的規範から自由な、私的感情であり、しかもそれが町人文化の中で価値として認められていたものです。 「義理」と「人情」、この二つの価値がぶつかり合えば、どうなるか。実際の社会では、「義理」の強制力が優越します。 相愛の男女は、「義理」のために、死ななければならない (negative sanction)。 それが心中です。 しかし、町人が作った劇場の中では、逆転して、人情の方が勝つ。そうでなければ道行が成り立たず、浄瑠璃が成り立たない。 「未来成仏疑ひなき恋の手本となりにけり」。死ぬことが、かえって、全く主観的な感情、すなわち恋を「手本」として、価値として、確定することになります(positive sanction)。 なぜこういう価値の分極化現象が起こったか。なぜ町人社会で、「義理」の秩序が内面化されず、「人情」の価値が外在化されないで、「人情」の讃美が、劇場の内部にとどまったか。それは「義理」の秩序が武士支配層から出て来て、上から下へ、町人層に押しつけられたからでしょう。「人情」の価値の主張は、町人層の内部から、押しつけられた秩序に対する反発として出て来た。 だから「人情」は、事実としてではなく、基本的な価値としては、武士層の中にはない。原則として、儒者の中にもありません。 町人出の儒者、石田梅巌でさえーー 彼は儒教を大衆化した人ですがーー、「人情」ではなくて、「誠」について語ったのです。「誠」は「恋の手本」とはちがいます。 武士層では、儒教的社会秩序、「義理」の価値が、少なくともある程度まで、内面化されていました。その点について、外的規範の内面化が、伝統的日本社会にはなかった、と主張するルース・ベネディクトの説は、正確でないと思います。外在的秩序の内面化現象は、武士層にあって、町人層になかったのです。しかし明治以後にも、町人層の文化が続いているーー少なくともそういう面があります。今でも、一方に空虚な形式主義があり、他方に恣意的な感情論があることは、すでに強調してきた通りです。


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競争的集団主義、世界観の此岸性と超越的価値の不在、その時間の軸への投影としての現在主義――そういう日本社会または文化の特徴が、相互に関連しているということ、また極端な形式主義と極端な「気持」主義の両面を備えた価値の体系が、典型的な日本人の行動様式を決定しているだろう、ということを述べてきました。これが私の「パラダイム」です。日本社会に特徴的な個別的現象のかなりの部分というか、おそらく大部分は、そういう「パラダイム」を使って、今説明してきたような枠組の中で、理解することが出来るだろう、と私は考えています。 そうすることで、個別的な特徴を関係づけ、日本文化の体系を叙述することが出来るだろうと思います。


このような文化の体系が、外に向かうとどうなるか。 成員個人がそのなかへ高度に組みこまれている集団は、外に対して閉鎖的です。内の者と外の者との区別が非常に鋭い。そこに地理的条件も加わって、鎖国心理が今も強く残っていると思います。内部での「コミュニケイション」は円滑で、外部との「コミュニケイション」は困難です。 自分の属している集団外の人を、「外人」と称ぶとすれば、一般に外人との話が通じにくい。外人の極端な場合が外国人です。従って外国人とのコミュニケイション」がうまく行かないだろうということは、初めから予想のつくことです。これは外国語の問題ではありません。外国人との「コミュニケイション」がうまく行かなければ、日本の国際的な孤立は避け難いでしょう。国内では、外国人の差別が、殊に雇用の面で強くなります。日本人はアメリカで働くことができるが、アメリカ人が日本で働くことは極めて困難です。これは《fair》ではないばかりでなく、今なおこの国で、いかに鎖国的傾向が強いかということを示していると思います。しかし他方では、国際的孤立への恐怖が、明治以来あったし、今でもある。その恐怖は、外交政策の上でも、国民心理の上でも、どこか一つの強大国への、いわゆる「一辺倒」となってあらわれます。外交上は、一番強い国との同盟。まず英国。 その次に、三〇年代末のドイツ。 第二次大戦後は明らかに、米国。「一辺倒」は、単に外交的利害打算の結果ではなく、心理的なものでもあるから、左翼的な人は、ずいぶん長い間、ソ連に一辺倒だった。フランス文学者はフランスに、中国専門家は中国に 「一辺倒」になりやすい。それは孤立ということの別の面でしょう。


