最初の記憶のひとつは花の匂いである。私の生れた家の線路を越すと急な坂の両側にニセアカシアの並木がつづいていた。聖心女学院の通学路である。私の最初の匂いは、五月のたわわな白い花のすこしただれたかおりであった。それが三歳の折の引っ越しの後は、レンゲの花の、いくらか学童のひなたくささのまじる甘美なにおいになった。(中井久夫「世界における徴候と索引」1990年)
・「五月のたわわな白い花のすこしただれたかおり」
・「レンゲの花の、いくらか学童のひなたくささのまじる甘美なにおい」
私の場合、かなとかなりの漢字とが学齢期までに頭に入り、ラテン文字も六歳から八歳までに覚えて使っていた。(⋯⋯)十四歳の時に知ったドイツの亀甲文字もラテン文字と同じ速度で読める。十五、六歳の時に覚えたギリシャ文字は少し劣るが、現代ではネイティヴも使わない筆記体も含めて、ほぼ不自由がない。以上の文字は「自分の庭に遊ぶ」感じがある。しかし、十八歳の時に始めたロシア語の文字は、筆記体はもちろん、活字体さえも、これをすらすら読むことは、努力したにもかかわらず、つににできなかった。私の場合には、この間に能力の喪失があったと思われる。(⋯⋯)
ちなみに私の場合、ひらがな、カタカナ、漢字、ラテン文字、ギリシャ文字には一字一字に色彩が伴っている。文字が複合して単語になれば、また新しく色が生じる。それぞれ弁別性があるような、非常に微妙な色彩である。この「色」が単語の記憶に参加しているらしい。しかし、たまたま、色が似ていたりすると間違いを起こす。これが人名であって失礼をしたことがある。(⋯⋯)
私の場合には、音と色の連合なのか文字と色との連合なのかほんとうにはわからない。またどこから始まったのかその起源も不明であるが、四歳の時にはすでに色を意識していた。たとえば、形容詞とそれが形容する名詞との「色が合わない」と私は使えないのである。(中井久夫「記憶について」1996年)
言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(同中井久夫「記憶について」『アリアドネからの糸』所収)
ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香り――、それと気づけばにわかにきつい匂いである。
それは、ニセアカシアの花のふさのたわわに垂れる木立からきていた。雨上りの、まだ足早に走る黒雲を背に、樹はふんだんに匂いをふりこぼしていた。
金銀花の蔓が幹ごとにまつわり、ほとんど樹皮をおおいつくし、その硬質の葉は樹のいつわりの毛羽となっていた。かすかに雨後の湿り気がたちのぼる。
二週間後には、このあたりは、この多年生蔓草の花の、すれちがう少女の残す腋臭のほのかさに通じる、さわやかな酸味をまじえたかおりがたちこめて、ひとは、おのれをつつむこの香の出どころはどこかととまどうはずだ。(中井久夫「世界における索引と徴候」)