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2024年4月1日月曜日

集団的無関心によって支えられている集団的西側の前代未聞の悪

 

現在のガザジェノサイドを、ロシア起源の用語《集団的西側[коллективного Запада]》にて、痛烈に批判する一連の知識人がいるのを繰り返し示してきたが、他方で「集団的無関心」という現象もある。それを私はルソーやフロイトの用語「同一化」の有無でまずは把握しようとしてきたが、この「集団的無関心」がとくに日本において際立っているとしたらーー実際私にはそう見えるーー、たんに「同一化」だけでは説明しづらい。ひょっとして半世紀以上前に丸山真男が掲げたスキーマが役立つのではないか。



要するにガザジェノサイドに「涼しい顔」をし続けている者たちは「私化」へひきこもっているタイプではないか。ーー《私化の場合には、関心の視野が個人個人の『私的』なことがらに限局され、原子化のそれのように浮動的ではない。両者とも政治的無関心を特徴とするが、私化した個人の無関心の態度は、自我の内的不安からの逃走というより、社会的実践からの隠遁といえよう。こうして彼は、原子化した個人よりも心理的には安定しており、自立化した個人に接近する。》(丸山真男「個人析出のさまざまなパターン」)ーー丸山真男の言うように彼らは自立した個人に似ているように見えるからこそ(私に言わせれば)厄介なのだが。


これも何回か掲げてきたが、柄谷行人によるこの丸山真男のスキーマのとてもすぐれた説明がある。以下、それをここではいくらか長く引用しておく。


◾️柄谷行人 「丸山真男とアソシエーショニズム」 (2006) より

丸山真男は、伝統的な社会(共同体)から個人が析出される(individuation)のパターンを考察した。日本の事例は、たとえば、テンニースのように、ゲマインシャフトに対するゲゼルシャフトとしては説明できないし、さらにリースマンのように、伝統志向に対して、内部志向と他人志向という二タイプをもってくることでも理解できない。そこで、丸山は、近代化とともに生じる個人の社会に対する態度を、結社形成的 associative と非結社形成的 dissociative というタテ軸と、政治的権威に対する求心的な centripetal 態度と遠心的な centrifugal な態度というヨコ軸による座標において分析したのである。それは図のように四つのタイプになる。(別掲図) 





簡単に説明すると、民主化した個人のタイプ(D)は集団的な政治活動に参加するタイプである。自立化した個人のタイプ(I)は、そこから自立するが、同時に、結社形成的である。 民主化タイプが中央権力を通じる改革を志向するのに対して、自立化タイプは市民的自由の制度的保障に関心をもち、地方自治に熱心である。つぎに、私化した個人のタイプ (P)は、民主化タイプの正反対である。すなわち、Pは、政治活動の挫折から、それを拒否して私的な世界にひきこもるタイプである。さらに、Pと原子化したタイプ(A)の関係はつぎのようになる。   


私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。この隠遁性向は、社会制度の官僚制化の発展に対応する。(中略)原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、 また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうち に没入する傾向をもつのである。(「個人析出のさまざまなパターン」『丸山真男集』第九 巻 p385)   


つまり、私化した個人のタイプは政治参加しないが、原子化した個人のタイプは、「過政治化と完全な無関心」の間を往復する。 この四つのタイプについて、丸山は「ある人間が、四つのうちのある型に全面的かつ純粋に属し、生涯を通じて変わらないということは稀である」という。そして、それは社会全体についてもいえる。各社会は、こうした諸タイプの分布によって構成され、またその分布の度合いは文化的社会的条件によって異なるのである。丸山によれば、一般的に、近代化が内発的でゆっくり生じる場合、IとPの分布が多くなり、他方、後進国の近代化においては、 DとAの分布が多くなる。このように見ると、近代日本に特徴的なことは、伝統社会が残っているにもかかわらず、私化と原子化の「早発的な登場」があったこと、また、これらのタイプが圧倒的に多かったことである。といっても、丸山がそういうのは、一般的な図式にもとづいて日本のケースを見た結果ではない。その逆に、彼は日本の特異性から出発し、それを例外とせずに扱うことができるような普遍的な図式(シェーマ)を考案したのである。この論文はもともと英語で書かれた。それは、日本を一ケースとするかたちをとりながら、普遍的な理論を目指している。 事実、この図式は一般的に近代について考えようとするときに不可欠である。たとえば、 「近代的個人」や「近代的自我」というような言葉がしばしば使われるが、その意味はあいまいで、議論を混乱させるだけである。 〔・・・〕


