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2017年10月29日日曜日

安吾の「無頼・アモラル・非意味」

柄谷行人は、ごく最近、次のように言っている。

僕にとって、真に無頼派の名にふさわしいのは安吾ですね。この本の冒頭に書きましたが、 「無頼」という言葉は、一般に考えられているようなものではなく、「頼るべきところのないこと」 (『広辞苑』)です。つまり、それは他人に頼らないことです。その意味では、いわゆるヤクザは無頼とはほど遠い。組織に依存し親分に従い、他人にたかるのだから。その意味で、安吾はヤクザではなく、まさに「無頼」だった。太宰はそうではない。「無頼」であれば、そもそも共産党に入党しないし、転向もしない。彼は頼りっぱなしの人だった。自殺するときまで、他人に頼っている。そういうものを「無頼」とはいいません。言語の本来の意味では、「無頼派」 は安吾だけだったと思います。最初に読んだときから、自分には安吾が性に合っていた。(柄谷行人氏ロングインタビュー <すべては坂口安吾から学んだ>、2017年10月26日

無頼、すなわちアモラル、非意味だろう。

モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。

私は文学のふるさと、或ひは人間のふるさとを、こゝに見ます。文学はこゝから始まる――私は、さうも思ひます。 

アモラルな、この突き放した物語だけが文学だといふのではありません。否、私はむしろ、このやうな物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。…… だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があらうとは思はれない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのやうに信じてゐます。(坂口安吾「文学のふるさと」1941)

柄谷は以前に書かれた安吾論でこう言っている。

彼がいう「ふるさと」は、普通の意味でのふるさとではない。たとえば、小林秀雄が「故郷喪失」という場合の「故郷」ではない。それは、われわれをあたたかく包み込む同一性ではなく、われわれを突き放す「他なるもの」である。それは意味でもなく無意味でもなくて、非意味である。(柄谷行人『終焉をめぐって』)
逆説的だが、「根を下ろす」ということは、「根」から突き放されることであり、いいかえればそのようにして「根」を感知することである。 (坂口安吾『坂口安吾と中上健次』)


とはいえ、安吾はーー再掲すればーーアモラルをそれほど高く評価しない、と言っている。

アモラルな、この突き放した物語だけが文学だといふのではありません。否、私はむしろ、このやうな物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。…… だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があらうとは思はれない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。(「文学のふるさと」)

ーーアモラルをそれほど高く評価しないが、このアモラルから生まれ育っていない文学は決して信用しない、と。これは、ヘーゲルが、人は「世界の夜 Nacht der Welt」に遭遇して、その否定性を見据えたときはじめて精神は力をもつ、というのとほとんど相同的である、とわたくしは思う。

精神は、否定的なものを見据え Negativen ins Angesicht schaut、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年ーー血みどろになつた處

ラカンの格言《大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre》も、その究極的な意味合いは、神や存在の深淵に救いを求めてはならない、ということである。

柄谷の安吾論に出現する「非意味」とは、ラカン派も同様のことをいっている。《サントームの固有の享楽は意味からの排除(非意味)である。la jouissance propre au sinthome exclut le sens. 》(ミレール、2014)

後期ラカン自身の文なら次の通り。

la jouissance propre au symptôme. Jouissance opaque d'exclure le sens. (ラカン、AE570, JOYCE LE SYMPTOME、1975)

意味の排除、すなわち非意味(意味-不在 ab-sens)である。

フロイトは、非意味(意味-不在 ab-sens)が性を示すという手がかりをわれわれに与えてくれる。言葉が決着をつけるところでトポロジーが展開されるのは、この性的非関係(性不在-意味sens-absexe)の膨張によってである。 (ラカン、エトゥルディ、1972)

中期ラカンにおいては、《non-sensノンセンス》という言葉を使っているが、これも後期ラカンから遡及的に読めば、非意味のことであるだろう。

意味作用 signification の彼岸、あらゆるシニフィアンの彼岸、…非意味(ノンセンス)の、もはや還元されえぬ、トラウマ的なもの…これがトラウマの意味である。

au-delà de cette signification - à quel signifiant… non-sens, irréductible, traumatique, c'est là le sens du traumatisme (ラカン、S11、17 Juin 1964)

