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2025年9月27日土曜日

西部邁の言葉いくつかーー保守・民主・アメリカ・左翼・リベラル

 

前回の「柄谷行人と西部邁」引き続き、ここでは西部邁の言葉いくつか。なお私は西部邁について殆ど知らず、すべてウエブ上から拾ったものである。


◼️保守の熱狂

保守もまた一種の過激な心性がなければつらぬきえない立場なのである。保守の抱える逆説とは、熱狂を避けることにおいて、いいかえれば中庸・節度を守ることにおいて、熱狂的でなければならない。(西部邁『六〇年安保 センチメンタル・ジャーニー』1986年)




◼️保守の真髄:理想を内包する現実であり、現実に裏付けられらた理想

現実的な根拠のない理想は空想に過ぎない。つまり秩序なきところで自由を追い求めれば、ほぼ必ず放縦へと舞い上がる。人々のあいだの自然な格差を無視した平等は悪平等という名の画一主義に固まる。競合の現実から離れたところで友愛を語り続けるのには偽善の名を与えるしかない。合理の大前提は感情からやってくるのであるから、乏しい情操しか持たぬものの合理は屁理屈に堕落する。


むろん、理想なき現実主義の退廃ということも起こりうる。理想なきところで秩序を強調するのは抑圧への道である。格差を放置しておけば、それはほぼ必ず差別をもたらす。友愛に一顧だにせずに競合に明け暮れれば、弱肉強食といった酷薄無常な現実がやってくる。理の通らぬ形で、感情を膨らませるのは熱狂に過ぎない。

必要なのは、理想を内包する現実であり、現実に裏付けられらた理想なのである。つまりここでも理想と現実のあいだの平衡が要求されるわけだ。その平衡に抽象名詞を与えてみれば、自由と秩序の平衡はバイタリティ vitality (活力)ーーここで社会秩序を作るのも、人々の活力によってだということに留意しておかなければならないーー、平等と格差の平衡はフェアネス fairness (公正)、博愛と競合の平衡はモデレーション moderation (節度)、そして合理と情操の平衡はボンサンス bon sens, good sense (良識)ということになろう。そのことをしっかりと押さえておけば、国家の玄関や床の間に掲げられるべきノーム norm (規範)のスローガンは活力・公正・節度・良識の四幅対だということになる。(西部邁『保守の真髄-----老酔狂で語る文明の紊乱』2017年)




◼️保守は現状維持ではなくバランス感覚。リベラルの起源は寛容の精神


ネトウヨと保守、右翼は何がどう違うのか 西部邁、中島岳志が師弟対談 AERA編集部 2017/04/25 

自民党の閣僚や国会議員にも「ネトウヨ」のような発言が増え、籠池問題で保守派のイメージが暴落した。「あんなのと一緒にしてくれるな」と怒る保守の論客が、沈黙を破った。


──現代では「保守」という言葉が、さまざまに解釈されています。「保守」という言葉の定義を教えてください。


中島:政治的な保守という場合、近代合理主義に対するアンチテーゼとして生まれた近代思想の系譜を指します。イギリスの政治思想家エドマンド・バークを嚆矢とする、近代左翼の人間観に対する懐疑的な態度です。左翼は理性に間違いはないと信じ、理性と合致した社会設計をすれば、理想社会が実現できると考える。それに対して、バークは人間の理性の完全性を疑った。理性を超えた慣習や良識にこそ、歴史のふるいにかけられた重要な英知があると考えた。これが保守のスタート地点です。


思い描く理想だけで大変革をすると…


西部:保守の政治思想は三つに整理できる。第一は、中島君が言った、人間の完成可能性への懐疑。人間は道徳的にも認識的にも不完全性を免れないのだから、自分が思い描く理想だけで大変革をすると取り返しがつかなくなるという姿勢です。第二は、国家有機体論。社会はまるで植物の有機体のようにいろいろなところに張り巡らされ、成長したり衰退したりする。そこに人工的な大改革を加えると、有機体が傷ついてしまう。個人や集団の知恵ではとらえきれない、長い歴史を有し、複雑で多種多様な関係を持った有機体であることを忘れてはならないという論理です。第三は、改革はおおむね漸進的であらねばならないということ。合理的に説明できないという理由で破壊的な社会改革はすべきでない。伝統の精神を守る限りにおいて、一歩一歩、少しずつ改革していくべきだという考えです。


