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2020年12月17日木曜日

詩の起源としてのララング


◼️機知はララングである[le mot d'esprit ...c'est le lalangue.]

Seulement, il y a quelque chose dont Freud s'est aperçu, c'est du rapport de l'inconscient avec le mot d'esprit. Et le mot d'esprit, c'est l'équivoque. Et l'équivoque, c'est le langage( lalangue )(ラカン、ニース会議 Le phénomène Lacanien, conférence du 30 novembre 1974)


ーー'équivoque'という語はとても訳しにくいので、原文のままにする。ここで重要なのは、フロイトのWitze (le mot d'esprit)とlangageを等置していることである、すなわち、"Witze est lalangue"。



◼️機知はモノ表象である

機知 Witze(言葉遊び Wortspielen)のひとつのグループにおいて、そのテクニックは、語の意味ではなく、語音 Wortklangへの心的態度の焦点化によって構成されている。(音声的)語表象 (akustische) Wortvorstellung 自体が、モノ表象 Dingvorstellungen との関係性を与えられることによって、意味作用 Bedeutung の代替となっているのである。


In einer Gruppe dieser Witze (den Wortspielen) bestand die Technik darin, unsere psychische Einstellung auf den Wortklang anstatt auf den Sinn des Wortes zu richten, die (akustische) Wortvorstellung selbst an Stelle ihrer durch Relationen zu den Dingvorstellungen gegebenen Bedeutung treten zu lassen. (フロイト『機知』1905年)




◼️ララング≒サントーム

サントームは言語ではなくララングによって条件づけられる。le sinthome est conditionné non par le langage mais par lalangue (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 décembre 2008)

ララングはシニフィアンである、言語の構造から逃れ去るシニフィアンである。

lalangue qui est le signifiant, dépouillé de la structure de langage (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 juin 2009)


サントームは、母の言葉に起源がある。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである(あるいは母の代理人の享楽に)。 le sinthome est enraciné dans la langue maternelle. L'enfant qui apprend à parler reste marqué à vie à la fois par les mots et la jouissance de sa mère (ou de son substitut).(Geneviève Morel,  Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome, 2005)

ララングが、母の言葉と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。lalangue… est justifié de la dire maternelle car elle est toujours liée au corps à corps des premiers soins(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

ララングは象徴界的なものではなく、現実界的なものである。現実界的というのはララングはシニフィアンの連鎖外[hors chaîne] のものであり、したがって意味外[hors-sens]にあるものだから(シニフィアンは、連鎖外にあるとき現実界的なものになる)。そしてララングは謎のようにして享楽と混淆している。Lalangue, ça n'est pas du Symbolique, c'est du Réel. Du Réel parce qu'elle est faite de uns, hors chaîne et donc hors sens (le signifiant devient réel quand il est hors chaîne), mais de uns qui, en outre, sont en coalescence énigmatique avec de la jouissance. (コレット・ソレール Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009)


◼️ララングというモノとしての言葉

ラカンは言語の二重の価値を語っている。実体のない意味媒体と言葉のモノ性の二つである。Lacan fait référence à la double valence du langage, à la fois véhicule du sens qui est incorporel et de la matérialité des mots (ピエール=ジル・ゲガーンPierre-Gilles Guéguen, Parler lalangue du corps,  2016)

ラカンによれば、ララングは一つの言葉であり、"lallation 喃語"と同音的である。“Lallation” はラテン語の lallare から来ており、辞書が示しているのは、“la, la”と歌うことにより、幼児を寝かしつけることである。この語はまた幼児の「むにゃむにゃ語」をも示している。まだ話せないが、すでに音声を発することである。「Lallation 喃語」は、意味から分離された音声であるが、我々が知っているように、幼児の満足状態からは分離されていない。

