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2018年11月22日木曜日

象徴界に騙されない者は彷徨う

じつは、この世界は思考を支える幻想 fantasme でしかない。それもひとつの「現実 réalité」には違いないかもしれないが、現実界のしかめ面 grimace du réel として理解されるべき現実である。

…alors qu'il(monde) n'est que le fantasme dont se soutient une pensée, « réalité » sans doute, mais à entendre comme grimace du réel.(ラカン、テレヴィジョン Télévision、AE512、Noël 1973)

ーーここでラカンは、現実は《現実界の顰め面 grimace du réel》とラカンは言っている。

ところがジジェクは、《現実の顰め面としての現実界 the real as a "grimace" of reality》(『斜めから見る』1991年)と「逆の形で」初期から解釈してきた。

ジジェクは、一貫して現実界は象徴界の裂け目に現れるという思考を保持している。このジジェクと臨床的主流ラカン派とのあいだの齟齬は、「「二つの現実界」についての当面の結論」にて記した。

ジジェクの観点は、例えば柄谷が、物自体は象徴秩序のアンチノミーに見出される、と言っているのと同様である。

⋯⋯ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。

しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

さらに最近のジジェクは、反ミレールとしてーーーつまり「象徴界は妄想である」で記したように実質上、最晩年の反ラカンとしてーー、セミネール21の「騙されない者は彷徨う」の重要性を強調している。

「騙されない者は彷徨う les non‐dupes errent」とは「父の諸名 Les Noms du Père」と同じ発音である。(ラカン、S21, 13 Novembre 1973)

要するにジジェクが強調しているのは、父の諸名にいったん騙されようではないか、たとえそれが妄想であろうと、ーーということだ。

言語は父の名である。そして超自我は父の名である。C'est le langage qui est le Nom-du-Père et même c'est le langage qui est le surmoi.(ジャック=アラン・ミレール、séminaire 96/97)

ジジェクの姿勢は「実践判断」としては批判しがたい。つまり現実は幻想だ、象徴界(言語)は妄想だとしたとき、いったいそんな考えをもって何がなしうるのか、という立場があって当然だ。ただし、最晩年のラカンの思考とは懸け離れているだろうことは、繰り返せば「「二つの現実界」についての当面の結論」にて見た。

ここでは最も簡略して記せば、最晩年のラカンには、現実界①(形式化の行き詰まりに現れる現実界)から現実界②(人がみなもっている構造的トラウマ刻印の反復強迫としての現実界)への移行がある、というのが現在の主流臨床ラカン派の観点である。

現実界①:現実界は形式化の行き詰まりに刻印される以外の何ものでもない le réel ne saurait s'inscrire que d'une impasse de la formalisation(LACAN, S20、20 Mars 1973)
現実界②:現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

とはいえーーたとえば、現実界②にかかわる思考において、「言語は存在しない le langage, ça n'existe pas」(1977)、とラカンは言明しているがーー、言語自体を疑ってしまえば、人は途方に暮れるばかりである。

すべてを疑おうとする者は、どんな疑いにも辿りつけない。疑いのゲーム自体、すでに確実性を前提としている。Wer an allem zweifeln wollte, der würde auch nicht bis zum Zweifel kommen. Das Spiel des Zweifelns selbst setzt schon die Gewißheit voraus(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』115番)

もっともラカンと同様に言語の存在を疑ったニーチェの思考において、たとえばウラルアルタイ語族とインドゲルマン語族とのあいだでは世界は異なって見える筈だという指摘があるが、これについては人は欠かしてはならない観点であるだろう(ロラン・バルトもこのニーチェの思考の線で、日本文化論『記号の国』を書いた)。

ウラル=アルタイ語においては、主語の概念がはなはだしく発達していないが、この語圏内の哲学者たちが、インドゲルマン族や回教徒とは異なった目で「世界を眺め」、異なった途を歩きつつあることは、ひじょうにありうべきことである。ある文法的機能の呪縛は、窮極において、生理的価値判断と人種条件の呪縛でもある。…(ニーチェ『善悪の彼岸』第20番)

なにはともあれ、どの立場が正しいということは言えないということはある。それが真理は非全体 pastout の意味だ。もっとも物自体、あるいは現実界は表象の裂け目に現れる、という思考が、おそらく20世紀の後半のある時期から、ドミナントな思考であったとすれば、それを批判する観点として、最晩年のラカンは有用だということは言えるだろう。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)
重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)