──伝統の精神を守れば、保守でも現状を変えるのをいとわないということですか。


西部:保守を、現状維持と解釈してはいけません。現状とは過去から残された慣習の体系ですが、保守はそれを無条件に受け入れはしない。本当の保守は慣習という実体の中に歴史の英知のようなものを探りあて、それを今に生かそうとします。それが、どの変化を受け入れ、拒否するかの基準になる。ただ、歴史の英知には実体がない。「天皇陛下」や「靖国神社」は歴史の英知ではなく、慣習の体系です。その中に日本国民のバランス感覚がどう示されているかを、その時代、その状況において、皆が議論して確認する。そうした慎重な態度を保守思想と言うのです。


中島:右翼と保守の違いも考える必要があります。よく右翼は復古主義だと言われます。復古とはある一点の過去に戻りさえすればユートピア社会に回帰できるという考え。戦前の日本の国体論もそうですし、イスラム原理主義も同様です。保守からすれば、過去の人間も不完全な存在で、過去にも問題があったと考えざるを得ない。保守にとっての過去は分厚い歴史のようなもので、特定の一点への回帰ではない。これが日本の右翼思想と保守との大きな違いです。


西部:ドイツの哲学者カール・ヤスパースは「人間とは屋根の上に立つ存在である」と言った。どちらかに偏れば、右にも左にもすぐ転落する。それを避けるには、ただ一本の棒がバランスを取る役目を担ってくれる。保守はこれを伝統と呼ぶ。


リベラルの起源は寛容


──中島教授は「リベラル保守」を提言しています。リベラルとは何を指すのでしょうか。


中島:リベラルの根拠を探っていくと、いわゆる欧州の「30年戦争」に突き当たります。江戸時代の初期、ヨーロッパではカトリックとプロテスタントがずっと宗教戦争をしていて、価値観の違いによる殺戮(さつりく)を繰り返していた。1648年、これを何とか終結させようと「ウェストファリア条約」を結び、後の国際秩序を形成していく。このとき重視されたのが、「寛容」という概念です。世界には考え方の違う人間が多くいる。それに対してまずは「寛容」になり、そこから合意形成をしないと秩序が保てない。30年戦争の反省から出てきた「寛容」が、ヨーロッパのリベラルの起源です。


西部:英語でいうと、tolerance(トレランス)。これは忍耐とも、寛容とも訳される。自分も相手もいろいろ不完全なのだから、自分の不完全さにとりあえず忍耐し、その上で相手にもある程度寛容になることで、初めて議論が進むだろうと考える。議論で少数派の言うこともよく聞けばまっとうじゃないか、と考える態度も寛容さだということです。


中島:デモクラシーを多数派の専制にしてはならないというのが政治学の基本です。フランスの政治思想家アレクシス・ド・トクヴィルが名著『アメリカのデモクラシー』で書いたのは、多数者の専制を引き起こす大衆社会の熱狂を避けよ──ということ。多数者の専制下では、少数者は抑圧され、最終的には個性や自由が迫害された均質社会となり、大衆社会にのみこまれる。それは避けるべきだと説いた。そして、デモクラシーが健全に機能する前提として、学校、協会などの中間共同体を挙げている。この中間領域は、メディアの出現で崩壊するとも書いています。為政者と個人がメディアを通じて一対一となると、為政者は大衆の欲望の代理人となり、ポピュリズムのような政治がはびこる。メディアと大衆、それを利用しようとする政治家が三位一体となり、結局、アメリカのデモクラシーは崩壊すると指摘しています。


