安永(安永浩)と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
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弧が3種類描かれているが、わたくしの言い方なら、自極と対象極が狭い人とはエロス人格人生、他方、離れている人はタナトス人格人生を送る(ここでのエロス人格とは融合人格、タナトス人格とは分離人格といってもよい[参照])。だが今はこの話題ではない。 さてフロイトとラカンならどうか? |
反復は享楽回帰に基づいている la répétition est fondée sur un retour de la jouissance 。…フロイトによって詳述されたものだ…享楽の喪失があるのだ il y a déperdition de jouissance。.…これがフロイトだ。…フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽 jouissance ruineuse」への探求の相がある。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
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原初の享楽の喪失とは「出生による母子融合状態の喪失」である。フロイトはこの出産外傷によって喪われる融合状態を「原ナルシシズムprimären Narzißmus」と呼んだが、ようするに原エロス状態ということである。ラカンには原享楽という用語はないが、事実上、この原ナルシシズム状態が原享楽である。
そして享楽回帰運動とは、根源的には、この母子融合状態という原享楽を取り戻そうとする欲動である。 |
人には、出生 Geburtとともに、放棄された子宮内生活 aufgegebenen Intrauterinleben へ戻ろうとする欲動 Trieb、⋯⋯母胎回帰運動 Rückkehr in den Mutterleibがある。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
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出生とともに「喪われた享楽」とは「喪われたエロス」のことでもある。
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エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigungをもとめ、両者のあいだの間隙を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』第6章、1926年)
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大他者の享楽[la Jouissance de l'Autre]……それはフロイトの融合としてのエロス、一つになるものとしてのエロスである[la notion que Freud a de l'Éros comme d'une fusion, comme d'une union]。(Lacan, S22, 11 Février 1975)
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この大他者の享楽(原融合=原エロス)は出生後の生きている存在には不可能である。
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大他者の享楽は不可能である jouissance de l'Autre […] c'est impossible。大他者の享楽はフロイトのエロスのことであり、一つになるという(プラトンの)神話である。だがどうあっても、二つの身体が一つになりえない。…ひとつになることがあるとしたら、…死に属するものの意味 le sens de ce qui relève de la mort. に繋がるときだけである。(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974、摘要)
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JȺ(斜線を引かれた大他者の享楽)⋯⋯これは大他者の享楽はない il n'y a pas de jouissance de l'Autreのことである。大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre のだから。それが、斜線を引かれたA [穴Ⱥ] の意味である。(ラカン、S23、16 Décembre 1975)
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要するに生きている存在には真の享楽=エロスはない。原享楽を取り戻す運動は母なる大地との融合=死でしかない。
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死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (ラカン、S17、26 Novembre 1969)
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享楽の弁証法は、厳密に生に反したものである。dialectique de la jouissance, c'est proprement ce qui va contre la vie. (Lacan, S17, 14 Janvier 1970)
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簡潔に書かれているポール・バーハウ の注釈で補足すれば次の通り。
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死は享楽の最終的形態である。death is the final form of jouissance( PAUL VERHAEGHE, Enjoyment and Impossibility, 2006)
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享楽自体は、生きている主体には不可能である。というのは、享楽は主体自身の死を意味する it implies its own death から。残された唯一の可能性は、遠回りの道をとることである。すなわち、目的地への到着を可能な限り延期するために反復することである。( PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains, 2009)
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以上、人の人生とは享楽の穴を穴埋めする「剰余享楽の人生」である。だが剰余享楽には「もはや享楽はまったくない」という意味がある。上でみたように享楽=エロス(=愛)であり、つまりフロイトラカンの考え方においては、「人生には真の愛はない」ということでもある(ラカンが「愛は不可能」「愛は見せかけ」「愛は嘘」等々というのは究極的にはこの意味である[参照;愛はインチキ])。
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剰余享楽 le plus-de-jouir
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仏語の「 le plus-de-jouir(剰余享楽)」とは、「もはやどんな享楽もない」と「もっと享楽 を!」の両方の意味で理解されうる。(ポール・バーハウ、new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex by 2009)
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対象aは、「喪失 perte・享楽の控除 le moins-de-jouir」の効果と、その「喪失を埋め合わせる剰余享楽の断片 morcellement des plus de jouir qui le compensent」の効果の両方に刻印される。(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)
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le plus-de-jouirとは、「喪失 la perte」と「その埋め合わせとしての別の獲得の投射 le projet d'un autre gain qui compense」の両方の意味がある。前者の「享楽の喪失 La perte de jouissance」が後者を生む。…「剰余享楽plus-de-jouir」のなかには、《もはや享楽は全くない [« plus du tout » de jouissance]」》という意味があるのである。(Le plus-de-jouir par Gisèle Chaboudez, 2013)
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