このブログを検索

2021年2月2日火曜日

超越論的主観「私」

 影と反映の形象」で記したようにーーあるいは「綿串ボク蚊居肢子」でも記したようにーー、ボクがボクという一人称代名詞を使うときは自覚的に、自我は《影と反映の形象 figure que d'ombres et de reflets.》(Lacan, E 11, 1956)の自我だよ。この文だってそうさ。


蚊居肢子

ここにあるいっさいは、小説の登場人物によって語られているものと見なされるべきである。Tout ceci doit être considéré comme dit par un personnage de roman (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

ボク

「私」は自我ではあり得ない。« je » peut n'être pas moi


「私」は想像界を発動する。« je » mobilise l'imaginaire, (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

私が自我について語っていけない理由はないではないか、自我がもはや自身でないのだから。pourquoi ne parlerais-je pas de «moi». puisque «moi» n'est plus «soi»? (『彼自身によるロラン・バルト』1975年)

綿串

作家はいつもシステムの盲点(システムの見えない染み la tache aveugle des systèmes )にあって、漂流 dérive している。それはジョーカー joker であり、マナ manaであり、ゼロ度 degré zéroであり、ブリッジのダミー le mort du bridge である。 (ロラン・バルト『テクストの快楽』1973年)




綿串、つまり「わたくし」はバルトの言っている意味と同時に穴ってことだ。


現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)


で、もうやめたんだ、「わたくし」は。穴が話すはずないからな。穴ってのは吸い込む方だよ。で、「私」にしたんだ。これはカントの超越論的主観(超越論的主体)だよ。



超越論的主観=X [das transzendentale Subjekt =x]

思惟するこの自我、あるいは彼、あるいはそれ(物)によって表象されるのは、もろもろの思考の超越論的主観=X [das transzendentale Subjekt =x] に他ならない。この超越論的主観は自らの述語である思考によってのみ認識される。またこの超越論的主観については単独には我々は決していささかの概念も持ち得ない。だから、我々はこの主観をめぐって絶えざる循環のうちをさ迷わねばならい。というのも、この超越論的主観について何かあることを判断するためには、我々はつねにすでにこの超越論的主観の表象を用いなければならないからである。これが、自我の表象から分かちえない不都合さである。(カント『純粋理性批判』)


カントは〔・・・〕、自己は仮象であるが、超越論的統覚Xがあるといった。このXを何らかの実体にしてしまうのが、形而上学である。とはいえ、われわれは、そのようなXを経験的な実体としてとらえようとする欲動から逃れることはできない。したがって、自己とは、たんなる仮象ではなく、超越論的な仮象である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年、P24)

デカルトは、「思う」をあらゆる行為の基底に見出す。《それでは私は何であるのか。思惟するものである。思惟するものとは何か。むろん、疑い、理解し、肯定し、否定し、欲し、欲しない、また想像し、そして感覚するものである》(『省察』)。このような思考主体は、カントによれば、「思考作用の超越論的主観すなわち統覚X」である。私はこのような言い方を好まないが、カントのいう「超越論的主観X」とは、いわば「超越論的主観〔「主観」に×印を上書きする〕」である。それはけっして表象されない統覚であって、それが「在る」というデカルトの考えは誤謬である。しかし、デカルトのコギトには、「私は疑う」と「私は思う」という両義性がつきまとっており、しかもそれらは超越論的自我について語るかぎり避け難いものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』P132)

アソシエーションは〔・・・〕、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(柄谷行人『トランスクリティーク』P283)



ようするに、「私」はボクと蚊居肢子と綿串のアソシエーションだからな、これで行くことに決めたんだ。




だから君たちの使う「私」とはわけが違うんだな、きみの「私」ってのは、ボクの「ボク」に相当するよ、明らかにね。一緒にしないで欲しいね。


で、エリオットがこう言うときも、実際は綿串じゃなくて超越論論的主観だよ、たぶんね。


俺たちのなかみはからっぽ

俺たちのなかみはつめもの

俺たちはよりそうが

頭のなかは藁のくず、ああ!

We are the hollow men

We are the stuffed men

Leaning together

Headpiece filled with straw. Alas!

(エリオット「うつろな人間 the hollow men」)