西部:イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルは後年、トクヴィルを読んで感銘を受け、書評論文を書いた。現代イギリスの恐ろしさは毎朝、同じ時間帯に、同じ紅茶を飲みながら、同じ新聞を読んでいる人が3千人もいることだ、と。人間はそれぞれ個性を持って態度を決めるべきなのに、3千人も同じものを読む時代を恐ろしいと言う。今の日本のメディア状況なんて、どれだけ恐ろしいか(笑)。


──いわゆる「ネトウヨ」は、保守思想にシンパシーを感じている人も多い。保守からはどう見られているのでしょうか。


中島:彼らは保守思想にすらコミットしていないと思います。左翼が言っていることが気に入らないという「反左翼」という意識だけではないか。


西部:でも、この「反左翼」の歴史は長い。何十年も前から有名な右派論客にも、「反左翼」だけの人間はたくさんいる。それが次第に数を増やして、ネットにあふれている。ただ、彼らの言葉が過激になったことの背景はある。戦後70年間、言論界のみならず学界、経済界、政界も左翼思想になじむ言動をしないとパージされてきた。それに反抗するのだから、極端な人間が一定数増えるのは必然です。


右翼も左翼も少数自負


中島:奇妙な「ねじれ」もあった。朝日新聞をはじめ、左派は「自分たちはマジョリティーじゃない」という意識がある。政権はずっと自民党で日本は保守の地盤が強く、自分たちはそれに抵抗している少数派だという自意識です。一方で、右派は自分たちの意見がメディアや教育、アカデミズムから排除されている、マイノリティーであり、誰もそれを代弁してくれないという意識があった。双方が「アンチの論理」でやりあったからぐちゃぐちゃになったんです。


西部:ネトウヨにはある種の反知性主義としか言いようのない、下品な言葉遣い、他人に対する誹謗中傷、罵詈雑言(ばりぞうごん)があるらしい。トランプ米大統領をはじめ、世界の指導者でもゴロツキがたくさん出てきた。でも、これは反社会的勢力のレトリックと同じなんです。たとえば、トランプ大統領は昨日と今日で言っていることが180度違う。それは、危機的状況を回避するときに反社会的勢力が得意とする、「俺たちは、場面場面でものを言っとるんじゃ」という態度と同じ。そういう人間は矛盾を指摘されてもまったく動じない。昔の保守政治家には、相矛盾した二つをギリギリつなげる微妙で繊細な語彙(ごい)、ユーモアがあった。今は、それもなくなり、ただの乱暴な言葉だけだ。


一方で、左翼の論客の言葉だってネトウヨと同等に乱雑で、内容としては反知性的なオピニオン、つまり「根拠のない臆説」が増えている。右翼だけが反知性主義だというのは、朝日の偏見です(笑)。

中島:朝日を最も攻撃しているのも、また左翼です。ちょっとでも理想と違うと糾弾する。どっちもどっちです。


西部:われわれのような真の保守たらんとする者たちから見れば、勝手にやってくれということですよ(笑)。



………………



◼️「平和」は強者による弱者の平定、「民主」は根拠の乏しい臆説にほかならぬオピニオンをまとめたものによって右往左往させられるオクロス(衆愚)の政治

平和とはピース(平和)の語源パクスがそうであるように、「強者による弱者への平定」のこととすでにわかられているし、民主とは「根拠の乏しい臆説にほかならぬオピニオンをまとめたものによって右往左往させられるオクロス(衆愚)の政治」のことだととっくに判明している。より広くいえば、 「自由・平等・友愛・合理」という近代の価値カルテットはもうボロ旗となってしまったのだ。

(西部邁「公共的実践の本源的課題」実践政策学・創刊号(第 1 巻 1 号)2015年、PDF




◼️アメリカは左翼国家の見本

まず、「自由・平等・博愛」の理想主義を叫び、次にそれのもたらす「放縦・画一・偽善」に堪りかねて「秩序・格差・競合」の現実主義に頼ろうとし、それが「抑圧・差別・酷薄」をもたらすや、ふたたび元の理想主義に還らんとする、そういう循環を今もなお繰り返している代表国はどこかとなると、誰しも「アメリカ」と答えるにきまっています。 つまり、 アメリカは左翼国家の見本なのです。