しかし鎖国心理だけが、日本社会の対外的態度を特徴づけているわけではないと思います。もう一つの特徴は、外国の文化を受け入れやすいということです。初めは中国・朝鮮の文化で、後には西洋の文化です。大いに輸入して、ほとんど輸出しない。こちら側から出さないで、取るだけということになります。 「外人」は嫌いだが(鎖国・閉鎖的集団)、「外人」の文化は好きだ、ということ。そういうことが成り立つためには、人と文化とが、あらかじめ分離されていなければならない。分離の条件は、外国が遠いという感覚、つまり鎖国心理でしょう。しかるに、好むと好まざるとにかかわらず、先進国間の経済的関係・技術的情報交換・文化的相互依存は、次第に密接になり、次第に拡大されてゆく。そのなかで日本国が生きてゆくためには、鎖国心理を克服する必要があると思います。それには長い時間がかかるけれど、その方向へ努力してゆくほかはありません。


6


以上私は、日本文化の特徴の多くを、比較的数の少ない「基本的」特徴ーー競争的集団主義・現世主義・現在主義および独特の象徴体系ーーに関連させ、統一的な全体として、説明しようと努めました。 「基本的」特徴相互の関係も、ある程度までは、説明したと思います。その統一的な全体を、日本文化の「プロトタイプ」あるいは「アーキタイプ」ということができるのかどうか。私はその概念的議論には立ち入らず、 さしあたり、そういう議論の背景となり得る叙述を提出することで、満足したいと思います。





以上が全文であるが、この講演には加藤周一の最晩年の書のエキスが既に示されている。例えば冒頭近くに「今此処」とあったが、『日本文化における時間と空間』(2007年)にはこうある。

日本文化の中で「時間」の典型的な表象は、一種の現在主義である。それは日本の文学的伝統や日常生活の習慣にも見られ、始めなく終わりない時間のことである。またそこにあるのは現在あるいは「今」だけだという意味で、もう一つの表象として循環する時間が挙げられる。循環する時間は、過去、未来、全ての時間の現代化を意味する。


そうすると時間の「全体」は、現在=今が無限に連なる直線、あるいは無限に循環する円周であると言える。これは日本文化の伝統が強調する現在集中主義が、全体に対する部分重視傾向の一つの表現と解することもできる。ここでは部分が集まると全体が現れる。


また「空間」においても、私の住む場所=「ここ」、つまり部分が先ず存在し、その周辺に外側空間が広がる。その外側の全体は、日本の伝統では強い関心の対象ではなかった。一人の人間は多くの異なる集団に属するが、それぞれの集団領域を「ここ」として意識し、その「ここ」から世界の全体を見る。


こうした部分が全体に先行する心理的傾向の時間における表現が現在主義であり、空間における表現が共同体集団主義である。こうした日本の全体に先行するものの見方は、「今=ここ」文化として今も根本的に変わってはいない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年)


もっともこれはある意味で当然かも知れない。「日本社会・文化の基本的特徴」の講演は、加藤周一の主著『日本文学史序説』(1975年)の後の1981年になされているのだから。そして「日本文学史序説」は、「日本文化序説」としても読める書である。例えばこの書の冒頭近くにこうある、《日本文学には、いくつかの著しい特徴がある。その特徴は、第一に、文化全体のなかでの文学の役割に係り、第二に、その歴史的発展の型に係っている。さらに第三には、言語とその表記法、第四に、文学の社会的背景、第五に、その世界観的背景に係る。》


