丸山真男の愛国心の定義をネット上で拾ったので、少し前記した「愛国心、あるいは「パトリオティズムとナショナリズム」」の捕捉としてここに掲げる。 |
愛国心:もっとも抽象的一般的意味においては愛国心とは人がその属する政治的社会に自己を同一化identifyするところから生ずる感情や態度の複合体にたいして名づけられた言葉‥。それはナショナリズムと密接な関係にあるが、後者が一応ネーションを基盤にしているのにたいして、愛国心は例えば古代ギリシャの都市国家のばあいにももちいられるようにより概念が広い。しかし今日愛国心の政治的意味を論ずるときには近代の民族国家におけるそれをさすのがふつうである。… 近代国家における愛国心はほぼ二つの段階を経て成立した。第一に、絶対君主による中央集権的統一国家の樹立は中世における領主、教会、ギルド、自治都市へのloyaltyを崩壊させ、あらたに愛国心の地盤としての国家領域national territoryを登場させた。…しかし近代の愛国心の形成に決定的な重要を持つ第二の契機は自由・民主主義の発展であった。愛国心という言葉にはじめてその近代的意味をあたえた政治家が十八世紀初期のイギリスにでたのは偶然ではない。…さらにルソーの思想において自由と愛国の二つの観念はロマン的な色調をおびて結合され、これがフランス革命において指導的なスローガンとなった。(丸山真男「政治学事典執筆項目 愛国心」1954.5) |
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近代的な愛国心は市民的自由によってささえられ合理化されつつ発展していったけれども、他面愛国心は今日までエスノセントリズムの臍帯(さいたい)をまったく断ちきるにいたっていない。とくに近代国家体制に内在する矛盾が十九世紀後半以後激化するにしたがって、愛国心のもつ非合理的な激情性は皮肉にも極度に合理化された政治技術-マス・コミュニケイションと結びついた宣伝・教育-によって計画的に動力化され、支配階級のおこなう対内抑圧と対外侵略のための最良の武器とされた。そうした政策が各国において驚くべく成功した秘密は愛国心の政治心理的な構造のうちに見出されねばならない。愛国心は‥人々が自我とその属する国とを同一化する感情である。この同一化は本来非人格的な「くに」を人格化することによっておこなわれる。ところが一方国土とその歴史・伝統が人格化される心理的過程と、他方装置としての政治・国家機構が人格化される過程とは、特に政府が国民の危機意識に訴える場合には容易に合流する。こうしてときの支配権力は自己にたいする敵対者を「くに」にたいする敵対者として多数の国民の眼に映じさせることによって反対者を「非国民」「売国奴」として葬ることに成功する。こうした場合愛国とはすなわち批判の封殺、不寛容、権威への默従と同義になる。…さらに自我の国家権力への投射は、しばしば対外的な膨張や侵略にたいする熱烈な追随としてあらわれる。愛国心はかくて国への献身という利他的感情と、国家との同一化から生ずる自我拡張の欲求とを同時に満足させることになる。… しかし愛国心の非合理的源泉は他の条件のもとにおいては歴史的な進歩と解放の動力として作用する。とくに帝国主義国家の軍事的侵略の対象となった国や植民地化された地域においては、国民は日々慣れ親しんだ生活環境の無残な破壊に直面するから、愛国心はその最底辺としての郷土愛の次元に一旦否応なくおしさげられることによってかえってそこから強烈なエネルギーとして再上昇する。(丸山真男「政治学事典執筆項目 愛国心」1954.5) |
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戦前の愛国心がたった一度の敗戦でマッカーサー万歳となるほどにもろかったのはなぜか、その価値判断は別として、なぜあれほど立派に見えたナショナリズムがもろかったのかを問題にしなければならない。つまり日本のナショナリズムがどういう構造をもっていたかを考えてみるべきで、その上でのみ新しいナショナリズムが問題になると思います。それは‥世界市民主義つまり普遍者へのコミットがないナショナリズムは成り立たないわけです。異質的なものとの接触をへていない愛国心は実にもろいのです。‥主体性というのは外とぶつかりあうときの態度をいうわけで、たんなる内発性ではありません。だから、普遍的な真理を追求しないでは出てくるものではないのです。(丸山真男「普遍の意識欠く日本の思想」1964.7) |
こうあったーー、 |
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愛国心は‥人々が自我とその属する国とを同一化する感情である。この同一化は本来非人格的な「くに」を人格化することによっておこなわれる。ところが一方国土とその歴史・伝統が人格化される心理的過程と、他方装置としての政治・国家機構が人格化される過程とは、特に政府が国民の危機意識に訴える場合には容易に合流する。こうしてときの支配権力は自己にたいする敵対者を「くに」にたいする敵対者として多数の国民の眼に映じさせることによって反対者を「非国民」「売国奴」として葬ることに成功する。こうした場合愛国とはすなわち批判の封殺、不寛容、権威への默従と同義になる。…さらに自我の国家権力への投射は、しばしば対外的な膨張や侵略にたいする熱烈な追随としてあらわれる。愛国心はかくて国への献身という利他的感情と、国家との同一化から生ずる自我拡張の欲求とを同時に満足させることになる。 |