それもそのはず、 「左翼主義」 (leftism) とは近代主義の純粋型にほかなりません。 歴史感覚の乏しい北米大陸で純粋近代主義の壮大な(もしくは狂気の沙汰めいた) 社会実験が行われつづけた、あるいはそれを行うしかない成り行きであった、とみるべきなのです。 今もアメリカは、他国に(あろうことか日本占領のGHQ方式、つまり「総司令部」のやり方を模型として)「ネーション・ビルディング」(国民あるいは国家の建設、 nation building)を押しつけようとしたり、自国の「再構築(リメーキング)」を企画したりしております。 アメリカは左翼国家であると断言できない者は、近代主義の本質が「歴史の設計」を可能とみる「理性への信仰」にあることをわきまえていないのです。 (西部邁『昔、言葉は思想であった -語源からみた現代-』2009年)





◼️アメリカン・リベラル・デモクラシーは、理念めいたものをいろいろ誤魔化しを交えて振りかざしつつ、自分たちの力を世界に示すこと

伊藤貫)……今のアメリカのgrand strategy(グランド・ストラテジー)は、1991年に決められたんですね。1991年というのはどういう年かと言うと、ソ連帝国が崩壊して、アメリカに対する軍事的な対立国が遂に消滅したという時なんですね。〔・・・〕

その時にアメリカはもう舞い上がっちゃって、「今後は俺たちの能力はローマ帝国以上だ、世界に俺たちに敵う者はいない。」というんで、1992年2月にアメリカは、Defense Planning Guidanceという秘密文書を作って、その秘密文書(DPG)で、アメリカがヨーロッパと中東とアジアと中南米も全て支配すると。


それからもう一つ(DPGに)書いてあったのは、ロシアと中国がアメリカのPeer Competitor(ピーア・コンペティター=同等の競争相手)、Peerは「同僚」、要するに、「同じような力を持つチャレンジャーになることを許さない!」と。

で、(DPGの)もう一個、3つ目に重要なのは、第二次大戦の敗戦国でありう日本とドイツには、決して自主防衛能力を持たせないと。〔・・・〕


で、僕はそれを読んでて、まず胃袋が煮え返ったんですね。この野郎!!と。こういうことを考えていたのかと(笑)


西部邁

(笑)

伊藤貫)で、もう一つ(DPGについて)思ったのは、こんなこと出来るわけないだろうと。あまりにもover ambitious(オーバー・アンビシャス)であると。だって、世界中を自分たちだけが支配すると決めたら、世界中で戦争しなけりゃいけないわけですよ。そんなこと、だって当時すでにアメリカは貯蓄率がどんどんどんどん減ってって世界中からお金を借りなきゃいけないと。世界中の純貯蓄の毎年の新しい貯蓄の7割をアメリカの債券を買って貰わなきゃならないということをやりながら、世界中を俺たちが支配するんだって、これはちょっとオカシイなと。


で、lo and behold ! (ロー・アンド・ビホールド)、じっと見てたら、アメリカは世界中に介入して、結局、2011年の9月11日のテロ事件を口実として、イラクを属国にしようとしていま大失敗したわけです。

アメリカのglobal hegemony(グローバル・ヘゲモニー)はグラグラし出した時に、日本の外務省の人たちはおバカさんだから、「アメリカにくっ付いていれば大丈夫だ!」とそういう吉田茂以降のこの人たちは本当に馬鹿で、馬鹿と言っちゃ悪いんだけど、すごく鈍いんですよ。吉田茂はそういうふうに決めて上手くいったから、21世紀になってもアメリカにしがみ付いていれば大丈夫だろうと。


で、アメリカは文句言うんだったら、アーミテージは集団的自衛権を行使しろと言ったから、アーミテージの言う通りにして集団的自衛権を行使して米軍と一緒に戦えば、ずっと(日本を)守ってくれるだろうと。

