柄谷行人は「私の謎」最終回でこう言っている。
◼️人類史に埋め込まれた希望 考え尽くせぬ「謎」:私の謎 柄谷行人回想録㉙(最終回) |
柄谷 『力と交換様式』のもとになったのは、雑誌で連載した「Dの研究」という論考でした(「atプラス」、2015~16年)。人類史に見られる多様な交換様式Dを考察したものです。そこに加筆修正を繰り返しているうちに、交換様式論を全面的に再考することになってしまった。それでできたのが『力と交換様式』です。交換様式論の集大成のような内容になりました。 ――まさに交換様式論の核心となるDについては後ほどお聞きしますが、タイトルにもある “力”についての本でもありますね。 柄谷 交換というのは、つくづく不思議なものなんですよ。たとえば、等価だから交換が成立するわけじゃない。というより逆に、交換が成立することで等価性が生まれる。 ――確かに不思議です。 |
柄谷 マルクスは商品交換(C)を成立させているのが“物神(フェテッシュ)”という謎の存在からくる強迫的な力であることを見いだした。僕は、それ以外の交換にも、それぞれに特有の謎の力が働いていると考えました。そしてそれら交換の力が、歴史や社会、さらには個人のあり方までをも決定している。『力と交換様式』では、それらの力について考察しました。 ――集大成とおっしゃっていたように、この1冊で交換様式のなんたるかがわかるようになっていました。 柄谷 交換から世界を見るという考えは、一般的ではありません。というより、僕が一人で言ってるだけでしょ(笑)。世の中では、交換様式はまったく理解されていない。今年の終わりか来年の始めに、『力と交換様式』の英訳が出るので、それで少しは変わるかと期待しているんだけど。日本でも文庫化が決まったし。 |
「力と交換様式」とは、以前にも示したが、「フェティッシュと交換様式」であり、それがここでも示されている。
そして半ば冗談っぽくだが、《交換から世界を見るという考えは、一般的ではありません。というより、僕が一人で言ってるだけでしょ(笑)》とあるが、この交換とは『トランスクリティーク』で示されているようにコミュニケーションであり、世界はコミュニケーションとすれば、何の不思議でもない。
広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。国家も民族も交換の一形態であり、宗教もそうである。その意味では、すべて人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。そして、それらの中で、いわゆる経済学が効象とする領域が特別に単純で実際的なわけではない。 貨幣や信用が織りなす世界は、神や信仰のそれと同様に、まったく虚妄であると同時に、何にもまして強力にわれわれを蹂躙するものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第2章、2001年) |
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例えば、柄谷はラカンとほとんど同じことを言っている。 |
人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある[pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.] (Lacan, S4, 21 Novembre 1956) |
マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年) |
つまり商品の交換と同様、言語の交換自体、フェティッシュである。 これはまったく奇妙なことではなく、むしろラカニアンのベースである。 |
主体の生の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体である[le vrai partenaire de la vie de ce sujet n'était en fait pas une personne, mais bien plutôt le langage lui-même ](ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009) |
しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。 Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant. (ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980) |
そもそもラカンの剰余享楽としての対象aはマルクスの剰余価値でありフェティッシュである。 |
私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年) |
剰余価値、それはマルクス的快、マルクスの剰余享楽である[ La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) |
ラカンは症状概念の起源はマルクスにある、と繰り返し強調さえしている。 |
症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。 |
la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX. |
(Lacan, S18, 16 Juin 1971) |
人は症状概念の起源を、ヒポクラテスではなく、マルクスに探し求めなければならない。 |
Chercher l'origine de la notion de symptôme… qui n'est pas du tout à chercher dans HIPPOCRATE …qui est a chercher dans MARX |
(Lacan,S.22,18 Février 1975) |
そして症状とは社会的結びつきのことであり、これがラカンの言説の定義である。 |
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社会的結びつきは症状である[le lien social, c’est le symptôme] (J.-A. Miller, Los inclasificables de la clínica psicoanalítica, 1999) |
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言説とは何か? それは、言語の存在を通して起こりうる秩序において、社会的結びつきの機能を作り上げるものである。[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ](Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972) |
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言説とは語源的には次の意味を持っている。 |
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言説(discourse)は、語源的にはラテン語のdiscursus(ある場所から別の場所へ移動する)に由来する。ラカンの言説は、場所と関係の構造的システムであり、これらの用語間の相互作用、すなわち、ある場所から別の場所へのcurrere(移動)と、それらの場処の相互的交換を規定するものである。 |
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Discourse is in fact etymologically derived from the Latin discursus: i.e. to run from a place to another. The Lacanian discourse is in fact a structural system of places and relations that regulates the interaction between these terms, i.e. their currere from a place to another and their mutual exchange of positions.(Pietro Bianchi, Marx and Lacan. From Representation to Class Struggle, 2012) |
