風のにおいがする
まるで果実のような
ふくらみを持った風
ざらりとした果皮があり
果肉のぬめりがあり
種子のつぶだちがある
遠い日の湿った多肉質の実
果皮は匂いさざめき
果肉は溶けて快楽(けらく)となる
種子はやわらかな微粒子となり
私の魂にのめりこり
微かな痛みを残す
背筋をまっすぐにのばして目を閉じると、風のにおいがした。まるで果実のようなふくらみを持った風だった。そこにはざらりとした果皮があり、果肉のぬめりがあり、種子のつぶだちがあった。果肉が空中で砕けると、種子はやわらかな散弾となって、僕の腕にのめりこんだ。そしてそのあとに微かな痛みが残った。(村上春樹『めくらやなぎと眠る女』)
スクリーンの前では、私は目を閉じる自由をもっていない。そんなことをしようものなら、目を開けたとき、ふたたび同じ映像を見出すわけにはいかなくなる。私はたえずむさぼり見ることを強制される。映画には他の多くの長所があるが、思考性 pensivité だけはない。私がむしろフォトグラム(映画のコマ写真)に関心をもつのはそのためである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)
人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくこともある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。
再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。(加藤周一『絵のなかの女たち』)
わたくしはフェティストである。映画鑑賞者としては邪道者である。侯孝賢の美しい映像に満ち溢れている作品たちに使われる音楽は、不幸にもわたくしの音楽の趣味とはひどく懸け離れている。それにときに苛立つ。そしていまは長い物語には退屈する。ゆえにわたくしはテキストを切り取る。わたくしは倒錯する。
報告された快楽から、どのようにして快楽を汲み取るのか(夢の話、パーティの話の退屈さ)。どのようにして批評を読むのか。唯一の手段はこうだ。私は、今、第二段階の読者なのだから、位置を移さなければならない。批評の快楽の聞き手になる代わりにーー楽しみ損なうのは確実だからーー、それの覗き手 voyeur になることができる。こっそり他人の快楽を観察するのだ。私は倒錯する j'entre dans la perversion 。すると、注釈は、テクストにみえ、フィクションにみえ、ひびの入った皮膜 une enveloppe fissurée にみえてくる。作家の倒錯(彼の快楽は機能を持たない)、批評家の、その読者の、二重、三重の倒錯、以下、無限。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
人は、読書の快楽のーーあるいは、快楽の読書のーー類型学を想像することができる。
それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ないだろう。(⋯⋯)
フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。Le fétichiste s'accorderait au texte découpé, au morcellement des citations, des formules, des frappes, au plaisir du mot.
強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能l a volupté de la lettre, des langages seconds, décrochés, des métalangages を抱くだろう (この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。
偏執症者(パラノイア)は、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛 textes retors, des histoires développées comme des raisonnements, des constructions posées comme des jeux, des contraintes secrètes を、消費し、あるいは、生産するだろう。
(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇 comédie sans fond, sans vérité, du langage に加わる者、もはやいかなる批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。(ロラン・バルト『テキストの快楽』既存訳を一部変更)
とはいえ人は文学や映画を実は次のように味わうことが多いのではなかろうか。
ある言葉に一連の記憶が池の藻のようにからまりついていて、ながい時間が過ぎたあと、まったく関係のない書物を読んでいたり、映画を見ていたり、ただ単純に人と話していたりして、その言葉が目にとまったり耳にふれたりした瞬間に、遠い日に会った人たちや、そのころ考えたことなどがどっと心に戻ってくることがある。(須賀敦子『遠い朝の本たち』)
※最初の二つの画像は、辛樹芬(「戀戀風塵」1986)、後の三つは舒淇(「最好的時光」 2005、「千禧曼波」2001、「黃金之弦」2011)である。