西部邁) アメリカという国はね、そういう風にして世界警察をやる力をどんどん無くしているのにも関わらず、アメリカン・デモクラシーでも、アメリカン・リベラル・デモクラシーでもいいんだけど、そういう理念めいたものをいろいろ誤魔化しを交えて振りかざしつつ、自分たちの力を世界に示すんだという形でしか、アメリカという国自身がもたない。そういうやり方以外には、言わばアメリカの普通でいう、national identity(ナショナル・アイデンティティー)なる【歴史がない】せいでね、無いのだと。


伊藤貫)えぇえぇえぇ。


西部邁)となると、世界警察力が衰えながらもそれを尚も追い求めるという以外に(無い)?


伊藤貫)そうなんですよ。100%当たりで、要するに自分たちの実力が、世界を支配する実力が無くなってきたにも関わらず、自分たちの“思い込み”ですね、僕はそれをアメリカの『傲慢病』と『自惚れ病』という風に呼んでいるんですけども、とやかく傲慢と自惚れというのは、これはやってる本人は気が付かないんですね(笑)アメリカも僕みたいにある意味で、僕は“外人”ですからね、だから外人のシラっとした目で見ると、なんでこの連中はこんなにも自惚れているんだろうと。それからもう一つは、何でこんなに傲慢なんだろうと、思っているんですけども、それをやってる本人は、『自分たちはWilsonian idealist(ウィルソニアン・イデアリストだと!』


西部邁)あぁ~そうか。

伊藤貫)ウィルソニアン的な民主主義と自由主義を世界に拡めるために、Crusade(クルセイド=聖戦)をやっているんだと。世界のために・・・〔・・・〕


西部邁)あれ第一次世界大戦ですよね、国際連合の前だから「国際連盟」をつくった時のアメリカの大統領が【ウッドロウ・ウィルソン】といって学者上がりなんだけども、非常にズルい人でありながら、とも同時に非常に理想主義的な、まぁ~言ってみればアメリカ・ピューリタニストの系譜の、そういうアメリカの理想主義、それを翳した人ね。


それを戦後日本もね、アメリカに(戦争で)負けたでしょう、山ほど殺された日本がアメリカを一つの理想として追い求めた。その根っこを言うと、もっと古いんだけども、少なくとも20世紀で言うと、そのいま言ったウィルソニアニズムがあるという。どうぞお先に!(笑)


伊藤貫)えぇ。だから非常にもうね、あのアフガニスタンに対してもパキスタンに対してもイラクに対してもシリアに対してもイエメンに対してももう徹底的に武力を行使して鉄拳制裁をやっているんですけども、彼らそういうことをやっている連中は、We're Wilsonian idealist !! と。


・・・そのつもりなんですよ。それでバンバンやってめちゃくちゃ殺しまくるんですけど、たぶん、自分たちは善人で良いことをやっているんだと、これが怖いわけですね(笑)

(「アメリカニズムを如何にせん」2015年12月31日 西部邁ゼミナール (伊藤貫 佐伯啓思)YouTube 8分45秒あたりから)



………………


※附記



自由主義は本来世界資本主義的な原理であるといってもよい。そのことは、近代思想にかんして、反ユダヤ主義者カール・シュミットが、自由主義を根っからユダヤ人の思想だと主張したことにも示される。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)

自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。(岩井克人「二十一世紀の資本主義論」2000年)



自由主義と民主主義の対立とは、結局個人と国家あるいは共同体との対立にほかならない。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)

内に向けての民主主義は外に向けてはナショナリズム(柄谷行人浅田彰対話「「ホンネ」の共同体を超えて」1993年)



いや、もう少し長く掲げておこう、理念なき日本では「リベラル」と聞くと脊髄反射的に嫌悪感を抱く人が多いようだから。



浅田   共産主義という理念がスターリン主義的にドグマ化されたあげく崩壊し、他方、自由主義が勝利したかに見えて、しかしそのとたん、自由主義的原理がすべての矛盾の責任を負わされることになり、それに対していま非常に反動的な方向に向かっていると思う。各々の国や共同体が、内部では民主主義的に社会福祉なり何なりをやるけれども、外部に対しては排外的に動く。それを開くものはある種の理念しかないということを思い出さないといけない。


