三島由紀夫は死の2年前(1968年)、日本的文脈での「愛国心――官製のいやなことば」と言ったが(参照)、三島の言ってるのといくらか別の相の部分はあるとはいえ、愛国心という言葉が厄介なのは欧米文脈でも同じである。丸山真男ゼミ出身の橋川文三は三島が上のように言った同年、パトリオティズムとナショナリズムについて次のように言っている。 |
パトリオティズムとは、幼少期より自然に形成された具体的な郷土への愛着のことである。これに対して、ナショナリズムとは、全ての人民による、抽象的な政治的共同体すなわち国家への一体的な忠誠心のことである。両者の関係は複雑である。なぜなら、後者のために前者は郷党根性などとして否定されうるが、同時に、空疎となるおそれのある後者の補完として前者は利用されうるからである。(橋川文三『ナショナリズム その神話と論理』1968年) |
この1968年の橋川文三は、現在、パトリオティズムとナショナリズムを語るとき欠かせないマウリツィオ・ヴィローリの1995年の論文に先立った優れた指摘であるだろう。 |
パトリオティズムという言葉は何世紀にもわたり、一つの集団の共同の自由を支える政治制度と生活様式への愛、つまりは共和政体への愛を強めたり喚起したりする目的で使われてきた。 ナショナリズムという言葉は、18世紀後半のヨーロッパで、人々の文化的、言語的、民族的な一体性と均質性を擁護または強化するために作られた。共和主義的パトリオティズムの敵が暴政や独裁政治、抑圧や腐敗であるのに対して、ナショナリズムの敵は異文化による文化の汚染、異種混交、人種的不純、そして社会的、政治的、知的な不統一である。 |
The language of patriotism has been used over the centuries to strengthen or invoke love of the political institutions and the way of life that sustain the common liberty of a people—or love of the republic; the language of nationalism was forged in late eighteenth-century Europe to defend or reinforce the cultural, linguistic, and ethnic oneness and homogeneity of a people.(…) whereas the enemies of republican patriotism are tyranny, despotism, oppression, and corruption, the enemies of nationalism are cultural contamination, heterogeneity, racial impurity, and social, political, and intellectual disunion |
(マウリツィオ・ヴィローリ『パトリオティズムとナショナリズム―自由を守る祖国愛』Maurizio Viroli, For Love of the Country: An Essay on Patriotism and Nationalism, Oxford University Press. 1995) |
ヴィローリはさらにこう言っている、《歴史上しばしば見られたように、国民が道徳的・政治的危機に直面すると、パトリオティズムかナショナリズムかいずれかの言葉が知的覇権を握る可能性が高い。これらの言葉は、他の言葉には欠けている団結と動員の力を有しているように思われる[As history has often shown, when a nation faces a moral and political crisis, either the language of patriotism or that of nationalism is likely to attain intellectual hegemony. Those languages seem to possess a unifying and mobilizing force that others lack. ]》
この《国民が道徳的・政治的危機に直面》とは、いまの世界だろう、日本においても端的にそうだ。でもどっちなんだろう、パトリオティズムかナショナリズムか? ここで先の橋川の言葉が活きてくる、《両者の関係は複雑である。なぜなら、後者(ナショナリズム)のために前者(パトリオティズム)は郷党根性などとして否定されうるが、同時に、空疎となるおそれのある後者(ナショナリズム)の補完として前者(パトリオティズム)は利用されうるからである。》。
たぶん現在の日本はこの橋川文三の言うようになっているのではないか、とくにパトリオットであったつもりでもナショナリストとして振る舞わざるを得なくなっているのではないか。ヴィローリの言い方を使って言い直せば、《暴政や独裁政治、抑圧や腐敗》に対する闘争としてのパトリオティズムであったつもりが、《異文化による文化の汚染、異種混交、人種的不純、そして社会的、政治的、知的な不統一》に対する闘争としてのナショナリズムに取り込まれてしまっている、と。
ここで注意しておかねばならないのは「愛国心」(祖国愛)ーーこの語を当面パトリオティズムとナショナリズムの両方を含んだ意味で使うがーーは、アメリカのような移民国家、ロシアのような多民族国家、そして日本のような単民族幻想を持っている国家では、意味合いが異なることだ。
三島がいみじくも次のように言っているがね、
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、「大和魂」で十分ではないか。 アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、かういふものを基礎にして、合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。国はまづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。 |
アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的である。観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。 そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。われわれはとにかく日本に恋してゐる。これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。(本当は「対する」といふ言葉さへ、使はないはうがより正確なのだが)しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。 われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間にこの心情の助けを借りて、あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。(三島由紀夫「愛国心――官製のいやなことば」1968年) |
