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2018年9月21日金曜日

一般市民の覚悟しなくてはならない孤立

ひょんなことから未婚率について調べてみたのだが、前回の記事「父の蒸発の時代の非カップル者たち」で示した未婚率とは、独身率ではない。独身率だと次のようになるらしい。



独身率とは、かつて結婚していても離別したり死別したりで独り身となった人も含めた率で、さらに上のデータは《15歳以上の全人口に占める独身者(未婚+離別死別者)数》とのこと。

独身というと、つい未婚者のことを思い浮かべがちですが、有配偶者以外はすべて独身なのです。つまり、15歳以上の全人口に占める独身者(未婚+離別死別者)数は、20年後には男女合わせて4800万人を突破し、全体の48%を占めます。(『2035年「人口の5割が独身」時代がやってくる』荒川和久 2017

この2035年の推計はもちろん概算こうなるだろうということで、同じ荒川和久氏の2018/08/11の記事では、上の記述における48パーセントが、46.3パーセントになっている。
独身率といっても、たとえば作家の金井美恵子のように姉妹で暮らしている人たちもそのなかに入る筈である。
とすれば単身世帯率はどうなるのか、と探ってみると、野村綜研によるデータがある(「2040年、約4割が単身世帯に!? 80年代生まれは「ソロ社会」をどう生きる?」2018.02


39パーセントとある。とはいえ、これも学生のアパート住まいや、いわゆる結婚適齢期に達しない若者たちも含まれるので、この数字自体だけではなんら眼を瞠るものではない。やはり未婚率(あるいは独身率)のほうが現在の人の孤立を考える上でより重要なんだろう。
ま、でも未婚率、独身率が高くたって、誰かがそばにいればいいんじゃないか。

作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。(中井久夫「創造と癒し序説」1996年)

中井久夫は作家についてこう書いてるのだけれど、ふつうの人たちはいっそうそうだ。《「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人》がいたらいいさ、独身だって。

あるいは《「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性》の人がいたらいい。

今、家族の結合力は弱いように見える。しかし、困難な時代に頼れるのは家族が一番である。いざとなれば、それは増大するだろう。石器時代も、中世もそうだった。家族は親密性をもとにするが、それは狭い意味の性ではなくて、広い意味のエロスでよい。同性でも、母子でも、他人でもよい。過去にけっこうあったことで、試験済である。「言うことなし」の親密性と家計の共通性と安全性とがあればよい。家族が経済単位なのを心理学的家族論は忘れがちである。二一世紀の家族のあり方は、何よりもまず二一世紀がどれだけどのように困難な時代かによる。それは、どの国、どの階級に属するかによって違うが、ある程度以上混乱した社会では、個人の家あるいは小地区を要塞にしてプライヴェート・ポリスを雇って自己責任で防衛しなければならない。それは、すでにアメリカにもイタリアにもある。

困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない。では、家族だけ残って広い社会は消滅するか。そういうことはなかろう。社会と家族の依存と摩擦は、過去と変わらないだろう。ただ、困難な時代には、こいつは信用できるかどうかという人間の鑑別能力が鋭くないと生きてゆけないだろう。これも、すでに方々では実現していることである。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年初出『時のしずく』所収)

ま、そうはいってもそんな同性あるいは異性の友人や親族はなかなかいないのが現実なんだろうけど。

《困難な時代には家族の老若男女は協力する。そうでなければ生き残れない》とあった。だが最も困難な時に、中井久夫は敬愛してきた祖父に失望したそうだ。

私の世代、つまり敗戦の時、小学五、六年から中学一年生であった人で「オジイサンダイスキ」の方が少なくない…。明治人の美化は、わが世代の宿痾かもしれない。私もその例に漏れない。大正から昭和初期という時代を「発見」するのが実に遅かった。祖父を生きる上での「モデル」とすることが少なくなかった。…

最晩年の祖父は私たち母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う老人となって私を失望させた。昭和十九年も終りに近づき、祖母が卒中でにわかに世を去った後の祖父は、仏壇の前に早朝から坐って鐘を叩き、急速に衰えていった。食料の乏しさが多くの老人の生命を奪っていった。二十年七月一八日、米艦船機の至近弾がわが家をゆるがせた。超低空で航下する敵機は実に大きく見えた。祖父は突然空にむかって何ごとかを絶叫した。翌日、私に「オジイサンは死ぬ。遺言を書き取れ」と言い、それから食を絶って四日後に死んだ。(中井久夫「Y夫人のこと」初出1993『家族の深淵』所収)


食料が乏しくなれば、これが人間の姿である。《その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く》などということは実際上は稀有である(母の子供への愛のみ、とまでは言わないでおくが)。