柄谷  そうですね。民主主義は確実に勝利しつつある。なぜかというと、内に向けての民主主義は外に向けてはナショナリズムだから。


浅田  大正デモクラシーがすでに、一面では、アジア侵略の成果をみんなで山分けしようという民主主義ですからね。

柄谷  大正デモクラシーは、日露戦争の勝利のあと分け前が少ないことに抗議する大衆運動からはじまっている。デモクラシーというのは文字通り「大衆の支配」ですから、大衆が支持しさえすればいいんで、各々の国内で勝手にやれるわけでしょう。この民主主義的ナショナリズムを理念的に統整する原理が、自由主義だと思う。マルクスの共産主義も本当は自由主義とつながっている。


たとえば、マルクスが『共産党宣言』を書いた時期のヨーロッパの共産主義者というのは、 アナーキストです。ナショナリスト=民主主義者はいない。だからインターナショナルなんですね。それが変質してくるのは、一八七〇年代以後、ドイツの社会民主党が強くなってからです。それは、ビスマルクの国家主義に対応したものです。 社会民主党というのは、後に共産党と名前を変え、今また社会民主党に変えたわけだけれど、どちらにせよ、国家を基盤にしているものだから、インターナショナルであるはずがない。


浅田  そのことは、第一次世界大戦に際して、インターナショナルだと称していた社会民主党がなだれをうって愛国主義に走ったときから、すでに明白でしょう。今さらそんなものに可能性を見いだせるわけがない。しかし、日本でも、共産主義者と言ったって、結局はほとんど社会民主主義者だったんですね。

〔・・・〕

浅田 とくに、日本の場合、非常に問題だと思うのは、理念はタテマエにすぎず、恥ずかしくて人には言えないはずのホンネを正直に共有することで、民主主義的な、いや、それ以前の共同体をつくってきたということです。だから、そもそも自由主義にせよ共産主義にせよ、そういう理念を軽視する面があったところへ、それも壊滅したのだから、もうみんなホンネでいこう、そこで居直ったほうが勝ちだ、という空気が非常に強まったと思うんですね。もちろん、旧左翼の現実離れした理想主義のタテマエ論は批判すべきものだけれども、それがあまりにもくだらないがゆえに、右翼が現実主義的と称するホンネを唱えると、そちらのほうが多少とも魅力的に見えてしまう。新左翼だったはずが右翼になっていた旧全共闘世代が、だいたいそういうパターンでやっているわけでしょう。しかし、今はむしろ新しい理念が求められているのであって、崩壊した旧左翼を批判しても死馬に鞭打つようなものだし、自己満足にひたる大衆のホンネを肯定することにしかならない。実に不毛な状況ではありますね。


しかも、そういうホンネ主義みたいなものあらゆる理念がついえ去ったのであってみれば、もうホンネに居直るしかないという気分は、日本のみならず世界中で今いちばん支配的なイデオロギーになっていると思う。ほんとうは共産主義がスターリン主義的に形骸化した時期からそうだったのだけれど、けれども、それが旧ソ連崩壊で露骨に目に見えるようになってしまった。旧共産圏は完全にそうなってしまっているし、旧西側も同じような状況になっている。こういうシニカルな居直りこそが現代の支配的なイデオロギーであって、これを批判できるのは、ある種の理念しかないでしょう。

(柄谷行人浅田彰対話「「ホンネ」の共同体を超えて」1993年6月『SAPIO』)

この後の柄谷の発言も面白いが、それについては➤参照



…………………



◾️ミアシャイマー

ナショナリズムは最も強力な政治イデオロギー

ナショナリズムは地球上で最も強力な政治イデオロギーであるため、ナショナリズムとリベラリズムが衝突すると必ずナショナリズムがリベラリズムに勝り、秩序の根幹を揺るがすことになる。

さらに、世界貿易と投資の障壁を最小化しようとしたハイパーグローバリゼーションは、リベラルな世界全体で失業、賃金の低下、所得格差の拡大をもたらした。また、国際金融システムの安定性を低下させ、金融危機の再発につながった。これらの問題はその後、政治問題へと変化し、リベラルな秩序への支持をさらに損なうことになった。〔・・・〕ナショナリズムが最も強力な政治イデオロギーである世界では、自決権と主権はすべての国にとって極めて重要である。

Because nationalism is the most powerful political ideology on the planet, it invariably trumps liberalism whenever the two clash, thus undermining the order at its core. 