この最後の「世界観的背景」はまさに日本文化序説である。この箇所は以前、丸山真男や大江健三郎、柄谷行人、浅田彰などの絶賛文とともに引用したことがある参照


………………


なお加藤周一の特徴として、初期の強い天皇制批判から次第に天皇制を支えてきた日本文化批判に移行していったことがある。


天皇制は何故やめなければならないか。理由は簡単である。天皇制は戦争の原因であつたし、やめなければ、又戦争の原因になるかも知れないからである。〔・・・〕


問題は天皇制であって、天皇ではない。多くの論者は、屡々之を混同した。例えば、戦争を起こすために天皇の演じた役割と、天皇制の演じた役割を混同して、天皇は戦争に反対だったから、天皇制をやめる必要はない等云う。(加藤周一「天皇制を論ず」1946年)


神格化され絶対化された天皇は、けっして独裁者ではなかった。天皇を主体にしていえば、その個人的な判断、意志、意志の実行は、大いに制限され、一定の枠の中に動いていたということになる。その枠は、戦前には軍国主義的権力支配機構の枠に他ならず、天皇はその機構の一部分であり、その権力の道具であった。その国民への働きかけは、軍国主義とその支配機構を通し、天皇自身の感情、判断、意志にかかわらず、その機構の線に沿っての働きかけであった。天皇の言葉は、天皇の言葉ではなく、天皇は天皇という役割りを演じていたということになる。(加藤周一「天皇制と日本人の意識」1957年)


天皇制と潜在的な虚無主義とを切り離すことはできない。何故なら、そこには大げさな言葉にもかかわらず、実はなにものに対する信念もなかったからである。信念とは単に紋切り型の同義語にすぎなかった。すなわち、神州不滅といい、皇運無窮といい、みそぎといい、弥栄という。どれもこれも「言葉、言葉、言葉……」にすぎなかった。 


そういう潜在的な虚無主義が、時機が到来して、顕在するためには、一日で足りる。敗戦と天皇の権威の失墜によって、天皇制の作った荒廃は忽ち表面に現れた。〔・・・〕生まれたばかりの虚無主義の幽霊は日本をさまよい歩きはじめるだろう。(加藤周一「天皇制について」1957 年)


われわれは天皇が神だと信じているかのように振舞っていたのだ。それは個人の問題ではなくて、集団の問題である。集団がそういう虚構を必用とし、集団のなかにあるかぎり、個人は虚構を虚構として自覚する必要はなかった。(加藤周一 「祝皇孫誕生」1960 年)


清朝末期までの中国文学と同じように、伝統的な形式が何世紀にもわたって保存された事情は、日本の場合には、中国の場合とは逆に、むしろ新形式の導入を容易にしたようにみえる。中国の場合のように、旧を新に換えようとするときには、歴史的一貫性と文化的自己同一性が脅かされる。旧体系と新体系とは、激しく対決して、一方が敗れなければならない。しかし旧に新を加えるときには、そういう問題がおこらない。今日なお日本社会に著しい極端な保守性(天皇制、神道の儀式、美的趣味、仲間意識など)と極端な新しいもの好き(新しい技術の採用、耐久消費財の新型、外来語を主とする新語の濫造など)とは、おそらく楯の両面であって、同じ日本文化の発展の型を反映しているのである。(加藤周一『日本文学史序説』1975年)


そしてこの流れのなかで先の講演の発言がある、《日本文化の一つの特徴は、先に触れたように、集団に超越する価値が決して支配的にならないということです。明治以後の支配層は天皇を絶対化しようとしました。しかし天皇はまさに国民という集団の象徴であり、天皇の絶対化は、集団に超越する価値(たとえば儒教の「天」、キリスト教の「神」)の絶対化であるどころか、集団そのものの絶対化に他なりません。》