Lalangue écrite en un mot, assonante avec la lallation selon Lacan. « Lallation » vient du lallare latin qui désigne le fait de chanter « la, la », disent les dictionnaires, pour endormir les enfants. Le terme désigne aussi le babillage de l'enfant qui ne parle pas encore, mais qui produit déjà des sons. La lallation, c'est le son disjoint du sens, mais cependant, comme on sait, pas disjoint de l'état de contentement de l'enfant. (Colette Soler, L'inconscient Réinventé, 2009)


◼️中井久夫のララング論(詩の基底にあるもの)

言語リズムの感覚はごく初期に始まり、母胎の中で母親の言語リズムを会得してから人間は生れてくる。喃語はそれが洗練されてゆく過程である。さらに「もの」としての発語を楽しむ時期がくる。精神分析は最初の自己生産物として糞便を強調するが、「もの」としての言葉はそれに先んじる貴重な生産物である。成人型の記述的言語はこの巣の中からゆるやかに生れてくるが、最初は「もの」としての挨拶や自己防衛の道具であり、意味の共通性はそこから徐々に分化する。もっとも、成人型の伝達中心の言語はそれ自体は詰まらない平凡なものである。(中井久夫「「詩の基底にあるもの」―――その生理心理的基底」初出1994年『家族の深淵』所収)





◼️詩の起源としてのララング(穴の境界表象[S(Ⱥ) ])

詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である。la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou.  (Lacan, S24, 17 Mai 1977)

詩の言葉は、分析主体の言葉と同様に、言語の意味を与える効果と、ララングという意味外の享楽の効果を結びつなぐ。それはラカンがサントームと呼んだものと相同的である。


Le dire du poème, donc, tout aussi bien que le dire de l'analysant, noue, fait tenir ensemble les effets de sens du langage et des effets de jouissance hors sens de lalangue. Il est homologue à ce que Lacan nomme sinthome. (コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011)

モノとしての享楽の価値は、穴と等価である。La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré [Ⱥ] (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される。c'est sigma, le sigma du sinthome, […] que écrire grand S de grand A barré comme sigma (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)





ーーJȺ とはS(Ⱥ) の享楽(サントームの享楽=固着を通した身体の反復強迫)であり、このポジションが(上に示したように)ララングもしくはモノ表象である。



◼️仮象としての言語の起源にあるララング

私が「メタランゲージはない」と言ったとき、「言語は存在しない」(仮象)と言うためである。《ララング lalangue》と呼ばれる言語の多種多様な支えがあるだけである。


il n'y a pas de métalangage, c'est pour dire que le langage, ça n'existe pas. Il n'y a que des supports multiples du langage qui s'appellent « lalangue » (ラカン、S25, 15 Novembre 1977)


◼️ニーチェにおけるララング論

言葉と音調 Worte und Töne があるということは、なんとよいことだろう。言葉と音調とは、永遠に隔てられているもののあいだの虹、仮象の橋ではなかろうか。


Wie lieblich ist es, dass Worte und Töne da sind: sind nicht Worte und Töne Regenbogen und Schein-Brücken zwischen Ewig-Geschiedenem?  〔・・・〕


モノに名と音調が贈られるのは、人間がそれらのモノから喜びを汲み取ろうとするためではないか。音調を発してことばを語るということは、美しい狂宴である。それをしながら人間はいっさいのモノの上を舞って行くのだ。 


Sind nicht den Dingen Namen und Töne geschenkt, dass der Mensch sich an den Dingen erquicke? Es ist eine schöne Narrethei, das Sprechen: damit tanzt der Mensch über alle Dinge.  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「快癒しつつある者 Der Genesende」1885年)

