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2020年4月21日火曜日

フロイトラカン版「ファントム空間発達図」

すでに何度も示しているが、次の図を疑う人は誰もいないだろう。



安永(安永浩)と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

弧が3種類描かれているが、わたくしの言い方なら、自極と対象極が狭い人とはエロス人格人生、他方、離れている人はタナトス人格人生を送る(ここでのエロス人格とは融合人格、タナトス人格とは分離人格といってもよい[参照])。だが今はこの話題ではない。

さてフロイトとラカンならどうか?

フロイトラカンの最も基本的な考え方も上の「安永中井ファントム空間発達図」ときわめて相同的である。ただし最初にある「誕生」の場処は、母胎内の母子融合=原享楽(原エロス)と置き換える必要がある。







以下、この「フロイトラカン版ファントム空間発達図」の意味するところを引用にて簡潔に示そう。

反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

原初の享楽の喪失とは「出生による母子融合状態の喪失」である。フロイトはこの出産外傷によって喪われる融合状態を「原ナルシシズムprimären Narzißmus」と呼んだが、ようするに原エロス状態ということである。ラカンには原享楽という用語はないが、事実上、この原ナルシシズム状態が原享楽である。

そして享楽回帰運動とは、根源的には、この母子融合状態という原享楽を取り戻そうとする欲動である。

人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

出生とともに「喪われた享楽」とは「喪われたエロス」のことでもある。

エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]……それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)

この大他者の享楽(原融合=原エロス)は出生後の生きている存在には不可能である。

大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味 le sens de ce qui relève de la mort.  に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要)
JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [穴Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)


要するに生きている存在には真の享楽=エロスはない。原享楽を取り戻す運動は母なる大地との融合=死でしかない。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de  la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie.  (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


簡潔に書かれているポール・バーハウ  の注釈で補足すれば次の通り。

死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance( PAUL VERHAEGHE,  Enjoyment and Impossibility, 2006)
享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。( PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains, 2009)


以上、人の人生とは享楽の穴を穴埋めする「剰余享楽の人生」である。だが剰余享楽には「もはや享楽はまったくない」という意味がある。上でみたように享楽=エロス(=愛)であり、つまりフロイトラカンの考え方においては、「人生には真の愛はない」ということでもある(ラカンが「愛は不可能」「愛は見せかけ」「愛は嘘」等々というのは究極的にはこの意味である[参照;愛はインチキ])。

剰余享楽 le plus-de-jouir
仏語の「 le plus-de-jouir(剰余享楽)」とは、「もはやどんな享楽もない」と「もっと享楽 を!」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by 2009)
対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の断片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「剰余享楽plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouirpar Gisèle Chaboudez, 2013)