この移行は、私の知る限りでも、加藤周一の良き読み手であった大岡昇平や柄谷行人にもある。


はっきり言って、天皇制を廃止しても日本文化の特徴が変わらなければ、戦前のなしくずし的な戦争への傾斜と似たようなものが現れる。「なしくずし」とはこれまた1980年代の加藤周一のキーワードである[参照]。



戦後の日本言論界において、天皇は日本人の悪を否認し投影するスクリーンとして機能したのであり、これが中井久夫が次の文で言っていることである。

もとより、「天皇」は「父親」が投影されているスクリーンに過ぎない。(中井久夫「「昭和」を送るーーひととしての昭和天皇」1989年)

日本国民の中国、朝鮮(韓国)、アジア諸国に対する責任は、一人一人の責任が昭和天皇の責任と五十歩百歩である。私が戦時中食べた『外米』はベトナムに数十万の餓死者を出させた収奪物である。〔・・・〕天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕でおれない。われわれはアジアに対して『昭和天皇』である。問題は常にわれわれにある。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」1989年)

天皇制の廃止が、一般国民の表現の自由を高めると夢想するのは現時点では誤りである。新憲法によって強大な権力を持つ首相のほうがはるかに危険である。権限なくて責任のみ多い脆弱な旧憲法上の首相がよいというのではない。あれは、天皇規定の矛盾にまさる政治上の不安定要因であり、新憲法なくして自民党長期政権はありえなかった。しかし、危険な首相の登場確率は危険な天皇の登場確率の千倍、この危険を無力化する可能性は十万対一であろう。天皇の意見は悪用するものの責任であり、そういう連中が『こわいものしらず』にならないために天皇の存在が貴重である。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」初出「文化会議」 1989年)


つまりは天皇制非難をするよりも先に、少なくとも日本文化の欠陥を徹底的に吟味しなければならない。これがある時期以降の加藤周一の姿である、と私は思う。

他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させる。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。〔・・・〕パラノイアでは、このような他人への非難の投影[Projektion des Vorwurfes auf einen anderen] は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされる。 

Eine Reihe von Vorwürfen gegen andere Personen läßt eine Reihe von Selbstvorwürfen des gleichen Inhalts vermuten. Man braucht nur jeden einzelnen Vorwurf auf die eigene Person des Redners zurückzuwenden. Diese Art, sich gegen einen Selbstvorwurf zu verteidigen, indem man den gleichen Vorwurf gegen eine andere Person erhebt, hat etwas unleugbar Automatisches.… In der Paranoia wird diese Projektion des Vorwurfes auf einen anderen ohne Inhaltsveränderung und somit ohne Anlehnung an die Realität als wahnbildender Vorgang manifest. 

(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905年)



なにはともあれ、この今次の現象が起こっていないかどうか、それを問い詰めることが肝要ではないだろうか、ーー《軍国主義へ向っての小さな事実の積み重ねは、かくして、次第に選択の幅をせばめ、いつか「手おくれ」の時期に到るのが、「なしくずし」のいくさの特徴である。そういうことは、政策決定の水準でおこるばかりでなく、またいわゆる「世論」の面でもおこる。 特定の政策は、特定の方向への世論操作を伴い、操作された世論は、次の政策決定の条件の一つとして働く。世論操作の有力な道具は、いうまでもなく、大衆報道機関であるから、「なしくずし」から「手おくれ」へ向う過程は、大衆報道機関の活動そのものにもあらわれざるをえない。》(加藤周一「「なしくずし」の過程について」朝日ジャーナル 1980年7月4日)


ところで、今年の3月末、米国防長官ヘグセスが日本を訪れ、«Japan would stand in the FRONTLINE in any contingency we might face -U.S. Defense Secretary Pete Hegseth»と言った事実があった後、7月12日にフィナンシャルタイムズに、主に日本とオーストリアに対して« US demands to know what allies would do in event of war over Taiwan, FT 2025/07/12» という記事が出ているにも拘らず、たいして問題にしていない日本国民集団がいるのである。