もっともこの三島由紀夫の「恋と愛」の用語遣いだと、先の「パトリオティズムとナショナリズム」の区分をうまく摘要できなくなる。内的恋がパトリオティズムに近似し、外的愛がナショナリズムに近似するとしても、内的恋こそよりいっそう他者への憎悪を生みうる。ーーということはあるが、日本の愛国心ーーいや恋国心ーーは観念的ではなく感情的・心情的であるというのは今でも正しい(これは非一神教国家の特性のひとつでもある、一神教=言語的、非一神教=非言語的心情的)。その意味で、腐敗に対する闘争は容易に異文化差別へと反転しがちである(現在のどこかの新興政党のように?)。
ところでーー、である。
憎悪は対象にたいする関係としては愛よりも古い[Der Haß ist als Relation zum Objekt älter als die Liebe](フロイト『欲動とその運命』1915年) |
憎悪は愛の親である[la haine est parente de l'amour](ラカン, S24, 10 mai 1977) |
おわかりだろうか、この《愛憎コンプレクス[ Liebe-Haß-Komplex]》(フロイト『鼠男』第2章、1909年)を。 |
わたしがかつて愛にたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段として行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪なのだ[Hat man Ohren für meine Definition der Liebe gehabt? es ist die einzige, die eines Philosophen würdig ist. Liebe – in ihren Mitteln der Krieg, in ihrem Grunde der Todhaß der Geschlechter. ](ニーチェ『この人を見よ』1888年) |
でも、好きと嫌いは紙一重ですよ。人は嫌いというところがなければ、好きになりません。この女とだけは寝たくない、という場合に限って、むずかしい関係になるものです。(古井由吉『人生の色気』「表現は異種交配への欲求」2009年) |
感情的・心情的な愛は必ずこの相がある。だがこの話は今は突っ込むのをやめておこう。
閑話休題ーー。
さて話を戻して、柄谷行人のネーション概念の基盤になっているアンダーソンのナショナリズムの捉え方を見てみよう。
ネーション〔国民Nation〕、ナショナリティ〔国民的帰属nationality〕、ナショナリズム〔国民主義nationalism〕、すべては分析するのはもちろん、定義からしてやたらと難しい。ナショナリズムが現代世界に及ぼしてきた広範な影響力とはまさに対照的に、ナショナリズムについての妥当な理論となると見事なほどに貧困である。ヒュー・シートンワトソンーーナショナリズムに関する英語の文献のなかでは、もっともすぐれたそしてもっとも包括的な作品の著者で、しかも自由主義史学と社会科学の膨大な伝統の継承者ーーは慨嘆しつつこう述べている。「したがって、わたしは、国民についていかなる『科学的定義』も考案することは不可能だと結論せざるをえない。しかし、現象自体は存在してきたし、いまでも存在している」。〔・・・〕 |
ネーション〔国民Nation〕とナショナリズム〔国民主義 nationalism〕は、「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも、「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単なのだ[It would, I think, make things easier if one treated it as if it belonged with 'kinship' and 'religion', rather than with 'liberalism' or 'fascism'. ] そこでここでは、人類学的精神で、国民を次のように定義することにしよう。国民とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像されると[In an anthropological spirit, then, I propose the following definition of the nation: it is an imagined political community - and imagined as both inherently limited and sovereign. ]〔・・・〕 |
国民は一つの共同体として想像される[The nation …it is imagined as a community]。なぜなら、国民のなかにたとえ現実には不平等と搾取があるにせよ、国民は、常に、水平的な深い同志愛[comradeship]として心に思い描かれるからである。そして結局のところ、この同胞愛[fraternity]の故に、過去二世紀わたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである。 これらの死は、我々を、ナショナリズムの提起する中心的間題に正面から向いあわせる。なぜ近年の(たかだか二世紀にしかならない)萎びた想像力[shrunken imaginings]が、こんな途方もない犠牲を生み出すのか。そのひとつの手掛りは、ナショナリズムの文化的根源に求めることができよう。(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』1983年) |
ナショナリズムとはこの相がある。
「公定ナショナリズム」ーーネーションと王朝帝国の結婚ーーを位置づける鍵は、それが1820年代以降にヨーロッパで盛んになった民衆的国民運動の後に、またそれに対する反応として発展したことを思い出すことである。 |
The key to situating 'official nationalism' — willed merger of nation and dynastic empire — is to remember that it developed after, and in reaction to, the popular national movements proliferating in Europe since the 1820s. |
(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』1983年) |
そして日本についてはーー、 |
明治人は、半ば幸運な3つの要因に助けられた。第一に、2世紀半に及ぶ鎖国と幕府による国内の平定によって、比較的高い民族文化的同質性である。〔・・・〕 第二に、天皇家の万邦無比の古さ(日本は有史以来、君主制が単一の王朝によって独占されてきた唯一の国である)と、その象徴的な日本性(ブルボン家やハプスブルク家とは対照的)により、公定ナショナリズムの目的のために天皇を利用することはむしろ容易であった。〔・・・〕 第三に、夷人が突然、一挙に脅威的に侵入してきたため、政治的に意識のある人たちの大半が新しい国民的条件で抱かれた国防計画を容易に結集することができた。 |
