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2018年8月16日木曜日

ヒト族には必ず「スプリッテイング(分裂・解離)」がある

中井久夫)「抑圧」の原語 Verdrängung は水平的な「放逐、追放」であるという指摘があります。(中野幹三「分裂病の心理問題―――安永理論とフロイト理論の接点を求めて」)。とすれば、これをrepression「抑圧」という垂直的な訳で普及させた英米のほうが問題かもしれません。もっとも、サリヴァンは20-30年代当時でも repression を否定し、一貫して神経症にも分裂病にも「解離」(dissociation)を使っています。(批評空間2001Ⅲー1「共同討議」トラウマと解離」(斎藤環/中井久夫/浅田彰)

サリヴァンの「解離 dissociation」は、現在、精神医学で使用される解離とはやや異なる筈である。だが、それについては不詳の身でありここでは関知しない。

ここで示したいのは、フロイトの抑圧とは本来、スプリッティング(分裂・解離)にひどく近似した概念であるということである。

言語を使用せざるをえないヒト族には、身体的なものと心的なものの分裂が必ずある。これがフロイト・ラカン派においての最も基本的な思考であり、さらに言えば哲学的にも同様とさえ言える。

・言語の使用者は、人間に対する事物モノの関係 Relationen der Dinge を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩Metaphernを援用している。すなわち、一つの神経刺戟がまずイメージ Bildに移される! これが第一の隠喩。そのイメージが再び音 Lautにおいて模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。

・人間と動物を分け隔てるすべては、生々しい隠喩 anschaulichen Metaphern を概念的枠組み Schema のなかに揮発 verflüchtigen させる能力にある。つまりイメージ Bild を概念Begriff へと溶解するのである。この概念的枠組みのなかで何ものかが可能になる。最初の生々しい印象においてはけっして獲得されえないものが。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年:死後出版)


そもそも「去勢」とは、フロイトの想像的去勢とは異なり(末尾資料貼付)、ラカン派においては象徴的去勢がなによりもまず強調される。この去勢こそなによりもまず「身体的なものと心的なものの分裂」という意味である。

ヘーゲルが繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。別の言い方をすれば、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが「私は話しているのではない。私は言語によって話されている」と言うのを好んだように。これが、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)

ラカン自身による象徴的去勢の発言をひとつだけ掲げておこう。

去勢とは、本質的に象徴的機能であり、徴示的分節化以外のどの場からも生じない。la castration étant fonction essentiellement symbolique, à savoir ne se concevant de nulle part d'autre que de l'articulation signifiante (ラカン、セミネール17、18 Mars 1970)

※もっともラカンにおいては、原去勢(現実界的去勢)とでもいうべきもの(フロイトにおける出産外傷=原トラウマ)の思考もある(参照:二つの穴と二つの現実界)。

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欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)

身体的なものと心的なものの境界は、全面的には越境できない。身体的なものの残りかすが必ず居残る(フロイトの「残存現象 Resterscheinungen」(1937)、ラカンの対象a)。

欲動を考えるうえでの核心的概念のひとつは「異物」(ブロイアー起源のフロイト概念)である。

トラウマ、ないしその想起は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

初期フロイトは、人のトラウマ的要因を神経システムによっては十分には解消しえない「興奮増大 Erregungszuwachs」として定義している(後には《興奮の過剰強度 übergroße Stärke der Erregung》(フロイト、1926)という表現も現れる)。

Diese tritt in Besitz der ganzen Quantität von Erregung, welche durch den Sexualtrieb frei gemacht wird; sie wird eine „affective Vorstellung―. Das heisst: bei ihrem Actuellwerden im Bewusstsein löst sie den Erregungszuwachs aus, der eigentlich einer anderen Quelle, den Geschlechtsdrüsen, entstammt. (フロイト『ヒステリー研究 STUDIEN ÜBER HYSTERIE』1895年)

この「興奮増大 Erregungszuwachs」を患者は意識から遠ざけようとする。そして、フロイトは結論づけている。この「意識的になること不可能な表象 bewusstseinsunfähiger Vorstellungen」が病理コンプレクスの核である、と。

Die Existenz solcher bewusstseinsunfähigen Vorstellungen ist pathologisch. Beim Gesunden treten alle Vorstellungen, welche überhaupt actuell werden können, bei genügender Intensität auch in's Bewusstsein. Bei unsern Kranken finden wir neben einander den grossen Complex bewusstseinsfähiger und einen kleineren bewusstseinsunfähiger Vorstellungen. Das Gebiet der vorstellenden psychischen Thätigkeit fällt bei ihnen also nicht zusammen mit dem potentiellen Bewusstsein; sondern dieses ist beschränkter als jenes. Die psychische vorstellende Thätigkeit zerfällt hier in eine bewusste und unbewusste, die Vorstellungen in bewusstseinsfähige und nicht bewusstseinsfähige. Wir können also nicht von einer Spaltung des Bewusstseins sprechen, wohl aber von einer Spaltung der Psyche. (同『ヒステリー研究』)