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つまりラカンの社会的結びつき[lien social]とは事実上、マルクスの「社会的関係」と等価である。 |
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経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。 |
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Weniger als jeder andere kann mein Standpunkt, der die Entwicklung der ökonomischen Gesellschaftsformation als einen naturgeschichtlichen Prozeß auffaßt, den einzelnen verantwortlich machen für Verhältnisse, deren Geschöpf er sozial bleibt, sosehr er sich auch subjektiv über sie erheben mag. |
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(マルクス『資本論』第一巻「第一版序文」1867年) |
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この社会的関係[gesellschaftlichen Verhältnisses]という語はフェティッシュの説明箇所にそのものズバリとして現れる。 |
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要するにラカンの四つの言説とは事実上、「四つのフェティッシュ」なのである。
言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972) |
フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche](J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993) |
これ以外に「資本の言説」があるが、これは事実上、「マルクスの言説」である。
右の「マルクスの言説」図は次の二文用語群をラカンの「資本の言説」図に当てはめたものである。
・・・この過程の全形態は、G - W - G' である。G' = G +⊿G であり、最初の額が増大したもの、増加分が加算されたものである。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、存続するばかりでなく、その価値を変貌させ、剰余価値または自己増殖を加える。この運動こそ、貨幣の資本への変換である。 Die vollständige Form dieses Prozesses ist daher G - W - G', wo G' = G+⊿G, d.h. gleich der ursprünglich vorgeschossenen Geldsumme plus einem Inkrement. Dieses Inkrement oder den Überschuß über den ursprünglichen Wert nenne ich - Mehrwert (surplus value). Der ursprünglich vorgeschoßne Wert erhält sich daher nicht nur in der Zirkulation, sondern in ihr verändert er seine Wertgröße, setzt einen Mehrwert zu oder verwertet sich. Und diese Bewegung verwandelt ihn in Kapital. (マルクス『資本論』第一篇第二章第一節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」) |
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この運動の意識ある担い手として、貨幣所有者は資本家になる。彼の一身、またはむしろ彼のポケットは、貨幣の出発点であり帰着点である。あの流通の客観的内容─価値の増殖─が彼の主観的目的なのであって、ただ抽象的な富をますます多く取得することが彼の操作の唯一の起動的動機であるかぎりでのみ、彼は資本家として、または人格化され意志と意識とを与えられた資本として機能するのである。 Als bewußter Träger dieser Bewegung wird der Geldbesitzer Kapitalist. Seine Person, oder vielmehr seine Tasche, ist der Ausgangspunkt und der Rückkehrpunkt des Geldes. Der objektive Inhalt jener Zirkulation - die Verwertung des Werts - ist sein subjektiver Zweck, und nur soweit wachsende Aneignung des abstrakten Reichtums das allein treibende Motiv seiner Operationen, funktioniert er als Kapitalist oder personifiziertes, mit Willen und Bewußtsein begabtes Kapital. (マルクス『資本論』第一巻第二篇第四章第一節) |
・・・ということは今まで何度か繰り返してきたことだが、本来の問いはーー今ふとそう思った問いだがーー柄谷行人の四つの交換様式をラカンの四つの言説に結びつけうるか否かだろう。
さあって、と。そのうち考えてみるよ、たぶん?
ま、Bは主人の言説、Cは資本の言説なのはいいとして、Aは無理やり当てはめればヒステリーの言説だろうがね。Dは分析家の言説? ・・・これはムリだね。
分析家のポジションは声としての対象aだが、基本的には沈黙の声だ、《ラカンの命題は、沈黙することが対象aとしての声と呼ばれるものに値することを意味している。la thèse de Lacan comporte que c'est pour faire taire ce qui mérite de s'appeler la voix comme objet a 》(J.-A. Miller, Jacques Lacan et la voix, 1988) |
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とはいえ柄谷はDは普遍宗教だとも言っているので、ーー《Dの出現は、一度だけでなく、幾度もくりかえされる。それは多くの場合、普遍宗教の始祖に帰れというかたちをとる。》(柄谷行人『力と交換様式』2022年)ーー超自我としての対象aとしたら結びつけられないこともないな、 |
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超自我のあなたを遮ぎる命令は、声としての対象aの形態として現れる[impératifs interrompus du Surmoi.…apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix.] (ラカン, S10, 19 Juin 1963) |
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一般的に神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.] (Lacan, S17, 18 Février 1970) |
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いまはまったく思いつきでテキトーに言ってるんだが、でも交換様式Dは超自我というのはいいかもよ。どうだろ、柄谷さん? ちなみに柄谷は《私は日本の戦後憲法九条を、一種の「超自我」として見るべきだと考えます》(『憲法の無意識』)としつつ、《憲法九条とは、Dに近いものと考えていいのでしょうか》という問いに対して《いいと思います。》と答えている(柄谷行人インタビュー「改憲を許さない日本人の無意識」2016年7月号 文学界) …………
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