In addition, hyperglobalization, which sought to minimize barriers to global trade and investment, resulted in lost jobs, declining wages, and rising income inequality throughout the liberal world. It also made the international financial system less stable, leading to recurring financial crises. Those troubles then morphed into political problems, further eroding support for the liberal order.(…) In a world in which nationalism is the most powerful political ideology, self-determination and sovereignty matter hugely for all countries.

(ミアシャイマー「失敗する運命ーーリベラルな国際秩序の興亡」 John J. Mearsheimer, Bound to Fail The Rise and Fall of the Liberal International Order,  2019)



◾️リベラリズム/ナショナリズム=個人主義/集団主義(普遍主義/個別主義)

リベラリズムとナショナリズムは明らかに異なるイデオロギーである。リベラリズムの核にある個人主義は、不可侵の権利の強調と相まって、普遍主義的なイデオロギーとなっている。対照的に、ナショナリズムは、個人よりも集団の重要性を強調し、どこまでも個別主義的である。〔・・・〕

無制限のリベラリズムがナショナリズムにとって非常に危険なのは、国民的アイデンティティ、つまり個人が国家と密接に同一化する強い傾向を弱める可能性があることである。

Liberalism and nationalism are obviously distinct ideologies. The individualism at liberalism's core, coupled with its emphasis on inalienable rights, makes it a universalistic ideology. Nationalism, in contrast, stresses the importance of the group over the individual and is particularistic all the way down. (…) 

What makes unbounded liberalism so dangerous to nationalism is its potential to weaken national identity―that is the powerful inclination for individuals to closely identify with their nation.

(ミアシャイマー「現代アメリカにおけるリベラリズムとナショナリズム」John J. Mearsheimer, Liberalism and Nationalism in Contemporary America, 2020)


◾️ナショナリズム≒リアリズム

ナショナリズムとリアリズムの間には何らかの類似性があるに違いない[there must be some affinity between nationalism and realism, even if nationalism is not a key variable in realist theory. ](ミアシャイマー「いとこ同士のキス:ナショナリズムとリアリズム」John J. Mearsheimer, Kissing Cousins: Nationalism and Realism, 2011)


参照


もっとも先に示したように、柄谷自身、自由主義の捉え方に揺れ動きがある、《民主主義的ナショナリズムを理念的に統整する原理が、自由主義だと思う》。直近の石破茂が国連総会で「本来のリベラリズム」の必要性を排外主義の猖獗に対して語ったのは、おそらくこの柄谷のいう意味、もしくは西部邁組のいう「リベラルの起源は寛容の精神」であるだろう。


柄谷行人のいうリベラルとしての統整的理念はもちろんカントの言葉である。

世界市民社会[eine weltbürgerliche Gesellschaft (cosmopolitismus) ]のようなそれ自身到達され得ない理念は、構成的理念[konstitutives Prinzip](人間のきわめて生き生きとした作用と反作用のまっただ中にある平和の期待)ではなくて,単に統整的理念[regulatives Prinzip]にすぎない。すなわち、それを目指す自然的性癖があるという根拠のある推測がまんざらでもないような,人類の使命としての理念を熱心に追究するたあの統整的理念である。


aber allgemein fortschreitenden Koalition in eine weltbürgerliche Gesellschaft (cosmopolitismus) sich von der Natur bestimmt fühlen: welche an sich unerreichbare Idee aber kein konstitutives Prinzip (der Erwartung eines mitten in. der lebhaftesten Wirkung und Gegenwirkung der Menschen bestehenden Friedens), sondern nur ein regulatives Prinzip ist: ihr als der Bestimmung des Menschengeschlechts nicht ohne gegründete Vermutung einer natürlichen Tendenz zu derselben fleißig nachzugehen.