非関係 non-rapport、穴ウマ troumatismeという言葉もほぼ等価な表現である。すくなくともわたくしは(今のところ)そう考えている。

穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を生む。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

※参照:「反アナーキー的作家」のために

⋯⋯⋯⋯

ここで、安吾の《救ひがないといふこと自体が救ひ》という表現に反応して、ギリシャの小説家、詩人、政治家であったニコス・カザンザキスの「救いがないことが救い」を引用しよう。

最も重要な救済は、まさに救済の考え方からの救済である。(ニコス・カザンザキス Nikos Kazantzakis,Report to Greco,1973)

わたくしはさるラカン派の引用でこの言葉を知ったにすぎないが、この救いがないという救い(無)に直面してどうすべきなのか。

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、非意味 aucune espèce de sens のシニフィアンを。Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?》(ラカン, S24 、17 Mai 1977)

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、大他者の欠如の上に築き上げられるものである。すなわち 「creatio ex nihilo 無からの創造」においてのみ。(ポール・バーハウ、Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002)

上にあるように、「無からの創造 Creatio ex nihilo」(非関係・非意味に遭遇して主体自らが固有の支えを創造すること)、これがラカンのサントームである。あるいは、《最後のラカンにおいて、父の名はサントームと定義されている défini le Nom-du-Père comme un sinthome》(ミレール、2013、L'Autre sans Autre、PDF)、大他者の大他者、すなわち象徴的大他者を支える大他者(父の名)はサントームである。

もっともサントームには別に原症状の意味もあるが、ーー《症状(原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975)

さて上のバーハウ他のサントーム論には「大他者の欠如」とあるが、これは最近の主流ラカン派による解釈に則れば、「大他者の穴」とするほうがより正確である。

◆ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, pdfより

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカン教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)

※より詳細には、 「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ

さて主体$は大他者の穴、すなわちȺに遭遇したとき、大他者の穴だけではなく、主体自身の穴にも遭遇する(ほとんどの場合)。

この穴Ⱥとは、原対象aのことでもある。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

人はラカン派の注釈を読むとき、対象aの両義性につねに注意しなければならない。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

この対象aの両義性にじゅうぶん注意を払えば、ラカン理論の核心のひとつは次のように図示できる。




この図のaは、大他者と主体両方の穴としての原対象aであり、かつ幻想的穴埋めとしての対象aでもある。

欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。それは唯一、コルク栓(穴埋め bouchon)としてのみ現れる。このコルク栓は不可能の用語にて支えられている。

Le manque du manque fait le réel, qui ne sort que là, bouchon. Ce bouchon que supporte le terme de l'impossible(Lacan、1976 AE.573)
女性の享楽は非全体pas-tout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) を見いだす(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

こうして原対象a(穴Ⱥ)に遭遇したものは、主体の解任をする。

対象a としての分析家は、分析主体(患者)の言葉を⋯⋯脱主体化し、言葉から、一貫した主体の表白、意味への意図の質を奪い去る。目的はもはや分析主体が発話の意味を想定することではなく、非意味、不条理という非一貫性を想定することである。患者の地位は、脱主体化されてしまうのだ。ラカンはこれを「主体の解任 destitution subjective」と呼んだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

だが「主体の解任」、あるいは「非意味」に遭遇したままほうっておいてはならない。ほうっておいたら「原マゾヒズム」に貪り喰われてしまう。「無頼・アモラル・非意味」と同一化しつつも、そこから距離を取ることが必要である。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)

こうして臨床的には次のようなことが言われる。

……精神分析実践の目標は、人を症状から免がれるように手助けすることではない……。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

さて今示したような観点において、安吾は、ヘーゲル的な否定性、あるいはラカン的精神分析臨床には直接的にはかかわらないままで、だが彼等と相同的な内容を日本でいちはやく表現した作家である、とわたくしは考えている。

それは安吾の別の表現の仕方なら次のようなことでもある。

堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。 

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾『続堕落論』初出1946年)

ーーこれもラカン的にいえば、 「大他者の応答 réponse de l'Autre」としての生ではなく、「現実界の応答 réponse du réel」としての生ということになる。