おお、このギリシア人たち! ギリシア人たちは、生きるすべをよくわきまえていた。生きるためには、思いきって表面に、皺に、皮膚に[der Oberfläche, der Falte, der Haut]、踏みとどまることが必要だった。仮象 Schein を崇めること、ものの形や音調や言葉を [an Formen, an Töne, an Worte]、仮象のオリュンポス全山を信ずることが、必要だったのだ! このギリシア人たちは表面的であった、深みからして[oberflächlich ― aus Tiefe!]。 そして、わたしたちはまさにその地点へと立ち返るのではないか、--わたしたち精神の命知らず者、わたしたち現在の思想の最高かつ最危険の絶頂に攀じのぼってそこから四方を展望した者、そこから下方を見下ろした者は? まさにこの点でわたしたちはーーギリシア人ではないのか? モノの形の、音調の、言葉の崇め人ではないのか? まさにこのゆえにーー芸術家なのではないか。[Anbeter der Formen, der Töne, der Worte? Eben darum ― Künstler?](ニーチェ『悦ばしき知』序文4番ーー1887年版追加)



◼️ブラックホールの境界表象としてのララング

リトルネロとしてのララング lalangue comme ritournelle (Lacan、S21, 08 Janvier 1974)

リロルネロ ritournelle は三つの相をもち、それを同時に示すこともあれば、混淆することもある。さまざまな場合が考えられる(時に、時に、時に tantôt, tantôt, tantô)。時に、カオスchaosが巨大なブラックホール trou noir となり、人はカオスの内側に中心となるもろい一点を設けようとする。時に、一つの点のまわりに静かで安定した「外観 allure」を作り上げる(形態 formeではなく)。こうして、ブラックホールはわが家に変化する。時に、この外観に逃げ道échappéeを接ぎ木greffe して、ブラックホールの外 hors du trou noir にでる。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』1980年)


S (Ⱥ)とは真に、欲動のクッションの綴じ目である。S DE GRAND A BARRE, qui est vraiment le point de capiton des pulsions(Miller, L'Être et l'Un, 06/04/2011)

欲動は、心的なものと身体的なものとの「境界概念」である。der »Trieb« als ein Grenzbegriff zwischen Seelischem und Somatischem(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)

(原)抑圧は、過度に強い対立表象の構築によってではなく、境界表象 [Grenzvorstellung ]の強化によって起こる。Die Verdrängung geschieht nicht durch Bildung einer überstarken Gegenvorstellung, sondern durch Verstärkung einer Grenzvorstellung (Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)



ーーこの境界表象[Grenzvorstellung ]が、リアルな症状としての固着=サントーム≒ララングである。





フロイトは固着ーーリビドーの固着、欲動の固着ーーを抑圧の根として位置づけている。Freud situait la fixation, la fixation de libido, la fixation de la pulsion comme racine du refoulement. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

分析経験の基盤は、まさにフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである。

 fondée dans l'expérience analytique, […] précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である。l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,(コレット・ソレールColette Soler, Avènements du réel, 2017年)


症状は刻印である。現実界の水準における刻印である。Le symptôme est l'inscription, au niveau du réel. (Lacan, LE PHÉNOMÈNE LACANIEN,  30. Nov.1974)

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

症状は固着である。Le symptôme, c'est la fixation (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008)


サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps(MILLER, L'Être et l'Un, 30/3/2011)

サントームは言語ではなくララングによって条件づけられる。le sinthome est conditionné non par le langage mais par lalangue (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 décembre 2008)

身体の上へのララングとその享楽の効果との純粋遭遇 une pure rencontre avec lalangue et ses effets de jouissance sur le corps(J.-A. MILLER,  Le réel au XXIe siècle, 28 mai 2012)




…………



最晩年のラカンは、結局、詩人的能力がなければララングを読み取れず、充分な精神分析家になり得ないと言っているのである。


私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème.(Lacan, AE572, 17 mai 1976)

ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. (Lacan, S24. 17 Mai 1977)



なぜ中井久夫がララング論を展開したのか。


疑いようもなく中井久夫は日本で最も詩人的能力をもった精神分析家だろう、少なくとも名がよく知られている分析家のなかでは。おそらく真によい分析家ーー患者に寄り添った分析家ーーであろうとしたらララングに至るのである。