(カント『実用的見地における人間学』1798年)


重要なのは「リベラル」という語は、現在、悪の根源と見做されている「世界資本主義的」意味合いをもつと同時に、究極の善である「世界史的理念」でもあることだろう。柄谷の交換様式Dはこの統整的理念である。



ある理想やデザインによって社会を強引に構成するような場合、それは理性の構成的使用であり、そのような理念は構成的理念である。しかし、現在の社会(資本=ネーション=国家)を超えてあるものを想定することは、理性の統整的使用であり、そのような理念は統整的理念である。仮象であるにもかかわらず、有益且つ不可欠なのは、統整的理念である。(第一回 長池講義 講義録 柄谷行人  2007/11/7)




………………



◼️マイケル・ハドソン

腐ったアメリカのナショナリズムーーヨーロッパはアメリカのためのナショナリスト

マイケル:あなたはいくつかの点を指摘しました。1960年代には、私が知るほぼ全員があなたのナショナリズムに関する見解に同意していました。彼らは第二次世界大戦を経験したばかりです。彼らはそれをナショナリズムの現れと見なしていました。原則的には、ナショナリズムの解毒剤はグローバリズムになるだろうと思われていました。しかし、グローバリズムが今日のような形に変わるとは誰も予想していませんでした。ナショナリズムが悪いのであれば、アメリカが主導する一方的なグローバリズムも悪いのです。現在のグローバリズムはアメリカのナショナリズムです。


ヨーロッパ人は最もナショナリストで、悪意に満ちたナショナリストです。しかし、彼らはアメリカのためのナショナリストなのです!

Michael: you made a number of points. Back in the 1960s almost everybody I knew agreed with your views about nationalism. After all they just went through World War II. They looked at that as an expression of nationalism. In principle it seemed to be that the antidote to nationalism was going to be globalism. But nobody expected that globalism would turn into what it’s turned out today. If nationalism is bad, so is a unilateral globalism run by the United States. Globalism today is American nationalism.

Europeans are the most nationalistic, viciously nationalistic people of all. But they’re nationalistic for the United States!

〔・・・〕

あなた方がヨーロッパ統合と考えているものは、腐ったナショナリズム、腐ったアメリカ金融主義です。なぜなら、ブリュッセル、つまりEU政府は、最も右翼的で軍国主義的なグループだからです。先週、セルゲイ・ラブロフ外相は素晴らしい演説を行い、ロシアはドイツ、フランス、イタリアといった各国政府とはそれぞれの条件で交渉することに全く満足していると述べました。ロシアはブリュッセルを通してヨーロッパと交渉しようとすることを諦めました。なぜなら、ヨーロッパは右翼グローバリストであり、あなた方の考えるグローバリズムはアメリカ・ナショナリズムだからです。


ラブロフ外相はこう言いました。「あなた方は操り人形だ。我々はあなた方の傀儡政府、汎ヨーロッパ政府とは交渉しない。我々は、各国政府が何らかの形でこの秩序から脱却できる方法があることを期待する。」

What you consider to be European integration is rotten nationalism, rotten American financialism, because Brussels, the European Union Government, is the most right-wing, militaristic group. Last week, foreign minister Sergey Lavrov gave a wonderful speech saying that Russia is quite happy to deal with national governments such as Germany, France and Italy on their own terms. It has given up trying to deal with Europe via Brussels. Because Europe being right wing globalists and your idea of globalism is American nationalism.


Lavrov said: you’re puppets, we’re not going to deal with your puppet government, pan-European government. We’re going to hope that there’s some way that individual governments can somehow break away from this order.


(マイケル・ハドソン「偽りのないセクター」The Honest Sector By Michael Hudson, April 29, 2021)



アメリカの「ファシスト保護策略」(マイケル・ハドソン)