以下、主にラカンの言説理論をめぐって記すが、その前提となる思考は、「四つの言説基本版」「資本の言説基本版」を参照されたし。
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ハイパーモダン文化の言説は分析家の言説の構造を持っている! le discours de la civilisation hypermoderne a la structure du discours de l’analyste! (Conférence de Jacques-Alain Miller en Comandatuba, 2004)
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ここでジャック=アラン・ミレールが言っているハイパーモダン文化の言説とは、父なき時代の後期資本主義の言説という意味として捉えうる。
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父の蒸発 évaporation du père(「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
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エディプスの失墜 déclin de l'Œdipe において、…超自我は言う、「享楽せよ Jouis ! と。(ラカン, S18, 16 Juin 1971)
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超自我を除いて sauf le surmoiは、何ものも人を享楽へと強制しない Rien ne force personne à jouir。超自我は享楽の命令であるLe surmoi c'est l'impératif de la jouissance 「享楽せよ jouis!」と。(ラカン, S20, 21 Novembre 1972)
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そして超自我とは対象aと記される(分析家も対象aである)。
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超自我の命令impératifs[…] du Surmoiは、…声としての対象aの形態 forme de l'objet(a) qu'est la voixをとる。(ラカン, S10, 19 Juin 1963)
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われわれの時代の主人は、資本である。したがってミレールの発言に依拠するならば、後期資本主義の言説とは次のように記せる。
ーー左下の真理のポジションにある専門知は、エージェントの超自我によって抑圧されているという意味であり、超自我はわれわれの時代の主体に命令する、享楽せよ!と。この超自我の声は、究極的には自己破壊の命令である(参照)。
たとえば経済的専門知を抑圧して、巨額の借金をさらに雪だるま式に増やし、財政破綻という自己破壊に突き進む「日本病」はこの典型例だろう。
とはいえ、ラカン自身の「資本の言説」図を使ったほうがより明瞭になる。
危機 la crise は、主人の言説 discours du maître というわけではない。そうではなく、資本の言説 discours capitalisteである。それは、主人の言説の代替 substitut であり、今、開かれている ouverte。
私は、あなた方に言うつもりは全くない、資本の言説は醜悪だ le discours capitaliste ce soit moche と。反対に、狂気じみてクレーバーな follement astucieux 何かだ。そうではないだろうか?
クレーバーだ。だが、破滅 crevaison に結びついている。
結局、資本の言説とは、言説として最も賢いものだ。それにもかかわらず、破滅に結びついている。この言説は、支えがない intenable。支えがない何ものの中にある…私はあなた方に説明しよう…
資本家の言説はこれだ(黒板の上の図を指し示す)。ちょっとした転倒だ、そうシンプルにS1 と $ とのあいだの。 $…それは主体だ…。それはルーレットのように作用する ça marche comme sur des roulettes。こんなにスムースに動くものはない。だが実際はあまりにはやく動く。自分自身を消費する。とても巧みに、ウロボロスのように貪り食う ça se consomme, ça se consomme si bien que ça se consume。さあ、あなた方はその上に乗った…資本の言説の掌の上に…vous êtes embarqués… vous êtes embarqués…(ラカン、Conférence à l'université de Milan, le 12 mai 1972)
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要するに「資本の言説」スキーマを使えば次のように図示できる。
以下、いくら補おう。
◼️ラカンの剰余享楽はマルクスの剰余価値に相当する。
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剰余価値[Mehrwert]、それはマルクス的快[Marxlust]、マルクスの剰余享楽[le plus-de-jouir de Marx]である。(ラカン、ラジオフォニー, AE434, 1970年)
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剰余価値は欲望の原因であり、経済がその原理とするものである。経済の原理とは「享楽欠如 manque-à-jouir」の拡張的生産の、飽くことをしらない原理である。la plus-value, c'est la cause du désir dont une économie fait son principe : celui de la production extensive, donc insatiable, du manque-à-jouir.(Lacan, RADIOPHONIE, AE435,1970年)
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◼️剰余価値は資本の穴の穴埋めである(資本はS1に相当する)。
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装置が作動するための剰余享楽の必要性がある。つまり享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として、示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970)
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ラカンは享楽と剰余享楽とのあいだを区別をした。… これは、穴としての享楽[la jouissance comme trou]と、穴埋めとしての剰余享楽 [le plus-de-jouir comme bouchon] である。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)
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◼️ラカン観点からは、資本の論理の症状自体、構造的には人間の症状と等価である。