the men of Meiji were aided by three half-fortuitous factors. First was the relatively high degree of Japanese ethnocultural homogeneity resulting from two and a half centuries of isolation and internal pacification by the Bakufu. (…) Second, the unique antiquity of the imperial house (Japan is the only country whose monarchy has been monopolized by a single dynasty throughout recorded history) , and its emblematic Japanese-ness (contrast Bourbons and Habsburgs) , made the exploitation of the Emperor for official-nationalist purposes rather simple . (…) Third, the penetration of the barbarians was abrupt, massive, and menacing enough for most elements of the politically-aware population to rally behind a programme of self-defence conceived in the new national terms. |
(ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』1983年) |
注意しないとな、リベラリズムあるいはグローバリズムを嫌ってナショナリズム信者になっている方々は。
◾️ナショナリズムは最も強力な政治イデオロギー |
ナショナリズムは地球上で最も強力な政治イデオロギーであるため、ナショナリズムとリベラリズムが衝突すると必ずナショナリズムがリベラリズムに勝り、秩序の根幹を揺るがすことになる。 さらに、世界貿易と投資の障壁を最小化しようとしたハイパーグローバリゼーションは、リベラルな世界全体で失業、賃金の低下、所得格差の拡大をもたらした。また、国際金融システムの安定性を低下させ、金融危機の再発につながった。これらの問題はその後、政治問題へと変化し、リベラルな秩序への支持をさらに損なうことになった。 |
Because nationalism is the most powerful political ideology on the planet, it invariably trumps liberalism whenever the two clash, thus undermining the order at its core. In addition, hyperglobalization, which sought to minimize barriers to global trade and investment, resulted in lost jobs, declining wages, and rising income inequality throughout the liberal world. It also made the international financial system less stable, leading to recurring financial crises. Those troubles then morphed into political problems, further eroding support for the liberal order. |
(ミアシャイマー「失敗する運命ーーリベラルな国際秩序の興亡」 John J. Mearsheimer, Bound to Fail The Rise and Fall of the Liberal International Order, 2019) |
ま、もちろん世界的に国民レベルではこうなんだけどさ。
◾️「リベラリズム/ナショナリズム」=「個人主義/集団主義」=「普遍主義/個別主義」 |
リベラリズムとナショナリズムは明らかに異なるイデオロギーである。リベラリズムの核にある個人主義は、不可侵の権利の強調と相まって、普遍主義的なイデオロギーとなっている。対照的に、ナショナリズムは、個人よりも集団の重要性を強調し、どこまでも個別主義的である。〔・・・〕 無制限のリベラリズムがナショナリズムにとって非常に危険なのは、国民的アイデンティティ、つまり個人が国家と密接に同一化する強い傾向を弱める可能性があることである。 |
Liberalism and nationalism are obviously distinct ideologies. The individualism at liberalism's core, coupled with its emphasis on inalienable rights, makes it a universalistic ideology. Nationalism, in contrast, stresses the importance of the group over the individual and is particularistic all the way down. (…) What makes unbounded liberalism so dangerous to nationalism is its potential to weaken national identity―that is the powerful inclination for individuals to closely identify with their nation. |
(ミアシャイマー「現代アメリカにおけるリベラリズムとナショナリズム」John J. Mearsheimer, Liberalism and Nationalism in Contemporary America, 2020) |
ところで柄谷行人は昔から「リベラリズム/ナショナリズム」ではなくて「リベラリズム/デモクラシー」の区分をしている、上でミアシャイマーの言っているナショナリズムと柄谷のデモクラシーは事実上、等価だが。