丸山は日本において、自立化する個人のタイプ(I)が育たなかった原因を、つぎのように指摘している。   

日本における統一国家の形成と資本の本源的蓄積の強行が、国際的圧力に急速に対処し「とつ国におとらぬ国」になすために驚くべき超速度で行われ、それがそのまま息つく暇もない近代化――末端の行政村に至るまでの官僚制支配の貫徹と、軽工業及び巨大軍 需工業を機軸とする産業革命の遂行――にひきつがれていったことはのべるまでもない が、その社会的秘密の一つは、自主的特権に依拠する封建的=身分的中間勢力の抵抗の脆さであつた。明治政府が帝国議会開設にさきだって華族制度をあらためヨーロッパに見られたような社会的栄誉をになう強靱な貴族的伝統や、自治都市、特権ギルド、不入権 をもつ寺院など、国家権力にたいする社会的なバリケードがいかに本来脆弱であったかがわかる。前述した「立身出世」の社会的流動性がきわめて早期に成立したのはそのためである。政治・経済・文化あらゆる面で近代日本は成り上り社会であり(支配層自身が多く成り上り、構成されていた)、民主化をともなわぬ「大衆化」現象もテクノロジーの普及とともに比較的早くから顕著になった。(『日本の思想』岩波新書 p44-45) 

〔・・・〕日本では、急速な資本主義化が進行した。しかし、それを可能にしたのは、日本に国家とは異なる「社会」という次元が無化されていたことである。  それはまた、日本では、自立化する個人のタイプが存在しにくいということでもある。このような個人がなくても、あるいは、むしろない方が、産業資本主義の発展がスムーズになされることができる。そして、その中では、人々は国家に対抗しようとすれば、せいぜい「私化」あるいは「原子化」によってそうするほかない。また、このようなところで、資本主義を否定すれば、それは「社会主義」ではなく、「国家主義」に帰結するほかない。なぜなら、そこには、自発的結社(アソシエーション)にもとづく「社会」の次元が存在しないからである。   



ここまでは何度か断片的に引用してきたが、引き続く次の節も掲げておこう。



6   


近代日本において、自立化する個人のタイプ(I)ではなく私化する個人のタイプ(P)の比率が圧倒的に多いということを、別の視点から考えてみよう。この問題が典型的にあらわれるのは、近代文学においてである。たとえば、明治十年代の自由民権運動は、基本的に、 徳川時代にも保持された農村の自治的コンミューンに依拠するものであった。しかし、それが壊滅させられたとき、人々は政治的現実を斥ける「私化」に向かった。具体的には、 それは文学に向かったということである。最初、それは北村透谷がそうであるように、現実における敗北を「想世界」において超越しようとするものであった。そこにはまだ「空の空を撃つ」闘争があった。しかし、透谷の自殺以後、日本の近代文学は、政治的な現実に背を向ける内面性となった。これは近代文学一般の特徴ではない。ただ、Iが無化された近代日本において、政治的・社会的な次元を斥ける個人は、P としてのみ見いだされたのである。 日本の自然主義文学もその延長にすぎない。それは「私化」する意識にもとづいており、 実際、まもなく「私小説」になっていった。