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症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念 la notion de symptôme は、…マルクス MARX を読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。(Lacan, S18, 16 Juin 1971)
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◼️事実上、父なき時代の主体はみなプロレタリアである。
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社会的症状は一つあるだけである。すなわち各個人は実際上、皆プロレタリアである。つまり個人レベルでは、誰もが「社会的つながり lien social を築く言説」、換言すれば「見せかけ semblant」をもっていない。これが、マルクスがたぐい稀なる仕方で没頭したことである。Y'a qu'un seul symptôme social : chaque individu est réellement un prolétaire, c'est-à-dire n'a nul discours de quoi faire lien social, autrement dit semblant. C'est à quoi MARX a paré, a paré d'une façon incroyable.(LACAN, La troisième 1-11-1974 )
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◼️マルクスのフェティッシュ自体がラカンの剰余享楽としての対象aである。
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あなた方は焦らないようにしたらよろしい。哲学のがらくたに肥やしを与えるものにはまだしばらくの間こと欠かないだろうから。⋯
対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。…
この対象(私が対象aと呼ぶもの que j'appelle l'objet petit a)、それはフェティシュfétiche とマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである。(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」AE207、1966年)
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対象a…欲望の原因としての対象aがある。l' objet(a), […]comme la cause du désir.
フェティッシュ自体の対象の相が、「欲望の原因」としての対象の相で現れる。…
fétiche comme tel, où se dévoile cette dimension de l'objet comme cause du désir.
フェティッシュとは、欲望されるdésiré 対象ではない。…そうではなくフェティッシュは「欲望を引き起こす le fétiche cause le désir」対象である。(ラカン、S10、16 janvier 1963)
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この前提で以下のマルクスを読んでみよう。
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自動的主体 ein automatisches Subjekt
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諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、ただ商品交換を媒介するだけで、運動の最後の結果では消えてしまっている。
これに反して、流通 G-W-G (貨幣-商品-貨幣)では、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、すなわち貨幣はその一般的な、商品はその特殊的な、いわばただ仮装しただけの存在様式として、機能するだけである。
価値は、この運動の中で消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、そのようにして、一つの自動的主体 ein automatisches Subjekt に転化する。
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自分を増殖する価値がその生活の循環のなかで交互にとってゆく特殊な諸現象形態を固定してみれば、そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である。
しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程のなかで絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値Mehrwert としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。
なぜならば、価値が剰余価値をつけ加える運動は、価値自身の運動であり、価値の増殖であり、したがって自己増殖 Selbstverwertung であるからである。(マルクス『資本論』第1巻第2章 Die allgemeine Formel des Kapitals)
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ーーここでのG-W-G (貨幣-商品-貨幣)とは実際は G-W-G’(G+Mehrwert)である。
マルクスの思考は、上に示した資本の言説スキーマの「主体=資本」を合体させて次のように図示できる。
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事実、ラカンは(主人の言説文脈にて語っているとはいえ)主体=主人を何度か示している。
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真理のなかで、主体と主人の出現の地平 l'horizon de la montée du sujet-Maître dans une véritéにおいて、 …それ自身と等価 égalité à soi-mêmeとなること[ $ ≡ S1 ]は、「私支配 je-cratie」だ。(Lacan, S17, 11 Février 1970)
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マルクスの自動的主体とは、ラカンにとって無頭の主体に相当する。
欲動は「無頭の主体」のモードにおいて顕れる。la pulsion se manifeste sur le mode d’un sujet acéphale.(ラカン、S11、13 Mai 1964)
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ここでふたたびミレールの「ハイパーモダンの言説=超自我の命令(a)」を導入できる。
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享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する。この観点において、おそらく超自我の真の価値は欲動の主体である。Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion. A cet égard, peut-être que la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)
