このところ繰り返している内容を可能な限り簡潔に記す。
フロイトの思考の基本はこうである。まず身体的なリビドー[libido]があって、その覆いとして心的外被[psychische Umkleidung]がある。だが心的外被は充分にはリビドーを飼い慣らせず、必ず異物[Fremdkörper]がエスに居残り症状となる。 |
これはラカンも同様である。リビドーは享楽であり、心的外被は形式的封筒 [l'enveloppe formelle]ーー代表的なものはファルス、つまり言語の大他者Aーー、異物は残滓としての対象aである。
ジャック=アラン・ミレールを引用して確認しよう。 |
フロイトの思考をマテームを使って翻訳してみよう。大きなAは抑圧、享楽の破棄(取り消し)である[grand A refoulant, annulant la jouissance. ]。
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フロイトにおいてこの図式における大きなAは、エスの組織化された部分としての自我の力である。さらにラカンにおいて、非破棄部分が対象aである[grand A, c'est la force du moi, en tant que partie organisée du ça. Et de plus, chez Lacan, ça comporte qu'il y a une partie non annulable, petit a]。
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フロイトが措定したことは、欲動の動きはすべての影響から逃れる[la motion de la pulsion échappe à toute influence]ことである。つまり享楽の抑圧、欲動の抑圧は欲動要求を黙らせるには十分でない[que le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exigence. ]。
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そして症状は、自我の組織の外部に存在を主張して、自我から独立的である[le symptôme manifeste son existence en dehors de l'organisation du moi et indépendamment d'elle]。(J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97)
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上でミレールが言っているのは次の内容である。
◼️抑圧=エスの翻訳の失敗
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翻訳の失敗、これが臨床的に「抑圧」と呼ばれるものである。Die Versagung der Übersetzung, das ist das, was klinisch <Verdrängung> heisst.(フロイト、フリース書簡52、Freud in einem Brief an Fließ 6.12, 1896)
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自我はエスから発達している。エスの内容の或る部分は、自我に取り入れられ、前意識状態vorbewußten Zustandに格上げされる。エスの他の部分は、この翻訳 Übersetzung に影響されず、原無意識(リアルな無意識 eigentliche Unbewußte)としてエスのなかに置き残されたままzurückである。(フロイト『モーセと一神教』1938年)(フロイト『モーセと一神教』1939年)
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◼️症状=異物としての症状
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自我にとって、エスの欲動蠢動 Triebregung des Esは、いわば治外法権 Exterritorialität にある。…われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen ーーと呼んでいる。…異物とは内界にある自我の異郷部分 ichfremde Stück der Innenweltである。(フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)
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ーーそしてこの異物に対する防衛として種々の二次的症状が発生する(防衛とは1926年以降のフロイトにとって抑圧と等価である)。通常、症状と呼ばれているものは、この二次的症状であり、異物としての症状が原症状である、➡︎「サントームは異者である」。
ラカンにおける異物(異者としての身体)の定義はいくつか並べておこう。
異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)
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この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている。 ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté, (Lacan, S16, 14 Mai 1969)
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現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 -16/06/2004)
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ーーラカン的な語彙群によるもういくらの詳細は「後期ラカンの鍵」を参照されたし。
◼️付記
後期ラカンの臨床の問いとは、結局、ラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終わりなき分析』の、たとえば次の二文に収斂する。
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すべての神経症的障害の原因は混合的なものである。すなわち、それはあまりに強すぎる欲動 widerspenstige Triebe が自我による飼い馴らし Bändigung に反抗しているか、あるいは幼児期の、すなわち初期の外傷体験 frühzeitigen, d. h. vorzeitigen Traumenを、当時未成熟だった自我が支配することができなかったためかのいずれかである。
概してそれは二つの契機、素因的なもの konstitutionellen と偶然的なもの akzidentellenとの結びつきによる作用である。素因的なものが強ければ強いほど、速やかに外傷は固着を生じやすくTrauma zur Fixierung führen、精神発達の障害を後に残すものであるし、外傷的なものが強ければ強いほどますます確実に、正常な欲動状態normalen Triebverhältnissenにおいてもその障害が現われる可能性は増大する。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』第2章、1937年)
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「欲動要求の永続的解決 dauernde Erledigung eines Triebanspruchs」とは、欲動の「飼い馴らし Bändigung」とでも名づけるべきものである。それは、欲動が完全に自我の調和のなかに受容され、自我の持つそれ以外の志向からのあらゆる影響を受けやすくなり、もはや満足に向けて自らの道を行くことはない、という意味である。
しかし、いかなる方法、いかなる手段によってそれはなされるかと問われると、返答に窮する。われわれは、「するとやはり魔女の厄介になるのですな So muß denn doch die Hexe dran」(ゲーテ『ファウスト』)と呟かざるをえない。つまり魔女のメタサイコロジイDie Hexe Metapsychologie である。(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第3章、1937年)
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