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2020年7月10日金曜日

死の引力

いや、ミレール曰くの《「愛する」とは「欠如している」[« j'aime », c'est : « je manque de »]という意味である》(「愛の迷宮」1992年)ってのは、フロイトのパクリだよ。

愛自体は、渇望・欠如である。Das Lieben an sich, als Sehnen, Entbehren (フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)

そもそもあの論文は、フロイトのナルシシズム入門注釈にラカン的胡椒をいくらか振りかけたみたいなもんなんだから。

人は何かが欠けているから愛するのであって、そうでなかったら愛なんてものはない。

で、《愛はナルシシズムである。l'amour c'est le narcissisme。》(Lacan, S15, 10 Janvier 1968)

だから《リーベは、愛と欲望の両方をカバーする用語である。Liebe est un terme qui recouvre à la fois l'amour et le désir 》(ミレール「愛の迷宮」1992年)ってのは、リーベはナルシシズムと欲望だと言っていることになる。

ーーふつうの女性は愛がナルシシズムなんてひどいわって言うんだろうけど、ラカンはくどいぐらい繰り返してるね。

そもそもフロイトのリビドーとはリーベあるいはエロスのこと。

リビドーLibidoはリーベLiebeと総称されるものをすべて含んでいる。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)
すべての利用しうるエロスエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)

ただし厄介なのはナルシシズムには二種類あること。二次ナルシシズムと原ナルシシズム。二次ナルシシズムは自我のナルシシズムとフロイトは明言している。そしてたとえば次のものが原ナルシシズム(根源的ナルシシズム)。

リーベは欲動蠢動の一部を器官快感の獲得によって自体性愛的 autoerotischに満足させるという自我の能力に由来している。リーベは原ナルシズム的である。Die Liebe stammt von der Fähigkeit des Ichs, einen Anteil seiner Triebregungen autoerotisch, durch die Gewinnung von Organlust zu befriedigen. Sie ist ursprünglich narzißtisch(フロイト『欲動とその運命』1915年)




とはいえフロイトがナルシシズムと言っているときどっちのナルシシズムを言っているのか分からないときがある。こういったこともあって、むかしからフロイトのナルシシズムについてはワカランという話が多い(ナルシシズム概念の難解さ)。

ラカンが三界を導入してある程度整理したということは言える。ま、でもこれもはっきり整理しているラカン注釈者はいまだいない。ラカン自身やミレールの散発的発言を拾ってたぶんこうだろうと推測する他ない。





なにはともあれ、リアルなリビドーが、愛の欲動=本来の享楽なのは間違いよ➡︎リビドー文献(未定稿) 

あるいは本来の享楽がフロイトの自体性愛(=原ナルシシズム的リビドー)であるのは間違いない。

ラカンは、享楽によって身体を定義する définir le corps par la jouissance ようになった。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイト(フロイディズムfreudisme)において自体性愛 auto-érotisme と伝統的に呼ばれるもののことである。

…ラカンはこの自体性愛的性質 caractère auto-érotique を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体 pulsion elle-mêmeに拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である la pulsion est auto-érotique。(ジャック=アラン・ミレール 、 L'Être et l 'Un -  25/05/2011)

で、ほとんど誰もがいまだ受け入れていないように見えるが、「死の欲動=愛の欲動」であるのも間違いない。

死は愛である [la mort, c'est l'amour.](Lacan, L'Étourdit E475, 1970)
究極的には死とリビドーは繋がっている[finalement la mort et la libido ont partie liée. ](J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)
ナルシシズムの背後には、死がある[derrière le narcissisme, il y a la mort.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 06/04/2011)

間違いないのだけど、日本ラカン派は皆、いまだまったく正面から受け止めていないように見えるな。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)

死に対する防衛として愛(二次ナルシシズム)や欲望があるんだがな、わかんねえのかな。


…………

以下の図は上に示した図の独語仏語つき版。とはいえいくらか疑っている箇所がまだある。



いくらか疑っているってのか、究極の原ナルシシズム的リビドーの対象(享楽の対象)は何かというのを鮮明化しないとな。

根源的ナルシシズムursprünglichen Narzißmusと原ナルシシズムprimären Narzißmusとはどう違うんだろ、一緒なんだろうか?とかさ。


女性の場合、思春期になるにつれて、今まで潜伏していた女性器[latenten weiblichen Sexualorgane]が発達するために、根源的ナルシシズムの高まり[Steigerung des ursprünglichen Narzißmus]が現われてくるように見える。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)
自我の発達は原ナルシシズムから距離をとることによって成り立ち、自我はこの原ナルシシズムを取り戻そうと精力的な試行錯誤を起こす。Die Entwicklung des Ichs besteht in einer Entfernung vom primären Narzißmus und erzeugt ein intensives Streben, diesen wiederzugewinnen.(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)
人は出生とともに絶対的な自己充足をもつナルシシズムから、不安定な外界の知覚に進む。 haben wir mit dem Geborenwerden den Schritt vom absolut selbstgenügsamen Narzißmus zur Wahrnehmung einer veränderlichen Außenwelt  (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)
女性器 weibliche Genitale という不気味なもの Unheimliche は、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷 Heimat への入口である。冗談にも「愛とは郷愁だ Liebe ist Heimweh」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器 Genitale、あるいは母胎 Leib der Mutter であるとみなしてよい。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年)

何はともあれ女性が男に比べてずっとナルシシズム的になるのはやむ得ないね、股の間にブラックホール(愛の引力)抱えてるんだから。薔薇のたぐいがとっても好きなのもよくわかるよ。




享楽の対象 Objet de jouissanceは…喪われた対象 objet perdu である。(ラカン, S17, 14 Janvier 1970)
例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を示す。le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance (ラカン、S11、20 Mai 1964)
(『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身の)イルマの注射の夢、…おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メデューサの首 la tête de MÉDUSE》と呼ぶ。あるいは名づけようもない深淵の顕現と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象 l'objet primitif そのものがある…すべての生が出現する女陰の奈落 abîme de l'organe féminin、すべてを呑み込む湾門であり裂孔 le gouffre et la béance de la bouche、すべてが終焉する死のイマージュ l'image de la mort, où tout vient se terminer …(ラカン、S2, 16 Mars 1955)
ジイドを苦悶で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールtrou noir のみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。(Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750、1958)


なぜ女に向けて祈らずにいられるんだろ?

なぜ、「中心の空洞」に向けて祈らずにいられるんだろう?(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」)