上にひとつだけ引用したがもういくらか掲げておこう。



少し前からわかっているように、人間は、胎児の時に母語--文字どおり母の言葉である--の抑揚、間、拍子などを羊水をとおして刻印され、生後はその流れを喃語(赤ちゃんの語るむにゃむにゃ言葉である)というひとり遊びの中で音声にして発声器官を動かし、口腔と口唇の感覚に馴れてゆく。一歳までにだいたい母語の音素は赤ちゃんのものになる。大人と交わす幼児語は赤ちゃんの言語生活のごく一部なのである。赤ちゃんは大人の会話を聴いて物の名を溜めてゆく。「名を与える」ということのほうが大事である。単に物の名を覚えるだけではない。赤ちゃんはわれわれが思うよりもずっと大人の話を理解している。なるほど大人同士の理解とは違うかもしれない。もっと危機感や喜悦感の振幅が大きく、外延的な事情は省略されるか誤解されているだろう。その過程で、母語としておかしな感じを示すかすかな兆候を察知するアンテナが敏感になってゆく。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)


言語発達は、胎児期に母語の拍子、音調、間合いを学び取ることにはじまり、胎児期に学び取ったものを生後一年の間に喃語によって学習することによって発声関連筋肉および粘膜感覚を母語の音素と関連づける。要するに、満一歳までにおおよその音素の習得は終わっており、単語の記憶も始まっている。単語の記憶というものがf記憶的(フラシュバック記憶的)なのであろう。そして一歳以後に言語使用が始まる。しかし、言語と記憶映像の結び付きは成人型ではない。(中井久夫「記憶について」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)


人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性 adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。


それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。


いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。


この戦慄は、訳者の戦慄と同じでなくてもよい。むしろ多少の違和感があることこそあなたの中にそういう戦慄を蘇えらせる契機となる。実際、訳詩家は翻訳によって初めて原詩の戦慄を翻訳に着手する以前よりも遥かに深く味わうものである。そうでなければ、経済的に報われることが散文翻訳に比してもさらに少ない詩の翻訳を誰が手掛けるだろうか。


翻訳以前の原詩は、いかに精密であり美しくてもアルプスの地図に過ぎない。翻訳は登頂である。ただに頂上を極めることだけではなく、それが極められなくとも、道々の風景を実際に体験する。翻訳を読むことは、あなたが原文を味到することが十分できる方〔かた〕であって、その翻訳にあきたりないところがあっても、登頂の疑似体験にはなる。愛するすべての外国語詩を原語で読むことは誰にもできない相談であるから、訳詩を読むことは、その言語に生まれついていない人には必ず独立の価値があって、それをとおして、原詩を味わうのに貢献すると私は思う。


また、こういう場合もある。晩年のゲーテは『ファウスト』を決してドイツ語では読まなかった。読んだのはもっぱらネルヴァルのフランス散文詩訳である。おそらく、おのれの書いた原文の迫るなまなましさから距離を置きたくもあり、翻訳による快い違和感を面白がりもしていたのであろう。(中井久夫「訳詩の生理学」1996年初出『アリアドネからの糸』所収)


ーーより長くは「おれの心はムクロ。埋葬ずみの死骸さ」を見よ。


……………



最終的に、精神分析は主体のララングを基盤にしている[Enfin, une psychanalyse repose sur lalangue du sujet]。ミレールは厳しくララングと言語を区別した。主体の享楽の審級にあるのは言語ではなくララングだと[ce n'est pas le langage qui met en ordre la jouissance du sujet, mais lalangue]。たとえばミシェル・レリスの « …reusement »である。ミレールはこのレリスの事例を何度も注釈している。これを通して、精神分析は言語の物質性[motérialité]を見出だす。ある言葉との出会いの偶然性があるとき、《1の身体の孤独において享楽を引き出す[retirent la jouissance dans la solitude du Un-corps]》。そして知の外部の場に位置付けられたその場を《人は何も知らない[où on n'en sait rien] 》(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen 「一般化フェティシズムの時代の精神分析 PSYCHANALYSE AU SIÈCLE DU FÉTICHISME GÉNÉRALISÉ 」2010年)