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これはナチの天才理論家カール・シュミットの民主主義の定義に酷似している。
冒頭にリンクした「愛国心」をめぐる記事で、柄谷行人はデモクラシーとナショナリズムを等置しているのを見ている。
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※附記
デモクラシーにつきもののデマゴーグとプロパガンダは語源的には悪い意味はない。デモクラシーにはデマゴーグのプロパガンダが必要不可欠である。なぜなら《大衆は指導者がなければ決して動かない》から。 |
政治は普通思われているように、思想の関係で成立するものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力慾は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に顛落する危険を孕んでいるものはない。(小林秀雄「プラトンの「国家」」1959年) |
確認すれば、デモクラシーは大衆の支配である。 |
民主主義(デモクラシー)とは、大衆の支配ということです。これは現実の政体とは関係ありません。たとえば、マキャヴェリは、どのような権力も大衆の支持なしに成立しえないといっています。これはすでに民主主義的な考え方です。彼はたしかに『君主論』を書いた人ですが、もともと共和主義者でした。(柄谷行人『〈戦前〉の思考』1994年) |
そしてデマゴギーーーデマゴーグによるプロパガンダーーは必ず必要である。 |
古井由吉)デマゴギーというのは僕らにとっての宿命というくらいに僕は思ってるんです。つまりデモクラシーという社会を選んだんだ。それには付き物なんですよ。有効な発言もデマゴギーぎりぎりのところでなされるわけでしょう。 そうすると、デマゴギーか有効な発言かを見分けるのは、こっちにかかってくるんだけれど、これはなかなか難しい。つまり、だれのためかっていうことだ。マスのためだとしたらデマゴギーは有効なんですね。デマゴギーはその先のことなんて考えないからね。 それにしても、政治家もオピニオンリーダーたちも、マスイメージにたいして語るんですね。民主主義の本来だったら、パブリックなものに語らなきゃいけない。ところが日本では、パブリックという観念が発達してないでしょう。(古井由吉『西部邁発言①「文学」対論』より) |
デマゴーグがマスイメージにたいして語るなら衆愚政治に陥る、ーー《民主とは「根拠の乏しい臆説にほかならぬオピニオンをまとめたものによって右往左往させられるオクロス(衆愚)の政治」のことだととっくに判明している。》(西部邁「公共的実践の本源的課題」実践政策学・創刊号(第 1 巻 1 号)2015年)
なお古井由吉の云う「パブリックなものに語らなきゃいけない」とはカント的意味の「理性の公的使用」である。 |
自分の理性を公的に使用することは、いつでも自由でなければならない、これに反して自分の理性を私的に使用することは、時として著しく制限されてよい、そうしたからとて啓蒙の進歩はかくべつ妨げられるものではない、と。ここで私が理性の公的使用というのは、ある人が学者として、一般の読者全体の前で彼自身の理性を使用することを指している。また私が理性の私的使用というのはこうである、ーー公民としてある地位もしくは公職に任ぜられている人は、その立場においてのみ彼自身の理性を使用することが許される、このような使用の仕方が、すなわち理性の私的使用なのである。 (中略)しかしかかる機構の受動的部分を成す者でも、自分を同時に全公共体の一員――それどころか世界公民的社会の一員と見なす場合には、従ってまた本来の意味における公衆一般に向かって、著書や論文を通じて自説を主張する学者の資格においては、論議することはいっこうに差支えないのである。(カント 『啓蒙とは何か』) |
以下、柄谷注釈を掲げておこう。 |
通常、パブリックは、私的なものに対し、共同体あるいは国家のレベルについていわれるのに、カントは後者を逆に私的と見なしている。ここに重要な「カント的転回」がある。この転回は、たんに公共的なものの優位をいったことにではなく、パブリックの意味を変えてしまったことにあるのだ。パブリックであること=世界公民的であることは、共同体の中ではむしろ、たんに個人的であることとしか見えない。そして、そこでは個人的なものは私的であると見なされる。なぜなら、それは公共的合意に反するからだ。しかし、カントの考えでは、そのように個人的であることがパブリックなのである。(…) 世界市民的社会に向かって理性を使用するとは、個々人がいわば未来の他者に向かって、現在の公共的合意に反してもそうすることである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P156) |
ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。 たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192) |
この意味で、今ここにいる者たちの「公共的合意」は成立するだろう、例えば「減税ポピュリズム」は、理性の私的使用であり、衆愚政治の領域にある。
減税ポピュリズムの別名のひとつは《財政的幼児虐待[Fiscal Child Abuse]》ーーボストン大学経済学教授ローレンス・コトリコフ Laurence Kotlikoff の造語ーーである、《財政的幼児虐待:現在の世代が社会保障収支の不均衡などを解消せず、多額の公的債務を累積させて将来の世代に重い経済的負担を強いること。》