人々は自由・民主主義が勝利したといっている。しかし、自由主義や民主主義を、資本主義から切り離して思想的原理として扱うことはできない。いうまでもないが、「自由」と「自由主義」は違う。後者は、資本主義の市場原理と不可分離である。さらにいえば、自由主義と民主主義もまた別のものである。ナチスの理論家となったカール・シュミットは、それ以前から、民主主義と自由主義は対立する概念だといっている (『現代議会主義の精神史的地位』)。民主主義とは、国家(共同体)の民族的同質性を目指すものであり、異質なものを排除する。ここでは、個々人は共同体に内属している。したがって、民主主義は全体主義と矛盾しない。ファシズムや共産主義の体制は民主主義的なのである。 それに対して、自由主義は同質的でない個々人に立脚する。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。表現の自由と権力の分散がここでは何よりも大切である。〔・・・〕自由主義と民主主義の対立とは、結局個人と国家あるいは共同体との対立にほかならない。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収) |
自由主義は本来世界資本主義的な原理であるといってもよい。そのことは、近代思想にかんして、反ユダヤ主義者カール・シュミットが、自由主義を根っからユダヤ人の思想だと主張したことにも示される。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収) |
で、このデモクラシーはナショナリズムだよ。 |
デモスは一種の「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)であるという点で近代国家に似ていた。アテネのデモクラシーはこの種のナショナリズムと切り離せない[the demos resembled the modern nation in being a kind of “imagined community” (Benedict Anderson). Athenian democracy is inseparable from this kind of nationalism. ](柄谷行人『世界史の構造』第5章、2010年) |
で、この観点でのデモクラシー=ナショナリズムは差別主義に向かう、異質な者を排除・殲滅するね。
以下のカール・シュミットの「民主主義」を「ナショナリズム」に置き換えてもピッタンコだ |
民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質な者の排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…] Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版) |
これがプーチンの言ってるナショナリズムだね、ナショナリズムはナチズムへの第一歩と。
で、この記事で何が言いたいのか? 一言で言えば、新興政党のナショナリズムにくれぐれも注意しないとな、ということだ。もっとも注意しても殆どムダなことを私は知らないわけではないが。
国民集団としての日本人の弱点を思わずにいられない。それは、おみこしの熱狂と無責任とに例えられようか。輿を担ぐ者も、輿に載るものも、誰も輿の方向を定めることができない。ぶらさがっている者がいても、力は平均化して、輿は道路上を直線的に進む限りまず傾かない。この欠陥が露呈するのは曲がり角であり、輿が思わぬ方向に行き、あるいは傾いて破壊を自他に及ぼす。しかも、誰もが自分は全力をつくしていたのだと思っている。(中井久夫「戦争と平和についての観察」初出2005年『樹をみつめて』所収) |
……ある旧高官から非常に面白い比喩をきかされたことがあります。それは今度の戦争というのは‥お祭りの御輿の事故みたいなものだということです。始めはあるグループの人が御輿をワッショイワッショイといって担いで行ったが、ある所まで行くと疲れて御輿をおろしてしまった。ところが途中で放り出してもおけないので、また新たに御輿を担ぐものが出て来た。ところがこれ又、次のところまで来て疲れて下ろした。こういう風に次から次と担ぎ手が変り、とうとう最後に谷底に落ちてしまった、というのです。…結局始めから終りまで一貫して俺がやったという者がどこにも出て来ないことになる。つまり日本のファシズムにはナチのようにそれを担う明確な政治的主体-ファシズム政党-というものがなかった。しかもやったことは国内的にも国際的にもまさにファッショであった。主体が曖昧で行動だけが残っているという奇妙な事態、これが支配層の責任意識の欠如として現われている。(丸山真男「戦争責任について」1956.11) |
ま、ムダな抵抗かもしれないが、それでも最後まで頑張らないとな、ーーと気楽なことが言える在外日本人の戯言でした。
…………
※附記
いま見たら厳密にはこう言っている、さすがプーチン。
《パトリオティズムとは異なり、ナショナリズムはナチズムの第一段階である[Nationalism is the first stage to Nazism, unlike patriotism]》(プーチン、2025/4/30)
https://en.iz.ru/en/1879846/2025-04-30/putin-pointed-out-danger-nationalism
いやよりいっそう厳密に露語ではーー、
Национализм - это первая стадия к нацизму, это первый шаг. Потому что национализм основан не просто на любви к представителям своего этноса, а на ненависти к другим. Вот в чем суть национализма. Патриотизм - это совсем другое дело. Любить свою Родину - это не значит ненавидеть других", - сказал Путин на встрече с участниками просветительского марафона "Знание.
英訳
Nationalism is the first stage towards Nazism, it is the first step. Because nationalism is based not simply on love for representatives of one's own ethnic group, but on hatred for others. That is the essence of nationalism. Patriotism is a completely different matter. Loving one's homeland does not mean hating others," Putin said at a meeting with participants of the educational marathon "Knowledge.
もっとも過去のプーチンはнационалистという語を使って自らを規定している。例えば2018年10月17日のヴァルダイ討論クラブでは、私は「最も正当的なで真のナショナリストсамый правильный и настоящий националист」と言っている。これは本来はパトリオットПатриотとすべきところだろう。このようにプーチンでさえ過去には用語の混同がある。