ここに「プシュケの分裂 Spaltung der Psyche」という語が出現する。

この思考の流れにおいての核心は、相入れなさ(葛藤 conflict)である。トラウマはプシュケ内部で相入れない分裂を設置する。この「分裂division」、もしくは「解離dissociation」が、フロイトを、意識システムと無意識システムのあいだの分裂という考え方に導いていく。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe、 Trauma and Psychopathology in Freud and Lacan. Structural versus Accidental Trauma、1997)

もっともここでの無意識には二種類あることに注意しなければならない。

フロイトは、「システム無意識あるいは原抑圧」と「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」を区別した。

システム無意識 System Unbewußt (Ubw) は欲動の核の身体への刻印であり、欲動衝迫の形式における要求過程化である。ラカン的観点からは、まずは過程化の失敗の徴、すなわち最終的象徴化の失敗である。

他方、力動的無意識は、フロイトの云う「誤った結びつき eine falsche Verkniipfung」のすべてを含んでいる。すなわち、原初の欲動衝迫とそれに伴う防衛的エラヴォレーションを表象する二次的な試みである。言い換えれば症状である。フロイトはこれをAbkömmling des Unbewussten(無意識の後裔)と呼んだ。(ポール・バーハウ、2004、On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics)

「システム無意識あるいは原抑圧」/「力動的無意識あるいは抑圧された無意識」における原抑圧と抑圧については、下記の①が原抑圧、②が抑圧である。

「抑圧」は三つの段階に分けられる。 

①第一の段階は、あらゆる「抑圧 Verdrängung」の先駆けでありその条件をなしている「固着 Fixierung」である。(…)

②第二段階は、「本来の抑圧 eigentliche Verdrängung」である。この段階はーー精神分析が最も注意を振り向ける習慣になっているがーーより高度に発達した、自我の、意識可能な諸体系から発した「後の抑圧 Nachdrängen 」として記述できるものである。(… )

③第三段階は、病理現象として最も重要なものだが、その現象は、 抑圧の失敗 Mißlingens der Verdrängung・侵入 Durchbruch・「抑圧されたものの回帰 Wiederkehr des Verdrängten」である。この侵入 Durchbruch とは「固着 Fixierung」点から始まる。そしてリビドー的展開 Libidoentwicklung の固着点への退行 Regression を意味する。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイア(パラノイド性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察』1911年、 摘要訳)

原抑圧=固着とあるが、現在のラカン派では固着という語に最大限の注視が与えられている(参照:ラカンのサントームとは、フロイトの固着のことである)。

ポストフロイト後の精神医学においては、一部のラカン派をのぞき、このあたりのことがほとんど理解されていないようにみえるが、固着ゆえにスプリッテイング(分裂・解離)ありき、なのである。

「一」Unと「享楽」jouissanceとの接合(つながりconnexion)が分析的経験の基盤であると私は考えている。そしてそれはまさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。⋯⋯

抑圧 Verdrängung はフロイトが固着 Fixierung と呼ぶもののなかに基盤がある。フロイトは、欲動の居残り(欲動の置き残し arrêt de la pulsion)として、固着を叙述した。通常の発達とは対照的に、或る欲動は居残る une pulsion reste en arrière。そして制止inhibitionされる。フロイトが「固着」と呼ぶものは、そのテキストに「欲動の固着 une fixation de pulsion」として明瞭に表現されている。リビドー発達の、ある点もしくは多数の点における固着である。Fixation à un certain point ou à une multiplicité de points du développement de la libido(ジャック=アラン・ミレール、2011, L'être et l'un、IX. Direction de la cure)

※フロイトの「置き残す」をめぐっては、「聖多姆と固着」に比較的詳しく記述した。

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の臍であり、固着のために「置き残される(居残る)」原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、「身体的なもの」が「心的なもの」に移し変えられないことである。(ポール・バーハウ2001, BEYOND GENDER From subject to drive by Paul Verhaeghe) 

「身体的なもの」は「心的なもの」に十分には移行されえない。「翻訳の失敗 Die Versagung der Übersetzung」「拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung」等々と訳されてる表現も、同じ意味である。

翻訳の失敗、これが臨床的に抑圧(放逐)と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.»   (フロイト、フリース書簡 Brief an Fliess、1896)
欲動の蠢きTriebregungenは一次過程に従う…。一次過程 Primärvorgang をブロイアーの「自由に運動する備給(カセクシス)」frei beweglichen Besetzung と等価とし、二次過程 Sekundärvorgang を「拘束された備給」あるいは「硬直性の備給」gebundenen oder tonischen Besetzung と等価としうる。…

