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2021年2月9日火曜日

写真師という異者(プルースト)


なんだい、ひどいパロール享楽だな


パロールは寄生虫。パロールはうわべ飾り。パロールは人間を悩ます癌の形式である。La parole est un parasite. La parole est un placage. La parole est la forme de cancer dont l'être humain est affligé.Lacan, S23, 17 Février 1976


写真師になっちまった気分だよ。


……………


昇華と残滓」で記したことを前提に次のプルーストを読んでみよう。ここには愛にも父の名(=言語)にも目を曇らされない「写真師という異者」の記述がある。

◼️写真師という異者

ああ、私の帰ったことを知らされずに本を読んでいる祖母を私がサロンにはいって見出したとき、私の目に映ったのは、そのような幻影[fantôme]であった。私はそこにいた、というよりもまだそこにいなかった[J'étais là, ou plutôt je n'étais pas encore là]、 というべきであった。なぜなら祖母は私がそこにいることを知らずに、物思いにふけっていたからであって、そんな姿を私のまえで見せたことはいままでになく、まるで彼女は、人がはいってくればかくしてしまうような編物か何かをしているところをふいに見つけられた女のようであった。


私はといえばーー長くはつづかない特権、旅から帰った短い瞬間に自分自身の不在 [notre propre absence]を突然まのあたりに見る能力をさずかるあの特権によってーー帽子をかぶり、旅行用のコートを着た、証人で目撃者、この家の者ではない外来の客、二度と見られない場所をフィルムにとりにきた写真師、といった要素しか残していない人間のようであった[l'étranger qui n'est pas de la maison, le photographe qui vient prendre un cliché des lieux qu'on ne reverra plus]。


私が祖母の姿を認めたこのときに、私の目のなかに機械的に写されたのは、なるほど一枚の写真であった[ce moment dans mes yeux quand j'aperçus ma grand'mère, ce fut bien une photographie]。


われわれがいとしい人々を見るのは、生きて動いている組織のなか、われわれのやむことのない愛情の永久の運動のなかにおいてでしかないのであって、愛情は、いとしい人々の顔がわれわれにさしむける映像をわれわれにとどかせるまえに、それをおのれの渦巻のなかにとらえ、そうした映像をいとしい人々についてわれわれがつねに抱きつづけている観念の上に投じ、その観念に密着させ、その観念に一致させるのだ。Nous ne voyons jamais les êtres chéris que dans le système animé, le mouvement perpétuel de notre incessante tendresse, laquelle, avant de laisser les images que nous présente leur visage arriver jusqu'à nous, les prend dans son tourbillon, les rejette sur l'idée que nous nous faisons d'eux depuis toujours, les fait adhérer à elle, coïncider avec elle. 〔・・・〕


しかし、われわれの目がながめたのではなくて、単なる物質的な対物レンズとか写真の乾板とかがながめたのであったら、たとえば学士院の構内に見られるものにしても、それは辻馬車を呼ぼうとしている一人のアカデミー会員の退出の姿ではなくて、あたかもその人が酔っているか地面が凍ったぬかるみに被われているかのように、その人のよろめく足どり、うしろ向きに倒れないための用心、転倒の放物線であるだろう。おなじことは次の場合にも言いうる、すなわち、われわれの視線から、それがながめるべきではないものをかくすために、われわれの理知と敬虔とから出た愛情がうまく駆けつけようとするときに、偶然の残酷なたくらみがそれをさまたげてしまう、つまり愛情が視線に先手を打たれてしまう場合であって、視線が真先に即座にやってきて、機械的に感光板の作用をはたしてしまうのである、そんな場合、ずいぶんまえからもういなくなった愛するひと、しかし愛情がその死をけっしてわれわれにあらわに感じさせることを欲しなかったひと、そのようなひとの代わりに、視線がわれわれに見せつけるのは、新しいひと、日に百度も愛情がいつわりの親しげな類似の相貌をとらせる新しいひとなのである。〔・・・〕


