〈「私を泣かせてください」とキノコの匂の回帰〉で記したが、蚊居肢子はひょんなことで死の匂を嗅いでしまったので、実はこのところ哲学的瞑想の気分に陥っているのである・・・
死はまさに哲学に生命を吹きこむ守護神でありまた庇護者であって、ゆえにソクラテスは哲学を「死の練習」と定義した。死というものがなかったならば哲学的思索をなすことすら困難であったろう。 Der Tod ist der eigentliche inspirirende Genius, oder der Musaget der Philosophie, weshalb Sokrates diese auch thanatou meletê definirt hat. Schwerlich sogar würde, auch ohne den Tod, philosophirt werden. (ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第 41 章、1843年) |
哲学的瞑想といっても森で花やイチゴの背後に隠されている難問を解くことではあるが。 |
「哲学を勉強したことがないので、あれやこれやの判断を下すことができません」という人が、ときどきいる。こういうナンセンスをきかされると、いらいらする。 「哲学がある種の学問である」などと申し立てられているからだ。おまけに哲学が、医学かなんかのように思われているのである。――だが、次のようなことは言える。哲学的な研究をしたことのない人には、その種の研究や調査のための、適切な視覚器官が備わっていないのである。 それは、森で、花やイチゴや薬草を探しなれていない人が、何一つとして発見できないのにかなり似ている[Beinahe, wie Einer, der nicht gewohnt ist, im Wald nach Blumen, Kräutern oder Beeren zu suchen, keine findet, weil sein Auge für sie nicht geschärft ist, und er nicht weiß, wo insbesondere man nach ihnen ausschauen muß]。かれの目は、そういうものに対して敏感ではないし、また、とくにどのあたりで大きな注意を払わなければならないか、といったこともわからないからである。 同じような具合に、哲学の訓練を受けたことのない人は、草むらの下に難問が隠されているのに、その場をどんどん通り過ぎてしまう。 |
一方、哲学の訓練を受けた人なら、まだ姿は発見していないのだけれども、その場に立ちどまって、「ここには難問があるぞ」と感じ取る。 ――だが、そのようによく気がつく熟達者ですら、じっさいに発見するまでには、ずいぶん長時間、探しまわらなければならない。 とはいえ、それは驚くにはあたらない。何かがうまく隠されている場合、それを発見するのは難しいものなのである。(ウィトゲンシュタイン『反哲学的断章』) |
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つまり森のキノコに瞑想をめぐらすことだ。 |
秋 西脇順三郎 灌木について語りたいと思うが キノコの生えた丸太に腰かけて 考えている間に 麦の穂や薔薇や菫を入れた 籠にはもう林檎や栗を入れなければならない。 生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で 神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。 |
しかし生垣には穴を開けないと難問は解けないらしい。
人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」) |
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水銀の苦しみに呪われた 青ざめた旅人は 片目を細くして 破れたさんざしの生垣の 穴をのぞいている ーー「坂の五月」 |
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女から 生垣へ 投げられた抛物線は 美しい人間の孤独へ憧れる人間の 生命線である ーー「キャサリン」『近代の寓話』 |
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ああ すべては流れている またすべては流れている ああ また生垣の後に 女の音がする ーー「野原の夢」『禮記』 |
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《おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。 Wer mit wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein》(ニーチェ『善悪の彼岸』146節、1886年) |
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というわけだがここでもうひとつ美しい詩句か画像でもないだろうか。
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