ニーチェというのは、価値転覆の人なのだから、ニーチェの使っている言葉をわれわれの通念の意味でとったらダメだよ。
伝達という言語ゲームは何なのだろうか? 私は言いたい、あなたは人が誰かに何かを伝達できるということを、あまりにも自明なことと見なしすぎている。つまりわれわれは、会話において言語を使った伝達にとても慣れてしまっているので、伝達において重要なことの全ては、他人が私の言葉の意味 ―― 心的な何か ―― を把握する、いわば彼の心のうちに受け入れることの中にある、と思っている。 Was ist das Sprachspiel des Mitteilens? Ich möchte sagen: du siehst es für viel zu selbstverständlich an, daß man Einem etwas mitteilen kann. Das heißt: Wir sind so sehr an die Mitteilung durch Sprechen, im Gespräch, gewöhnt, daß es uns scheint, als läge der ganze Witz der Mitteilung darin, daß ein Andrer den Sinn meiner Worte - etwas Seelisches - auffaßt, sozusagen in seinen Geist aufnimmt. (ウィトゲンシュタイン『哲学研究』363節) |
ニーチェはけっして共同体内部の言葉遣いをしていない。常にーー柄谷の言う意味でも、さらにはそれ以外でもーー「他者」として思考しているのだから。 |
『探究Ⅰ』において、私は、コミュニケーションや交換を、共同体の外部、すなわち共同体と共同体の「間」に見ようとした。つまり、なんら規則を共有しない他者との非対称的な関係において見ようとした。「他者」とは、言語ゲームを共有しない者のことである。規則が共有される共同体の内部では、私と他者は対称的な関係にあり、交換=コミュニケーションは自己対話(モノローグ)でしかない。一方、非対称的な関係における交換=コミュニケーションには たえず「命懸けの飛躍」がともなう。私はまた、そういう非対称関係における交通からなる世界を「社会」とよび、共通の規則をもち従って対称的関係においてある世界を「共同体」と呼んできた。 ここで、誤解をさけるために補足しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それば共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。共同体の外とか間という場合、それを実際の空間のイメージで理解してはならない。それは体系の差異としてのみあるような「場所」である。(柄谷行人『『探究Ⅱ』1989年) |
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精神分析の言説でも似たようなもので、たとえば「トラウマ」という語は、共同体が使用する意味とは異なった使い方をしている(さらに精神分析家のあいだでもそれぞれ異なる)。
たとえば中井久夫は単語の記憶は外傷性記憶だと言っている。つまりトラウマ的記憶だと。
単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収) |
一般にはとても奇妙だろう。だがこうもある。 |
PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年) |
ーー「不変の刻印」とあるが、これ自体、フロイトの「身体の上への出来事=トラウマへの固着」のこと(参照)。 さらにーー、 |
言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収) |
この中井久夫の言っている「ものとしての言葉」は、ほぼラカン派の「言葉の物質性 motérialité」としてのララング(母の言葉)に相当する(参照)。 そしてラカン派ではこれをトラウマ的と呼ぶのである。 |
ララング lalangueは意味のなかの穴であり、トラウマ的である。ラカンは、ララングのトラウラカンは、ララングのトラウマをフロイトの性のトラウマに付け加えた。〔・・・〕 現実界の症状、それは意味から切断されているが、言語からは切断されていない。現実界の症状は、「言葉の物質性 motérialité」と享楽との混淆であり、享楽される言葉あるいは言葉に移転された享楽にかかわる。(コレット・ソレール Colette Soler、L'inconscient Réinventé 、2009) |
ことほど左様に、共同体での通念としての意味内容で捉えたら、何もわからないままである言説というのがある、ということだ。
私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」と言うためである。《ララング》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。 il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977) |
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少なくとも心的・精神的に意味で記憶する言葉、身体的にーー音調や音韻などーーで記憶する言葉があり、固有名の記憶は、身体的=トラウマ的記憶の要素がある(日本語は漢字表象があるので必ずしもそうだとは言えないが)。
ララングーーものとしての言葉ーーは、フロイト語彙ならモノ表象にほぼ相当する。 事物表象はイメージ、語表象はシニフィアンであり、共同体の通念としての言葉とはイメージに過ぎない。 なおより厳密に言えば、真ん中の(a)は次のような構造になっている(参照)。 ーーこれは、トラウマとしての穴=モノ(喪われた対象)としての(a)があり、穴埋めとしての(a)があるが、穴埋めは完全にはなされず、穴の残滓(a)があるという風に読む。 ちなみにラカン的な思考をニーチェは既に20代のとき考えている。まったく同じと言うつもりはないが、ラカンの「言語は存在しない」とは、言語は仮象だということであり、初期ニーチェの言葉遣いなら、言語はレトリックに過ぎないということだ。
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