丸山真男が1960年に「個人析出のさまざまなパターン」で提出したモデルーーもともとは英語論文でその後日本語版が上梓されたようだがーーは、今でも生きているんだろうよ。柄谷行人が2006年に取り上げているがね(参照)。
ボクは本来的には、完全に「私化」だろうな、で現在、れいわや参政党などの応援団になっている若い人たちは、おおむね「原子化」だろうよ。
この図で水平軸は、個人が政治的権威の中心に対していだく距離の意識の度合を示し、ある人間が左によれば、それだけ遠心性 centrifugality が増す、つまりそれだけ政策決定中枢と一体化する傾向が減じる。こうして自立化と私化とは、政治的権威に対する求心的態度 centripetalを示す民主化および原子化とは逆に、軸の左方におくことができよう。これに対し、垂直軸によって個々人がお互いの間に自発的にすすめる結社形成の度合を示すことができよう。この図では垂直軸に従って上の方に来るのは、結社形成的な associative 個人,政治的目的にかぎらず多様な目的を達成するために隣人と結びつく素質の備わった人である。これの下の方に来るのは非結社形成的な dissociative 個人であり、仲間との連帯意識はより弱くなる。(丸山真男「個人析出のさまざまなパターン」1960年) |
|
私化の場合には、関心の視野が個人個人の「私的」なことがらに限局され、原子化のそれのように浮動的でない。両者とも政治的無関心を特徴とするが、私化した個人の無関心の態度は、自我の内的不安からの逃走というより、社会的実践からの隠遁と言えよう。こうして彼は、原子化した個人よりも心理的には安定しており、自立化した個人に接近する。しかし、他方、この隠遁は彼の関心の私的な消費と享受の世界に「封じ込める」傾向を持つのに対し、自立化した個人の場合には、自己の私的な関心からして政治に参加する条件がつねに備わっている。 |
|
結社形成タイプ(ID型)では、近代化の進行とともに自立化や民主化の行動様式が優勢になる。各種の自発的結社が数多くあらわれるが、そのいずれをとっても成員の全人格をのみこむようなものはない。自立化した個人が営むフィードバックの機能によって社会の極端な政治化と過度な集中はおさえられ、しかも政治的無関心に向かう傾向は、もっぱら民主化タイプの行動によってくいとめられている。〔・・・〕 テクノロジーにおける高度の近代化が進むにつれて、西欧においても、非結社形成型が多くなって原子化ないし私化の形をとってあらわれる政治的無関心が、民主的制度の機能を攪乱する可能性が生じているのである。 |
|
要約すれば、自立化は遠心的・結社形成的、民主化は結社形成的・求心的、私化は遠心的・非結社形成的、原子化は非結社形成的・求心的、である。〔・・・〕 右に述べたように、自立化した個人は遠心的・結社形成的であり、自立独立で自立心に富む。〔・・・〕 このタイプと全面的に対立するのが原子化した個人で、求心的・非結社形成的で他者志向的である。このタイプの人間は社会的な根無し草状態の現実もしくはその幻影に悩まされ、行動の規範の喪失(アノミー)に苦しんでおり、生活環境の急激な変化が惹き起こした孤独・不安・恐怖・挫折の感情がその心理を特徴づける。原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義的リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(丸山真男「個人析出のさまざまなパターン」1960年) |
《私化の場合には、関心の視野が個人個人の「私的」なことがらに限局され、原子化のそれのように浮動的でない。両者とも政治的無関心を特徴とするが、私化した個人の無関心の態度は、自我の内的不安からの逃走というより、社会的実践からの隠遁と言えよう》とあるが、ボクは本来はこれだよ。今はやむ得ず政治的な事に首を突っ込んでいるがね。
私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」1979年) |
けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987) |
権力の道具は嫌だからな |
自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている…。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが……。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年) |
本来的には学問とか芸術ーーいやそうじゃなくて女のことを考えていたいんだがね、ヤムエナイよ、今は政治的になるのは。 |
で、れいわ組や参政党組はこれだろ、《原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化する》。前段にこうも説明されてたがね、《このタイプの人間は社会的な根無し草状態の現実もしくはその幻影に悩まされ、行動の規範の喪失(アノミー)に苦しんでおり、生活環境の急激な変化が惹き起こした孤独・不安・恐怖・挫折の感情がその心理を特徴づける。》
