このブログを検索

2019年4月2日火曜日

個人的先史時代

歴史時代とは、一般には、文字が発明された以降の時代であり、それ以前が先史時代である。




中井久夫には「個人的先史時代」という表現がある。これは発達段階における「成人文法成立以前」の、おおよそ三歳以前の段階のことである。

二歳半から三歳半までの成人型文法性成立以前の「先史時代」(中井久夫「発達的記憶論」初出2001年『徴候・記憶・外傷』所収)
私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)


この「成人文法以前/以後」とは、ラカンにおいては、「ララング/言語」の時代である。ララングとは、直接的には乳幼児のむにゃむにゃ語だが、「母の言葉」という意味でもあり(参照:ララング定義集)、この発達段階を「母の法」の時代とも呼ぶ。他方、言語は「ファルス秩序」(父の法)の時代に相当する。

「ララング/言語」とは、最晩年のラカンの極端な言い方ならこうなる。

私が「メタランゲージはない il n'y a pas de métalangag」と言ったとき、「言語は存在しない le langage, ça n'existe pas」と言うためである。《ララング lalangue》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。(ラカン、S25, 15 Novembre 1977)

言語の時代とは、ラカンにとって妄想あるいは幻想の時代である。《現実はない。現実は幻想によって構成されている。》(ラカン、S25、20 Décembre 1977)

他方、個人的先史時代としてのララングを使用する時期が、人間の核を決定する欲動の現実界にかかわる時代としてこよなく重要とされる。この時代における身体の上への刻印が、フロイト・ラカンにとって人間の原症状となるものであり、この刻印(固着)を、フロイトは「我々の存在の核 Kern unseres Wese」「欲動の根 Triebwurzel」「菌糸体 mycelium」とも呼んでいる。

中井久夫もラカンほど極端な言い方ではないが、成人文法の言語についてこう言っている。

成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)

「ララング/言語」に相当する「母の法/父の法」とは、「母なる超自我/父なる超自我」のことである。

太古の超自我の母なる起源 Origine maternelle du Surmoi archaïque, (ラカン、LES COMPLEXES FAMILIAUX 、1938)
母なる超自我 Surmoi maternel…父なる超自我 Surmoi paternel の背後にこの母なる超自我 surmoi maternel がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。 (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
母なる超自我 surmoi maternel・太古の超自我 surmoi archaïque、この超自我は、メラニー・クラインが語る「原超自我 surmoi primordial」 の効果に結びついているものである。…

最初の他者 premier autre の水準において、…それが最初の要求 demandesの単純な支えである限りであるが…私は言おう、泣き叫ぶ幼児の最初の欲求 besoin の分節化の水準における殆ど無垢な要求、最初の欲求不満 frustrations…母なる超自我に属する全ては、この母への依存 dépendance の周りに分節化される。(Lacan, S.5, 02 Juillet 1958)

この「母なる超自我/父なる超自我」に近似した表現として、中井久夫にも「母なるオルギア」(距離のない狂宴)、「父なるレリギオ」(つつしみ)というものがある(参照)。

中井久夫の特徴は、ラカン派のララング論は現在に至るまで(わたくしの知る限り)出産後しかほとんど考えていないのに対し、母胎内における刻印を比較的早い段階から思考していることである(参照:中井久夫のララング論)。

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)
少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。一歳までにだいたい母語の音素は赤ちゃんのものになる。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
母子の時間の底には無時間的なものがある。母の背に負われ、あるいは懐に抱かれたならば、時間はもはや問題ではなくなる。父子にはそれはない。…

この無時間的なものの起源は、胎内で共有した時間、母子が呼応しあった一〇カ月であろう。生物的にみて、動く自由度の低いものほど、化学的その他の物質的コミュニケーション手段が発達しているということがある。植物や動物でもサンゴなどである。胎児もその中に入らないだろうか。生まれて後でさえ、私たちの意識はわずかに味覚・嗅覚をキャッチしているにすぎないけれども、無意識的にはさまざまなフェロモンが働いている。特にフェロモンの強い「リーダー」による同宿女性の月経周期の同期化は有名である。その人の汗を鼻の下にぬるだけでよい。これは万葉集東歌に残る「歌垣」の集団的な性の饗宴などのために必要な条件だっただろう。多くの動物には性周期の同期化のほうがふつうである。(中井久夫「母子の時間、父子の時間」初出2003年『時のしずく』所収)


中井久夫は個人的先史時代の記憶を、外傷的な「幼児型記憶」としている。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


この「幼児型記憶」にほぼ相当する期間の刻印が、フロイトの「トラウマへの固着」、あるいは「トラウマへのリビドー固着」である(フロイトの場合、2才から4、5才までとしている)。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

ここでのトラウマとは、心的装置に同化されず身体的なものとして居残る出来事という意味である。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011 )


この身体の上への刻印が、中井久夫の云う《語りとしての自己史に統合されない「異物」》であり、フロイトの考えではこの異物のせいで、人はみな(ほとんどの場合、気づかないままで)反復強迫を起こすか、このトラウマ的刻印に対して防衛しながら生きているのである。

たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

ラカンはこの異物を、《異者としての身体 un corps qui nous est étranger》(S23、1976)と表現した。

既に何度か示しているが、フロイト・ラカン派における原症状の核心は、個人的先史時代の刻印であり、次の用語群がそれに相当する。


フロイト・ラカン「固着」語彙群

サントーム(=固着)は現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011))

中井久夫は、フロイトの「外傷神経症」あるいは「現勢神経症」(現実神経症)という用語を、1995年以降のトラウマ研究への傾斜のなかで前面に出し、統合失調症の底にも実は幼児期の外傷があるのではないかという問いを発しているが(参照)、この二つの語は、両方とも「リビドー固着」にかかわる概念である(参照)。