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結局、超自我の命令とは欲動の主体=自動的主体に移行することの命令である。
柄谷はこれを資本の欲動と呼んだ。
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資本家は、 G‐W‐G’( G+ ⊿G )という自己運動に積極的にとびこんで行かねばならない(…)。使用価値は、けっして資本家の直接目的として取り扱われるべきではない。個々の利得もまたそうであって、資本家の直接目的として取り扱われるべきものは、利得の休みなき運動でしかないのだ。(…)
資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』pp.25-26)
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柄谷は、G‐W‐G’( G+ ⊿G )としているが、究極の資本の論理とはG‐W‐G’ではなく、G+ ⊿G である。
利子生み資本では、自動的フェティッシュautomatische Fetisch、自己増殖する価値 selbst verwertende Wert…が完成されている。(⋯⋯)
ここでは資本のフェティッシュな姿態 Fetischgestalt と資本フェティッシュ Kapitalfetisch の表象が完成している。我々が G─G′ で持つのは、資本の中身なき形態 begriffslose Form、生産諸関係の至高の倒錯 Verkehrungと物件化 Versachlichung、すなわち、利子生み姿態 zinstragende Gestalt・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態 einfache Gestalt des Kapitals である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation である。(マルクス『資本論』第3巻 M.E.W., 25, p. 405)
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以上、われわれの時代の究極の言説とは、次の形になる。
M-M' (G─G')において、われわれは資本の非合理的形態をもつ。そこでは資本自体の再生産過程に論理的に先行した形態がある。つまり、再生産とは独立して己の価値を設定する資本あるいは商品の力能がある、ーー《最もまばゆい形態での資本の神秘化 Kapitalmystifikation 》である。株式資本あるいは金融資本の場合、産業資本と異なり、蓄積は、労働者の直接的搾取を通してではなく、投機を通して獲得される。しかしこの過程において、資本は間接的に、より下位レベルの産業資本から剰余価値を絞り取る。この理由で金融資本の蓄積は、人々が気づかないままに、階級格差 class disparities を生み出す。これが現在、世界的規模の新自由主義の猖獗にともなって起こっていることである。(柄谷行人、‟Capital as Spirit“ by Kojin Karatani、2016、私訳)
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この論理がラカンの言うように破滅、あるいは自己破壊に結びつくか否かは、資本の論理の最も典型的な症状の国日本の近未来がおそらく明かしてくれるだろう。
今日、マルキシストであるためのは、われわれはラカンを通さねばならぬ! To be a Marxist today, one has to go through Lacan!”(ジジェク書評、The Capitalist Unconscious Marx and Lacan by Samo Tomšič– Slavoj Žižek)
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わたくしに言わせれば、もはや破滅するか否かではない。重要なのは、必ず起こる破滅後、資本の論理の世界に再び戻らないためにはどうすべきか、ーーそれを今から思考し行為に移行させることである。
今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。(…)もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。(柄谷行人「反原発デモが日本を変える」2011年)
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昨年、78歳の柄谷はこう言っている。
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私は今世紀のはじめごろ、NAM(新アソシエーショニスト運動)という運動をやっていました。二年で解散しましたけど、別にあきらめていない。もう一度やろうと思っていますよ。 (柄谷行人氏ロングインタビュー 普遍的な世界史の構造を解明するために 2019年3月1日)
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はっきり言ってここにしかないのである、しかもかつてのように一国社会主義による悲惨な結果に陥らないようにするためには世界同時革命しかない。それがなければ破滅後もふたたび資本の論理の世界に必ず戻ってしまう。
不幸にも日本にはいまだ真のマルキシストは柄谷しかいない。
哲学者たちは世界を単にさまざまに解釈しただけである。しかし肝腎なのは世界を変えることである。Die Philosophen haben die Welt nur verschieden interpretirt; es kommt aber darauf an, sie zu verändern. (マルクス『フォイエルバッハにかんするテーゼ』第十一)
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若いマルキシストたちはこの期に及んで「資本主義の悪」などと繰り言を言っている時ではもはやない。行為への移行の準備、最低限、既存システムの座標軸を掘り崩す思考のモデルを提示しなければならない。
もし協同組合的生産 genossenschaftliche Produktion が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度 kapitalistische System にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体 Gesamtheit der Genossenschaften が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキー beständigen Anarchieと周期的変動 periodisch wiederkehrenden Konvulsionenを終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、「可能なるコミュニズム „unmögliche“ Kommunismus」 以外の何であろう。(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』1891年)
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ーー柄谷はこの文を「アソシエーションのアソシエーション」と言い換えている。実際、前段には《自由でアソシエートした労働への変容 freien und assoziierten Arbeit verwandelt》とある。
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