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2021年2月9日火曜日

カトリシズムによる錯覚

 


カトリシズムは(人間の生における)強調点を欲動から欲望へ移行させた。Catholicism shifted the emphasis from drives to desires. 〔・・・〕


父の名を設置したのは教会だった。It was the Church that established the Name-of-the-Father. (Paul Verhaeghe, THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998年)


父の名による欲動から欲望へ、とはどういうことか。


父の名とは純粋な形式的観点からは、言語の法である。


欲望は欲望の欲望、大他者の欲望である。欲望は法に従属している Le désir est désir de désir, désir de l'Autre, avons-nous dit, soit soumis à la Loi (ラカン、E852、1964年)

父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)


人に言語の法を課すことにより、欲動という内的な駆り立てる力を、外部から言語の法によって禁止し、その法の侵犯をすれば欲動の満足=享楽があると錯覚を与えるシステムが、父の名の法である。


享楽の侵犯 la jouissance de la transgression(ラカン, S7,  30  Mars  1960)


享楽とはリアルな愛である。例えば、フロイトの愛の喪失[Liebesverlust]とは、ラカンの享楽の喪失[la déperdition de jouissance]と等価である(参照)。




繰り返せば、このリアルな愛を言語の法を侵犯すれば獲得できるーーこの錯覚を与えるシステムが父の名の法である。西洋の「愛の歴史」は何よりもまずここにある。


だが本来、愛は不可能である。なぜならリアルな愛とは死だから。


愛は不可能である。[l'amour soit impossible] (ラカン、S20、13 Mars 1973)

死は愛である [la mort, c'est l'amour.] (Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)


ーーこのあたりの詳細は、ラカンの「ラメラ神話」を参照されたし。


さて侵犯の話にもう一度戻ろう。上に示したようにセミネール7(1960年)の段階では、ラカンは「享楽の侵犯」と言った。だが10年後、転回がある。


人は侵犯などしない!on ne transgresse rien ! …


享楽、それは侵犯ではない。むしろはるかに侵入である。Ce n'est pas ici transgression, mais bien plutôt irruption(ラカン、S17, 26 Novembre 1969)


リアルな愛の「不可能な」要求は内部から来る。けっして言語の法の侵犯の彼岸にあるのではない。


これは既にフロイトの『シュレーバー症例』(1911年)にその記述がある。


侵入[Durchbruchs]…この侵入とは固着点[Stelle der Fixierung]から始まる。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年、摘要)


この固着点から内的に侵入する駆り立てる力が享楽である。


享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

享楽はまさに固着にある。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)



後に用語的には移行があるが(参照:「一者がある Y'a d'l'Un」)、ラカンはセミネール17の段階では、固着点をフロイトの「唯一の徴」とした。


唯一の徴は、享楽の侵入を記念する徴である。trait unaire…d'un trait en tant qu'il commémore une irruption de la jouissance. (Lacan,S17、11 Février 1970)

唯一の徴 [trait unaire(einziger Zug)]、すなわち徴の最も単純な形態、シニフィアンの起源[ l'origine du signifiant]ある。分析家を関心づけるすべては、唯一の徴にある。(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)



…………


こういった思考は、キリスト教以前のギリシア文化を研究したニーチェに既にある。


欲動〔・・・〕、それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。Triebe […] "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"(ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)

私は、ギリシャ人たちの最も強い本能 、力への意志を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力」に戦慄するのを見てとった。ーー私は彼らのあらゆる制度が、彼らの内部にある爆発物に対して互いに身の安全を護るための保護手段から生じたものであることを見てとった。Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs - ich sah alle ihre Institutionen wachsen aus Schutzmaßregeln, um sich voreinander gegen ihren inwendigen Explosivstoff sicher zu stellen.(ニーチェ「私が古人に負うところのもの Was ich den Alten verdanke」1888年)


欲動という内部にある爆発物に対して防衛すること、ニーチェが掴んだギリシャ文化の主要点のひとつはこれである。


同じく「真のギリシャ人」フーコーも同様の思考をした。


epimeleia heautou(自己への配慮を意味するギリシャ語)、cura sui(自己への配慮を意味するラテン語)は、多くの哲学教義のなかにくり返し見出される一つの命令である。(ミシェル・フーコー Michel Foucault『性の歴史 Histoire de la sexualité』第3巻 『自己への配慮 souci de soi』「自己の陶冶 culture de soi」の章)

「克己(エンクラティア enkrateia)」はむしろ、抵抗することあるいは争うことを可能ならしめ、また欲望と快楽の領域において自己の支配 sa domination を確保することを可能ならしめるところ、自己統御 maîtrise de soi のひとつの積極的な形式によって特徴づけられる。(フーコー『性の歴史』第2巻『快楽の活用 L'usage des plaisirs』「克己 Enkrateia」の章)