人は、なぜ死について語る時、愛についても語らないのであろうか。愛と性とを結び付けすぎているからではないか。愛は必ずしも性を前提としない。性行為が必ずしも(いちおう)前提とせずに成り立つのと同じである。私はサリヴァンの思春期直前の愛の定義を思い出す。それは「その人の満足と安全とを自分と同等以上に置く時、愛があり、そうでないならばない」というものである。平時にはいささかロマンチックに響く定義である。私も「いざという時、その用意があるかもしれない」ぐらいにゆるめたい。しかし、いずれにせよ、死別の時にはこれは切実な実態である。死別のつらさは、たとえ一しずくでもこの定義の愛であってのことである(ここには性の出番がないことはいうまでもあるまい)。(中井久夫「「「祈り」を込めない処方は効かない(?) 」)

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「孤立」ということを考えると、晩年の荷風を想い出しちゃうね。
以下、3年前に記した「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」より抜粋。





……昭和二十三年以降の「日乗」を読み進むにつれて私には、だんだんに荷風の後姿しか見えなくなってくるーーそれまでの、背が見えていたかと思うとくるりと顔がこちらへ向き直るという戦慄が年ごとに薄れて、老人の健脚がひたすら遠ざかっていく、とそんな印象を受けてならない。全集が刊行され、浅草の踊子たちに親しみ、芝居が上演され、役者たちと《鳩の街》を見てまわる。新聞記者に追いまわされ、街娼にまで顔を知られるようになり、やがて文化勲章を受けて、鞄の置き忘れ事件によって財産状態が世人の目を惹くところとなる。そうして身辺が多事になっていくにつれて「日乗」の記載は年々短くなる。(古井由吉『東京物語考』)



三十年頃までは《夜浅草》あるいは《燈刻浅草》という記が多くて夜の繁華街歩きになかなか精を出していたようなのが、やがて《午後、浅草》となり、人と会うことも減って一人で洋画を見ることが多くなる。(……)

さらに《午後》が《正午過ぎ》となり、三十三年頃にはただの正午、《正午浅草》あるいは《小林来話、正午浅草》あるいは《正午浅草、燈刻大黒屋》という短い記の羅列に近く、こうなるとかえって後姿なりにまた目の前に大きくアップされてきたようで、朝方に地元の不動産屋氏の御機嫌伺いを受けてから京成電車で押上まで出て浅草の洋食屋で昼飯を摂り、おそらくさしたることもなく早目に家にもどって、夕刻には地元駅前の大黒屋なる店に足を運ぶという、判で捺したような老年の生活の反復が伝わってくる。(……)

そして三十四年三月一日、日曜日、雨の中を《正午浅草》に出たところが路上でにわかに歩行困難になり驚いて家に帰ったとあり、それから一週間あまり寝つくと、《正午浅草》もなくなって《正午大黒屋》となり、四月二十日以降は《小林来話》だけになる。(……)

この素っ気もないような記録こそ、住まいは江戸川を渡った市川菅野であっても、わが東京物語の極みである。長年の孤立者がさらに年ごとにひとりになり、やがて月ごとにひとりになり、ついにひとりになる。しかしぎりぎりまで歩く。範囲は日ごとに狭まってきても、とにかく歩かないことには生きられない。最後には三町ばかりの道だけになり、同じ道の往き返りだけになり、それでもまっすぐ、はてしなく歩きつづける心地でいたのかもしれない。

四月廿九日、祭日、陰――と、なぜだか、最後の日まであるのだ。翌三十日の朝、通いの手伝いの女性に発見されたという。

昭和五十七年の八月に私は東京駅を出た新幹線の中でたまたま開いた週刊誌のグラビアに、昭和三十四年四月末の荷風終焉の姿を見て吃驚させられた。取り散らした独り暮しの部屋の、万年床らしい上から、スボンをおろしかけた恰好のまま、前のめりに倒れこんで畳に頬を捺しつけていた。ちょうど外食から帰宅したところで、吐血だったという。墜落だ、これは、と私はつぶやいたものだ。八十一歳の老人というよりも、むしろ壮年の死だ。孤立者は死ぬまで老年になるわけにはいかない。いまや文豪の死というよりも、一般市民の覚悟しなくてはならない最後の姿だ、と。(同上 古井由吉『東京物語考』)




もっとも荷風も通いのお手伝いさんがいたり、上にあるように最晩年の日記には《小林来話》という記述が頻出する。

昭和三十四年乙亥年  荷風散人年八十一

三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる。(……)

四月十九日。日曜日。晴。小林来話。大黒屋昼飯。
四月二十日。陰。時々小雨。小林来話。
四月廿一日。陰。
四月廿二日。晴。夜風雨。
四月廿三日。風雨纔に歇む。小林来る。晴。夜月よし。
四月廿四日。陰。
四月廿五日。晴。
四月廿六日。日曜日。晴。
四月廿七日。陰。また雨。小林来る。
四月廿八日。晴。小林来る。
四月廿九日。祭日。陰。

つまり地元の不動産屋氏の御機嫌伺いがあったので、真の孤立ということは言えないのかもしれない。