⋯⋯⋯⋯

ラカンの大他者とは何か。最後にジャック=アラン・ミレールの注釈を掲げておこう。

なぜラカンは、その教えの出発点で、法へ情熱をもったのか。そして「大他者の大他者は いない」と言ったとき、なぜそれを捨て去ったのか。ラカンは異なった法(言語、パロール、 言説等の)を我々に教え、この表明に到った。…

第一に、言語学の法がある。ラカンがソシュールから借りてきたものだ。それはシニフィア ンをシニフィエから、共時性を通時性から区別することに導く。ヤコブソンに見出した法も またある。それは、隠喩を換喩から分節化し区別する。ラカンはこれらを法として・メカニズ ムとして語った。

第二に、弁証法的法がある。ラカンがヘーゲルのなかに探しにいったものだ。この法は告 げる、言説のなかで主体は、他の主体の仲介を通してのみ、彼の存在を想定しうる、と。ラ カンはこれを承認の弁証法的法と呼ぶ。

第三に、我々はラカンのなかに数学的法を見出す(これはある時期とても人気があったが、 もはや我々のものではない)。例えば、ラカンが、最初の図式とともに、「盗まれた手紙」に ついてのセミネールにて探求したような法だ。あの α, β, γ, δ の図式は、無意識の記 憶にとってのモデルを提供した。

第四に、社会学的法がある。ラカンがレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』から採用し た同盟と親族の法である。

第五に、想定されたフロイトの法、エディプスがある。それは、初期ラカンが法へと作り上 げたものだ。すなわち「父の名」は「母の欲望」の上に課されなければならない。その条件 のみにおいて、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経 験に従いうる、と。

さて、私は面倒を厭わず、法の 5 つの領域を列挙した。言語学的・弁証法的・数学的・社 会学的・フロイト的である。ラカンが分析経験を熟考し始めたとき、少なくとも主体をめぐっ て教え始めたとき、この法の 5 つの領域は、彼にとって、象徴界と呼ばれるものを構成した。(……) なぜラカンは、このように法概念に中心的重要性を与えたのか。それは疑いなく、彼にとっ て法は合理性の条件だからだ。さらに具体的にいえば、科学の条件である。ラカンはあたかも「法がある場にのみ科学はある」という箴言に駆り立てられていたかのようだ。(ジャック=アラン・ミレール, L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)、2013,pdf

もちろん大他者の大他者はない、あるいは無頼(「頼るべきところのないこと」 「他人に頼らないこと」)なのだから、究極的には、ラカンや安吾の考え方にも、人は頼るべきではない、ということになる。己自身によって無=穴に遭遇して、そして自らの支えを「無からの創造 creatio ex nihilo」しなければならない。

最も肝腎なのは、穴Ⱥ(穴ウマ=トラウマ)、あるいはȺ のシニフィアンS(Ⱥ) は、《ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne》(ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN, pdf)であり、各個人によって、欲動のあり方は異なることであるーー起源は個人単独的な《純粋な身体の出来事 pur événement de corps》(ミレール、2011)ーー、かつまたわれわれは《誰もがトラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(ミレール、2013-2014セミネール)、つまり原症状のない主体はない。当然、この「Ⱥからの創造」も個人単独的なものとなる。ゆえに「無頼=他人に頼らないこと」なのだ。

ニーチェも「神の死=象徴界(仮象の世界)の支えはない」(象徴的大他者の支えとしての大他者はない)という認識に遭遇して、無からの創造を行おうとして作家であるだろう。《もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。》(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

クロソウスキーの言う「魂の調子 Stimmung」への応答を、わたくしはラカンの「現実界の応答 réponse du réel」とともに読む。《c'est le sujet, qui, comme effet de signification, est réponse du réel》(Lacan, L'étourdit)

《神の死 mort de Dieu》ーー「責任ある自我のアイデンティティを保証するものとしての神 du Dieu garant de l'identité du moi responsable」--その神の死は、…あらゆる可能な諸アイデンティティへと魂を切り開く。…ニーチェにおいて「神の死」は、「永遠回帰 Éternel Retour」のエクスタシー的刻限と同様に、(散乱する諸アイデンティティの)「魂の調子 Stimmung」への応答である。(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)