先に述べたように、小林秀雄は「私小説論」で、 日本の「私」は個々人の顔立ちであるが、西洋における「私」は「社会化した私」であると述べた。それは、丸山真男の図式でいえば、自立化する個人を意味する。それに対して、日本の私小説はPのタイプだけである。マルクス主義文学はこれを叩きつぶしたが、結局、 転向したマルクス主義者はほとんど私小説に向かったのである。どんなかたちであれ、国民(臣民)の個人化を恐れた日本の国家にとっては、このような 「私化」さえも危険に思われた。だから、このような文学者が、それによって、何か国家に抵抗しているかのような「気分」を抱いていたことは理解なくはない。しかし、石川啄木が「時代閉塞の現状」で述べたように、彼らは「強権に対して何等の確執をも醸した事が無い」のである。 そのようにいう石川啄木に、丸山真男が、私化するタイプとは異なる結社形成的な個人を見いだしたのはさすがである。《こうして彼は「強権の存在に対する没交渉」を主張するた ぐいの「個人主義的」傾向の背後に、受動的な形をとった大勢順応がひそんでいるのを鋭 く見ぬいたのであった。啄木は一般に急進的社会主義の同情者と見られ、あるいは感傷 的ロマンチストとかいわれている。しかしその思想と行動を立ちいって検討すれば、彼の 生活態度は、当時の自称「個人の解放」の主唱者の多くよりもはるかに、開かれた結社形 成的な個人主義のエートスに近づいていることが明らかである》(「個人析出のさまざまな パターン」『丸山真男集』第九巻 p399)。

しかし、啄木の批判にもかかわらず、また、マルクス主義者の批判にもかかわらず、日本の近代文学の基調は、私化する個人のタイプにあった。すなわち、「私小説」である。このことは、狭義の私小説が書かれなくなった現在においても変わりはない。「『強権の存在に対する没交渉』を主張するたぐいの『個人主義的』傾向」が支配的なのである。 ここでデモの話に戻ると、日本人がデモに行かないということは、たんに近代の社会(ゲゼルシャフト)ということでは理解できない。また、それを一般に大衆社会や消費社会のせい にすることもできない。私化した個人にとっては、たんなるデモでも大変な飛躍を意味する。 もしデモに行くとすれば、原子化したタイプからなる群衆あるいは暴徒としてのみである。 これは長続きしない。その後は、まったくデモがないということになる。それに対して、自立化した個人のタイプは、「個人と国家の間にある自主的集団」、つまり協同組合・労働組合 その他の種々のアソシエーションに属しているから、逆に、個人としても強いのである。結社形成的な個人はむしろ、結社の中で形成されるものだ。一方、私化した個人は、政治的には脆弱であるほかない。 先に、私は日本には「象牙の塔」はないといった。このことも、右の事情と関係がある。ヨーロッパの大学は自治都市と同様に、もともと国家から自立したアソシエーションとして発展してきたが、日本の大学は国家によって作られたものだ。ゆえに、日本ではたとえ大学が 「象牙の塔」となろうとしても、許されないし、事実、つねに批判されてきたのである。その点に関して、丸山はつぎのようにいっている。   


国家権力の前に平等にひれ伏す臣民の造出が、ほとんど抵抗らしい抵抗をみないで成 功したことの背景には、むろん、教育権を国家がいち早く独占したことが大きな意味をもっ ております。国家が国民の義務教育をやるということは、今日近代国家の常識になってお りますが、この制度が、日本ほど無造作に、スムーズに行われた国は珍しいのであります。 なぜかといえば、ヨーロッパでは、教会という非常に大きな歴史的存在が、国家と個人との間にあって、これが自主的集団といわれるもの、つまり、国家によって作られた集団ではなく、権力から独立した集団のいわゆる模範になっております。この教会が、教育を伝統的に管理していた。そこでこの教会と国家との間に、教育権をめぐって非常に大きな争いをどこの国でも経験している。ところが日本では、徳川時代からすでに、たとえば仏教のお寺は完全に行政機構の末端になっておった。つまり日本では、寺院がすでに自主的な集団ではなくなっておった。ですから寺子屋教育を国家教育にきりかえることは、きわめて容易だったわけです。そのほか、ヨーロッパでは、自治都市や地方のコンミューンがやはり国家権力の万能化に対するとりでとなり、自主的楽園の伝統をつくる働きをしましたが、この点でも、日本では、都市はほとんど行政都市でしたし、また徳川時代の村にわずかに残った自治も、町村制によって、完全に官治行政の末端に包みこまれてしまったので、中央集権国家ができ上がると、国家に対抗する自主的集団というものはほとんどなく、その点でも、 自由なき平等化、帝国臣民的な画一化が、非常に早く進行しえたわけです。(「思想と政治」丸山真男集第7巻 p128―129)   