私は、祖母すなわち私自身という関係をまだ断ちきっていなかった私は、祖母を私の魂のなかにしか、つねに過去のおなじ場所にしか、そして隣りあいかさなりあう透明な思出を通してしか、けっして見たことのなかったこの私は、突然、私の家のサロンのなかに、新しい一つの世界、時間の世界、「ひどく年をとったなあ」と人からささやかれる見知らぬ人たちが住んでいる世界、そんな世界の一部分となった私の家のサロンのなかに、はじめて、ほんの一瞬のあいだ(というのはそういう祖母はすぐにぱっと消えてしまったからだが)、ランプの下の、長椅子の上に、赤い顔をして、鈍重で俗っぽくて、病んで、夢にふけって、頭がすこしぼけたような目を本の上にさまよわせている、私の知らないうちひしがれた一人の老婆 [une vieille femme accablée que je ne connaissais pas ]の姿を認めたのであった。(プルースト「ゲルマントのほうへ Ⅰ」 井上究一郎訳)



………………


確認の意味で再掲しておこう。


◼️穴と穴埋め(享楽と剰余享楽)

ラカンは享楽と剰余享楽とのあいだを区別をした。これは、穴としての享楽[la jouissance  comme trou]と、穴埋めとしての剰余享楽  [le plus-de-jouir comme bouchon] である。(J.-A. Miller, Extimité, 16 avril 1986、摘要)


◼️父の名の穴埋めと愛の穴埋め

享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される。[la nécessité du plus-de-jouir pour que la machine tourne, la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](ラカン, Radiophonie, AE434, 1970

父の名という穴埋め bouchon qu'est un Nom du Père  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

愛は穴を穴埋めする。l'amour bouche le trou.(Lacan, S21, 18 Décembre 1973)



そして父の名は言語、愛も文化的な言語の領域にある。


◼️父の名=言語、愛=文化

父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。Il y a La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ;   (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)

文化がなかったら愛の問題はないだろう。Qu'il ne serait pas question d'amour s'il n'y avait pas la culture。 (Lacan, S10, 13 Mars 1963)





この言語に飼い馴らされない残滓が異者(異者としての身体Fremdkörper)である。


◼️残滓:異者 (а)  [Reste : L'étranger (а)  ]

享楽は、残滓 (а)  による。la jouissance…par ce reste : (а)  (ラカン, S10, 13 Mars 1963)

異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

異者としての身体…問題となっている対象aは、まったき異者である。corps étranger,[…] le (a) dont il s'agit,[…] absolument étranger (Lacan, S10, 30 Janvier 1963)



現実界のなかの異物概念(異者概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)






異者とは自閉症的ーーつまり他者との関係から分離した身体的なものと捉えることができる。


身体の享楽は自閉的である。愛と幻想のおかげで、我々はパートナーと関係を持つ。だが結局、享楽は自閉的である。The jouissance of the body is autistic: thanks to love and to the fantasy we can have relationships with partners – but in the end jouissance is autistic.(Report on the ICLO-NLS Seminar with Pierre-Gilles Guéguen, 2013)



過剰解釈の謗りを受けるかも知れないことを敢えて引き受けて言えば、プルーストの記述における「写真師という異者」はこの自閉症的身体だと読める。おそらく偶然の機会に、似たような写真師になる経験を持ったことがある人がそれなりにいる筈である。



享楽の核は自閉症的である。Le noyau de la jouissance est autiste   (Françoise Josselin『享楽の自閉症 L'autisme de la jouissance』2011)

自閉症的享楽としての自己身体の享楽 jouissance du corps propre, comme jouissance autiste. (J.-A. MILLER, LE LIEU ET LE LIEN , 2 mai 2001)

自己身体の享楽はあなたの身体を異者にする。あなたの身体を大他者にする。ここには異者性の様相がある。[la jouissance du corps propre vous rende ce corps étranger, c'est-à-dire que le corps qui est le vôtre vous devienne Autre ](Jacques-Alain Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)



ラカン派では、この自閉症的身体をサントームの身体とも呼ぶ。


サントームの身体・肉の身体・実存的身体は、常に自閉症的享楽に帰着する。

Le corps du sinthome, le corps de chair, le corps existentiel, renvoie toujours à une jouissance autiste (Pierre-Gilles Guéguen, La Consistance et les deux corps, 2016)



このサントームはフロイトの固着である(参照:「一者がある Y'a d'l'Un」)