「サントームは異者である」で記したことは、よりシンプルに言えば、「現実界は異物である」でよいだろう。
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◼️現実界は異物である
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トラウマないしはトラウマの記憶 [das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe]は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物ーーのように作用する。(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
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問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値を持っている。le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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◼️現実界はエスの欲動蠢動である
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現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)
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自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
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これではいくらなんでも簡潔すぎるので、ジャック=アラン・ミレールで補おう。
ジャック=アラン・ミレールによる排除と外密
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排除と外密[la forclusion et l'extimité]。用語としての排除は、それが意味するところの半分しか言っていない[ne dit que la moitié de ce dont il s'agit]。「排除」という語が言っているのは、外部に締め出すこと[enfermé en dehors]である。だが排除は外密の形式[la forme d'une extimité ]ーー外密的自動反復[automatisme extime]ーーにての回帰[retour]をも含意している。…排除は回帰なしの追放[exclusion sans retour]ではないのである。(J.-A. Miller, 20 novembre 1985)
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外密とは「異物=異者=異者身体」のことである。つまり「排除と外密」とは「排除と異物」である。
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◼️外密=モノ=異者=不気味なもの
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私の最も内にある親密な外部、モノとしての外密 extériorité intime, cette extimité qui est la Chose(ラカン、S7、03 Février 1960)
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モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09 Décembre 1959)
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異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。…étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)
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要するに排除された異物がエスの欲動蠢動となる。上にも引用したが再掲しよう。
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◼️エスの欲動蠢動=異物(異者身体)
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自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
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そして異物は(上に示したラカンが言っているように)不気味なものである。
◼️欲動蠢動=内的反復強迫=不気味なもの
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心的無意識のうちには、欲動蠢動 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)
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ここでミレール文に外密的自動反復[automatisme extime]とあったことを思い出そう。これは異物の自動反復、欲動蠢動の反復強迫である。
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◼️欲動蠢動=自動反復=無意識のエスの反復強迫
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欲動蠢動 Triebregungは「自動反復 Automatismus」を辿る、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯そして固着する契機 Das fixierende Moment ⋯は、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
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さてもうひとつ、何度か示している中井久夫による「排除と異物」を掲げよう。上に示したフロイトラカン的捉え方と全く同じ内容である。解離を排除と読み替えればよいだけである。
中井久夫による排除と異物
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サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
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解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。
(⋯⋯)侵入症候群の一つのフラッシュバックはスナップショットのように一生変わらない記憶で三歳以前の古い記憶形式ではないかと思います。三歳以前の記憶にはコンテクストがないのです。⋯⋯コンテクストがなく、鮮明で、繰り返してもいつまでも変わらないというものが幼児の記憶だと私は思います。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
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外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
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解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)
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フロイトの異物はトラウマ、あるいはその記憶の反復強迫、ラカンの現実界も上に示したように同様であり、日本におけるトラウマ研究の第一人者だろう中井久夫の示す内容と合致するのはある意味で当然の成り行きだとはいえ、ほとんどの人はいまだ気づいていない筈である。
以下、確認のための引用列挙。
以下、確認のための引用列挙。
◼️トラウマへの固着によりエスのなか置き残された異物の反復強迫
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病因的トラウマ ätiologische Traumenは…自己身体の上への出来事 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚Sinneswahrnehmungen である。…また疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)
…これは「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約され、標準的自我と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3」1938年)
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エスの内容の一部分は、自我に取り入れられ、前意識状態に格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、リアルな無意識 eigentliche Unbewußteとしてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
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忘却されたもの Vergessene は消滅 ausgelöscht されず、ただ「抑圧 verdrängt」されるだけである。その記憶痕跡 Erinnerungsspuren は、全き新鮮さのままで現存するが、対抗リビドー(対抗備給 Gegenbesetzungen)により分離されているのである。…それは無意識的であり、意識にはアクセス不能である。抑圧されたものの或る部分は、対抗過程をすり抜け、記憶にアクセス可能なものもある。だがそうであっても、異物 Fremdkörper のように分離 isoliert されいる。(フロイト『モーセと一神教』1938年)
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われわれには原抑圧 Urverdrängung、つまり心的(表象的-)欲動代理psychischen(Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes が意識的なものへの受け入れを拒まれるという、抑圧の第一相を仮定する根拠がある。これと同時に固着 Fixerung が行われる。(……)
欲動代理 Triebrepräsentanz は(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、それはもっと自由に豊かに発展する。
それはいわば暗闇に蔓延り wuchert dann sozusagen im Dunkeln 、極端な表現形式を見つけ、もしそれを翻訳して神経症者に指摘してやると、患者にとって異者fremdのようなものに思われるばかりか、異常で危険な欲動強度Triebstärkeという装い Vorspiegelung によって患者をおびやかすのである。(フロイト『抑圧』1915年)
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フロイトが固着と呼んだものは、…享楽の固着 [une fixation de jouissance]である。(J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique, 26/2/97)
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フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである。 Freud l'a découvert[…] une répétition de la fixation infantile de jouissance. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000)
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享楽の固着とそのトラウマ的作用fixations de jouissance et cela a des incidences traumatiques. (Entretiens réalisés avec Colette Soler entre le 12 novembre et le 16 décembre 2016)
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現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
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フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(MILLER、L'Être et l'Un, 2011)
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(心的装置に)同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895)
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)
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フロイトはモノを異者と呼んだ。das Ding[…] ce que Freud appelle Fremde – étranger. (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 26/04/2006)
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要するに異物とは、リビドー固着の残滓のことである。
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発達や変化に関して、残存現象 Resterscheinungen、つまり前段階の現象が部分的に置き残される Zurückbleiben という事態は、ほとんど常に認められるところである。…
いつでも以前のリビドー体制が新しいリビドー体制と並んで存続しつづける。…最終的に形成されおわったものの中にも、なお以前のリビドー固着の残滓 Reste der früheren Libidofixierungenが保たれていることもありうる。…一度生れ出たものは執拗に自己を主張するのである。われわれはときによっては、原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich は本当に死滅してしてしまったのだろうかと疑うことさえできよう。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)
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この異者としての対象は対象aである。cet objet étranger qu'est l'objet(a). (Lacan, S14, 16 Novembre 1966)
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享楽は、残滓 (а) を通している。la jouissance[…]par ce reste : (а) (ラカン, S10, 13 Mars 1963)
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いわゆる享楽の残滓 [reste de jouissance]。ラカンはこの残滓を一度だけ言った。だがそれで充分である。そこでは、ラカンはフロイトによって啓示を受け、リビドーの固着点 [points de fixation de la libido]を語った。これが、孤立化された、発達段階の弁証法に抵抗するものである。(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III- 5/05/2004)
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享楽の名le nom de jouissance…それはリビドーというフロイト用語と等価である。(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
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