このように、明治以後に生じた問題は、徳川時代あるいはそれに先立つ織豊政権の時代に根ざしている。日本において絶対主義的な集権化がおこったのは、この時期である。それは、ある意味で不徹底であり、ある意味で徹底していた。それが不徹底だったのは、徳川体制が他の諸侯を徹底的に滅ぼすまでにいたらなかったからである。徳川は、他の諸侯を全面的に制圧するかわりに、参勤交代その他によって他の諸侯を弱体化する方法をとった。それは外的に、東アジア一帯に、ヨーロッパのように他の絶対主義国家に対抗する必要がなかったからである。また内的には、天皇制の下での「将軍」という位置づけによって、他の諸侯の反乱の芽をあらかじめ摘んでしまったからである。 しかし、集権化という面でいえば、徳川体制は「徹底的」であった。ヨーロッパでは丸山真男が指摘するように、王権に対する西ローマ教会の対抗が強く、結果的に「中性国家」(カール・シュミット)に帰結したのであるが、織豊政権から徳川体制にいたる過程で、一向宗 (浄土真宗)などの宗教勢力は完全に制圧されてしまった。このことは狭義の宗教の問題にとどまらなかった。一向宗は、堺などの都市国家、加賀などの農民コンミューン国家と結 びついていたからである。ゆえに、徳川体制が宗教を制圧したことは、自主的結社を支える精神的基盤を根本的に奪うことを意味したのである。徳川体制は外見上領主分国制であるが、実際は、地方分権的という意味での「封建制」は成立しなかった。逆に、徳川体制の下で、「国民」的な同一性が形成された。本居宣長が見いだす「やまとごころ」は、古代ではなく、18 世紀後半に形成された感情的な同一性にもとづいている。それはすでに近代的なネーションの意識であり、同時期のドイツに生じたそれと併行するものである。それが、明治維新を通して、近代国家としての体制を急速に作り上げることを可能にしたのである。徳川体制は、家産官僚国家のイデオロギーである朱子学を導入したが、それは言葉だけで、実際にはそのような国家にはならなかった。徳川体制において武士は官僚化した。豊臣秀吉の「刀狩り」以後、それまでのような農民=武士、武士=農民という現実的基盤が否定されたからである。以後、武士は土地をもつことなく、官僚として生きることになる。しかし、彼らは、中国や朝鮮においてそうであるような、官位によって土地財産を得る家産官僚ではなく、ある意味で、機能主義的な近代国家の官僚に近い。そして、そのような人々が、忠誠の対象を藩主から天皇に代表される明治国家にふりかえたとき、近代国家官僚制が完成したのである。明治維新は、天皇と将軍という二元性を解消し、多くの封建諸侯を統合して、絶対主義王権国家を実現したように見える。しかし、そのほとんどが徳川体制において用意されていたものである。このように、明治以後に見られる日本の特徴は、徳川時代に遡って見なければならない。だが、そうすれば、さらにもっと以前に遡行しなければならないということになるだろう。実際、丸山はそれを歴史意識の「古層」にまで遡行して考えている。私自身もかつて「日本精神分析」と称して、そのような遡行を企てた。しかし、現在、私はそのような遡行ではなく、 それを世界史の普遍的なパースペクティブの中で見直すべきだと考えている。それはマルクスが示した、アジア的生産様式と封建的生産様式という視点を再考することによって可能になると考えている。実は、それは、「日本資本主義論争」以来、丸山真男自身が考えていたことである。しかし、それについて論じるのは、別の機会に譲る。 

(柄谷行人 「丸山真男とアソシエーショニズム」 2006年)


この観点から言えば、当人はおそらく「自立化」していると思い込んでいる学者やインテリもそのほとんどは「私化」類型なんだろうよ。で、問いはこの現象への抵抗を日本的宿命として「諦める」か否かだがね。

ラカン派の見方では、学園紛争以後ーーエディプス的父の凋落以後ーー欧米の民自体が、自立化から私化に向かっていると捉えうるかもしれない。➡︎「最悪の時代への突入

とはいえ欧米は日本的集団的無関心よりはずっとマシである。

ーーと記せば、丸山真男の天皇制批判としての「無責任の体系」(参照)を想起して、天皇制のせいだと短絡的に考える人がいるかもしれないが、柄谷は江戸時代の象徴天皇制についてむしろ肯定的な見方をしていることを付け加えておこう、➡︎柄谷の「天皇と超自我」をめぐって