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2020年4月19日日曜日

救済概念自体から救済されなければならない


標準的症状は社会的症状である。その症状において人は社会的規範に従う。どの社会も制度を構築する。…この制度とは、宗教から科学までの信念の象徴的システムである。…だが後期ラカン理論の核心はこの保証を与えてくれる大他者(信念の象徴的システム)から逃れ、いかに自ら創造するものとしてのサントーム(象徴界・想像界・現実界)を作るかである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, new studies of old villains, 2009)


なんだ、救いはほしいのか。アホらし!

だいたい信者マインドを維持したままラカンを読もうなんてのは鼻からウンコちゃんだよ。ま、信仰は信仰でいいよ、ラカン派のなかにもカトリック教徒はたくさんいるし、ラカンの弟だって神父だったんだから。でもアタシが神を信じてしまうのはなぜかしら、ってのを問い続けないやつは救いがたいな。



ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくない」ーー「何も知りたいないという無知へのパッションpassion de l'ignorance qui ne veut rien en savoir」(ラカン, S20)ーーにある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics, 2004)



冒頭文の「自ら創造するものとしてのサントーム」ってのは、「無からの創造 Creatio ex nihilo」(非関係・非意味に遭遇して主体自らが固有の支えを創造すること)ということであり、次のことだ。

最後のラカンにおいて、父の名はサントームとして定義される。言い換えれば、他の諸様式のなかの一つの享楽様式として。il a enfin défini le Nom-du-Père comme un sinthome, c'est-à-dire comme un mode de jouir parmi d'autres. (ミレール、L'Autre sans Autre、2013)
私がサントームΣとして定義したものは、象徴界、想像界、現実界を一つにまとめることを可能にするものである j'ai défini comme le sinthome [ Σ ], à savoir le quelque chose qui permet au Symbolique, à l'Imaginaire et au Réel, de continuer de tenir ensemble。…サントームの水準でのみ…関係がある…サントームがあるところにのみ関係がある。… Au niveau du sinthome, … il y a rapport. … Il n'y a rapport que là où il y a sinthome (ラカン, S23, 17 Février 1976)





もっともサントームの結び目ってのも、最晩年のラカンは次のように告白したんだけど(二種類のサントームについて)。

想像界、象徴界、現実界を支えるものなど何もない
ボロメオ結びの隠喩は、最もシンプルな状態で、不適切だ。あれは隠喩の乱用だ。というのは、実際は、想像界・象徴界・現実界を支えるものなど何もないから。私が言っていることの本質は、性関係はないということだ。性関係はない。それは、想像界・象徴界・現実界があるせいだ。これは、私が敢えて言おうとしなかったことだ。が、それにもかかわらず、言ったよ。はっきりしている、私が間違っていたことは。しかし、私は自らそこにすべり落ちるに任せていた。困ったもんだ、困ったどころじゃない、とうてい正当化しえない。これが今日、事態がいかに見えるかということだ。きみたちに告白するよ。
La métaphore du nœud borroméen à l'état le plus simple est impropre. C'est un abus de métaphore, parce qu'en réalité il n'y a pas de chose qui supporte l'imaginaire, le symbolique et le réel. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel c'est ce qui est l'essentiel de ce que j'énonce. Qu'il n'y ait pas de rapport sexuel parce qu'il y a un imaginaire, un symbolique et un réel, c'est ce que je n'ai pas osé dire. Je l'ai quand même dit. Il est bien évident que j'ai eu tort mais je m'y suis laissé glisser.(ラカン, S26, La topologie et le temps, 9 janvier 1979)


結局、何したって原抑圧の穴は埋められない。ラカン的にはこの意味でも救いはない。ラカンは最後に『終りなき分析』のフロイトに回帰して死んでいった。



たとえ分析治療が成功したとしても、その結果治癒した患者を、その後に起こってくる別の神経症、いやそれどころか前の病気と同じ欲動の根 Triebwurzel (=原抑圧)から生じてくる神経症、つまり以前の疾患の再発に苦しむことからさえも患者を守ってあげることが困難であることがこれで明らかになった。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第7章、1937年)

これはミレール派(フロイト大義派)のたぶんナンバースリーぐらいのポジションにいるだろうピエール=ジル・ゲガーンの実に簡潔明瞭な注釈がある。

ラカンが導入した身体は…フロイトが(原抑圧としての)固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着、あるいは欲動の固着である。結局、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に掘る。[Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient]。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。かつまた性関係を存在させる見込みはない。(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)


ま、でもこういうことはどうでもいいさ、どうせムズカシスギルだろうから。当面、信者の方にとって肝腎なのは次のことだな。


最も重要な救済はまさに救済概念からの救済である。the most important salvation is the salvation from the very idea of salvation (ニコス・カザンザキス Nikos Kazantzakis, Report to Greco, p491, 1961年)
神への愛の頂点は、神に次のように言うことである、「もしこれがあなたの意志なら、私を咎めてください」… que le comble de l'amour de Dieu, ça devait être de lui dire… «si c'est ta volonté, damne-moi»(Lacan, Milano. LA PSICOANALISI NELLA SUA REFERENZA AL RAPPORTO SESSUALE , 1973)


だいたい神を愛して、その見返りに神に愛される、あるいは愛されたいって心性が、ツイッターカトリック村を見るかぎり日本の神父やらカトリック学者やらをふくめて大半のようだが、それってとってもはしたないことだって感じたことがないらしいな、もうそこで終わってんだよ、そんな連中はたんなるナルシシシト、イマジネールな自我の享楽者に過ぎない(神との同一化)。

自我は想像界の効果である。ナルシシズムは想像的自我の享楽である。Le moi, c'est un effet imaginaire. Le narcissisme, c'est la jouissance de cet ego imaginaire(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)

ま、このナルシシストとは巷間でよりいっそう通用する言い方をすればエゴイストってことだ、ーー《愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である》(ニーチェ『悦ばしき知識』14番、1882年)