今の若い人がこうなるのはしょうがないな、ボクはときにキミらを批判してきたが、最近あまり批判しちゃいけないんじゃないかと反省するようになったよ。
私化も原子化も本来的には似たようなものじゃないかね、丸山真男がいみじくもこう言っているように。ーー《テクノロジーにおける高度の近代化が進むにつれて、西欧においても、非結社形成型が多くなって原子化ないし私化の形をとってあらわれる政治的無関心が、民主的制度の機能を攪乱する可能性が生じているのである。》 ま、原子化が自我の内的不安や社会的不安からの逃走であるだけでさ。ボクも今の日本に住んでいたら、社会的不安を感じざるを得なかっただろうからな。
なにはともあれ、ボクなんか完全に「非結社形成型」だからな、
むかしクンデラの『存在の耐えられない軽さ』読んで、ああこのサビナは完全にオレだと思ったからな、 |
サビナは学生時代、寮に住んでいた。メーデーの日は全員が朝早くから行進の列をととのえる集会場に行かねばならなかった。欠席者がいないように、学生の役員たちは寮を徹底的にチェックした。そこでサビナはトイレにかくれ、みんながとっくに出ていってしまってから、自分の部屋にもどった。それまで一度も味わったことのない静けさであった。ただ遠くからパレードの音楽がきこえてきた。それは貝の中にかくれていると、遠くから敵の世界の海の音がきこえてくるようであった。 チェコを立ち去ってから二年後、ロシアの侵入の記念日にサビナはたまたまパリにいた。抗議のための集会が行なわれ、彼女はそれに参加するのを我慢することができなかった。フランスの若者たちがこぶしを上げ、ソビエト帝国主義反対のスローガンを叫んでいた。そのスローガンは彼女の気に入ったが、しかし、突然彼らと一緒にそれを叫ぶことができないことに気がつき驚いた。彼女はほんの二、三分で行進の中にいることがいたたまれなくなった。 |
サビナはそのことをフランスの友人に打ちあけた。彼らは驚いて、「じゃあ、君は自分の国が占領されたのに対して戦いたくないのかい?」と、いった。彼女は共産主義であろうと、ファシズムであろうと、すべての占領や侵略の後ろにより根本的で、より一般的な悪がかくされており、こぶしを上につき上げ、ユニゾンで区切って同じシラブルを叫ぶ人たちの行進の列が、その悪の姿を写している[pour elle, l'image de ce mal, c'étaient les cortèges de gens qui défilent en levant le bras et en criant les mêmes syllabes à l'unisson]といおうと思った。しかし、それを彼らに説明することができないだろうということは分かっていた。そこで困惑のうちに会話を他のテーマへと変えたのである。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』1984年) |
ま、こう言ってもいいがね、《私は人を先導したことはない。むしろ、熱狂が周囲に満ちると、ひとり離れて歩き出す性質だ。》(古井由吉『哀原』女人)
ボクは小学校5年から6年にかけて完全に次のタイプだったよ、 |
夕暮れにひとりきりになって立つ女の子の、その背後に男の子が忍び足でまわり、いきなりスカートの下に手を入れて、下ばきを膝までおろしてしまう。女の子はそれにしてはたじろかず、なにか遠くへ笑っているような顔を振り向けてから、腰をまるく屈めて下ばきをなおし、何もしらないくせにと言わんばかりの大人の背を見せて立ち去る。(古井由吉『ゆらぐ玉の緒』「ゆらぐ玉の緒」2017年) |
当時「ハレンチ学園」という永井豪の漫画が流行っていたこともあるけど。 |
ああ、はやくこの世界に戻りたいんだが、戻るきっかけがないんだよ。ま、でも若い人で最も大事なのはカッコつけるな、ってことじゃないかな。
![]() |
Nobuyoshi Araki at work by Sono Sion |
ーー《女っていうのはさあ、残酷って言うか、野獣だから「何で私のスケベなとこ見えないのかしら、そういうとこ撮ってくれないのかしら」って内心じゃ怒ってるわけだよ。 》(荒木経惟発言 伊藤俊治『生と死のイオタ』所収1998年)
隣のテーブルにいる女の匂[l'odeur de la femme qui était à la table voisine]…それらの顔は、私にとって、節操のかたいこちこちの女だとわかっているような女の顔よりもばるかに好ましいのであって、後者に見るような、平板で深みのない、うすっぺらな一枚張のようなしろものとは比較にならないように思われた。〔・・・〕それらの顔は、ひらかれない扉であった[ces visages restaient fermés]。しかし、それらの顔が、ある価値をもったものに見えてくるためには、それらの扉がやがてひらかれるであろうことを知るだけで十分なのである・・・ (プルースト「花咲く乙女たちのかげに」) |