その場合、一次過程に従って到来する欲動興奮 Erregung der Triebe を拘束することは、心的装置のより高次の諸層の課題だということになる。

この拘束の失敗 Das Mißglücken dieser Bindung は、外傷性神経症 traumatischen Neuroseに類似の障害を発生させることになろう。すなわち拘束が遂行されたあとになってはじめて、快原理(およびそれが修正されて生じる現実原理)の支配がさまたげられずに成就されうる。(フロイト『快原理の彼岸』5章、1920年)

言語表象 Wortvorstellung への翻訳の失敗、拘束の失敗、これが抑圧なのであり、残滓(残存現象)が異物として必ずある。異物とは、ラカンの《異者としての身体 un corps qui nous est étranger 》(S23, 1976)であり、対象aである。

フロイトの「自我分裂 Die Ichspaltung 」をめぐる最晩年の草稿(死後出版)からも抜き出しておこう。

われわれは自我過程の統合を自明視しているので、このような過程の全体はきわめて奇妙なものに見える。しかしこの自明視は明らかに誤りである。きわめて重要な自我の統合機能synthetische Funktion des Ichs は、いくつかの特別な条件のもとで成立するのであり、さまざまな障害を蒙るものなのである。(フロイト『防衛過程における自我分裂 Die Ichspaltung im Abwehrvorgang 』草稿、1940年)

※用語だけの話だが、《心的装置における葛藤と分裂 Konflikten und Spaltungen im seelischen Apparat》(『快原理の彼岸』第1章、1920)という「分裂」を直接的に現わすだろう"spaltung"という語以外にも、フロイトは、"Zerfall" や"Dissoziation"を使っている。たとえば《心的生の分解(解離)《Zerfall (Dissoziation) des Seelenlebens hervorgehe. 》(フロイト、Kurzer Abriss der Psychoanalyse、1928)

⋯⋯⋯⋯

※付記


【身体なものとその心的代理との「矯正不能の分裂 disjunction】
『心理学草稿』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001ーー「S(Ⱥ)と表象代理 Vorstellungsrepräsentanz(欲動代理 Triebrepräsentanz)」)


【想像的去勢と象徴的去勢】
フロイト理論に反して、ラカンは「去勢」を人間発達の構造的帰結として定義した。ここで人は理解しなければならない。我々は話す瞬間から、現実界との直かの接触を喪うことを。それはまさに我々が話すせいである。特に我々は、己れ自身の身体との直かの接触を喪う。これが「象徴的去勢」である。そしてそれが、原初の享楽の不可能性を強化する。というのは主体は、身体の享楽を獲得したいなら、シニフィアンの手段にて進まざるを得ないから。こうして享楽の不可能性は、話す主体にとって、具体的な形式を受けとる。

一方で、享楽への道は、大他者から来た徴付けのために、シニフィアンとともに歩まれる。他方で、これらのシニフィアンの使用はまさにある帰結をもたらす。すなわち享楽は、決して十全には到達されえない。これは象徴界と現実界とのあいだの裂け目にかかわる。シニフィアンが、享楽の現実界を完全に抱くことは不可能である。

社会的に言えば、この構造的与件の実装は、女と享楽・父と禁止を繋げる。両方とも、典型的な幻想ーー宿命の女(ファムファタール)の破壊的享楽・父-去勢者の懲罰ーーと結びついている。享楽は女に割り当てられる。なぜなら、母なる大他者 (m)Other が、子供の身体のに、享楽の侵入を徴付けるから。子供自身の享楽は大他者から来る。

次に、享楽を寄せつけないようにする必要性・享楽への道の上に歯止めを架ける必要性は、母と彼女の享楽の両方を、あたかも父によって禁止されたもの・去勢によって罰されるものとして、特徴づける形式をとる。

この「想像的去勢」は根本的真理を覆い隠す。すなわち、人は話す瞬間から享楽は不可能であるという真理を。これは、構造的与件としての「象徴的去勢」である。

ラカンはこの理論を以て、フロイトのエディプス・コンプレックス、そして以前のラカン自身のエディプス概念化の両方から離脱した。享楽を禁止する権威主義的父、ついには主体を去勢で脅かす父は、社会上の神経症的構築物以外の何ものでもない。ア・プリオリな与件、すなわち享楽の不可能性の上の構築物にすぎない、と。

構築物として、それは想像界の審級に属する。これは、アイデンティティの問題、あるいは享楽の問題であれ、最終的統合の可能性が夢見られたことを含意する。

これに対して、ラカンは象徴秩序を構造的に不完全なものとして考えた。そして、さらに根本的に、この不完全性をシステムの機能にとっての不可欠なものとして見た。(もっとも)ラカンがこの欠如を象徴的去勢と命名した事実は、彼の理論の理解可能性を改善したわけではない。…(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains、2009、私訳)