統御の訓練によって、また快楽の実践における慎ましさによって到達したいとされる状態である「節制(ソフロシューネ sophrosyne)」は、一つの自由状態として特徴づけられる。(フーコー『快楽の活用 L'usage des plaisirs』「自由と真理 Liberté et vérité」の章)




内的な「死の欲動=愛の欲動」(参照)のなすがままにならずに克己節制して「自由」を獲得しようとすること。これが「ギリシャ人フーコー」のエンクラティアでありソフロシューネである。それが成功したか否かは別にして、ここにキリスト教文化というイデオロギーに埋没したままの凡庸な作家たちとの間に大きな相違がある。




「侵犯/侵入」観点からはドゥルーズ &ガタリの1972年の仕事にも問題がある。


パラノイアのセクター化に対し、分裂病の断片化を対立しうる。私は言おう、ドゥルーズ とガタリの書(「アンチオイディプス」)における最も説得力のある部分は、パラノイアの領土化と分裂病の根源的脱領土化を対比させたことだ。ドゥルーズ とガタリがなした唯一の欠陥は、それを文学化し、分裂病的断片化は自由の世界だと想像したことである。

A cette sectorisation paranoïaque, on peut opposer le morcellement schizophrénique. Je dirai que c'est la partie la plus convaincante du livre de Deleuze et Guattari que d'opposer ainsi la territorialisation paranoïaque à la foncière déterritorialisation schizophrénique. Le seul tort qu'ils ont, c'est d'en faire de la littérature et de s'imaginer que le morcellement schizophrénique soit le monde de la liberté.    (J.-A. Miller, LA CLINIQUE LACANIENNE, 28 AVRIL 1982)


ジジェクはドゥルーズ たちの「アンチオイディプスの彼岸に自由があるという錯誤」に焦点を絞ってこう言った。


アンチオイディプスは、ドゥルーズ の最悪の書である Anti-Oedipus [is] Deleuze's worst book(ジジェク『身体なき器官』2004年)


ようするにエディプスの失墜においてこそ、前エディプス的原超自我が露出し、内的欲動の力が顕著に侵入するようになるのである。


エディプスの失墜において…超自我は言う、「享楽せよ!」と。au déclin de l'Œdipe …ce que dit le surmoi, c'est : « Jouis ! » (ラカン, S18, 16 Juin 1971)


これが父なき現代の姿であり、それに対する防衛のために是非ともエンクラティア・ソフロシューネの機能が探し求められなければならない。


ドゥルーズ の致命的な問題は自我理想(父の名)と超自我を区別し得なかったことである(参照)。




……………

以上、単純化して書き過ぎたかも知れないが、私がキリスト教文化の作家たちに違和を抱き続けている理由はここにある。

さらに上とはやや異なった相からの違和もある。

彼女は反ユダヤ主義者ではない、ちがうさ、いやはや、でもやっぱり聖書によって踏みつぶされたのが何かを見出すべきだろう …別のこと… 背後にある …もうひとつの真実を…


「それなら、母性崇拝よ」、デボラが言う、「明らかだわ! 聖書がずっと戦っているのはまさにこれよ …」


「そうよ、それに何という野蛮さなの!」、エドウィージュが言う。「とにかくそういったことをすべて明るみに出さなくちゃならないわ …」(ソレルス『女たち』1983年)


ーーここでのデボラは、ラカン の若い友人だったソレルスのパートナー、クリスティヴァがモデルである。


この「デボラ」の発言自体、フロイトのエディプスの父批判ーーつまり父の名批判ーーの文脈のなかにある。


実にひどく奇妙だ、フロイトが指摘しているのを見るのは。要するに父が最初の同一化の場を占め[le père s'avère être celui qui préside à la toute première identification]、愛に値する者[celui qui mérite l'amour]だとしたことは。


これは確かにとても奇妙である。矛盾しているのだ、分析経験のすべての展開は、母子関係の第一の設置にあるという事実と[tout ce que le développement de l'expérience analytique …établir de la primauté du rapport de l'enfant à la mère.  ]…


父を愛に値する者とすることは、ヒステリー者の父との関係[la relation au père, de l'hystérique]における機能を特徴づける。我々はまさにこれを理想化された父[le père idéalisé]として示す。(Lacan, S17, February 18, 1970)


名高いエディプスコンプレクスは全く使いものにならない fameux complexe d'Œdipe[…] C'est strictement inutilisable ! (Lacan, S17, 18 Février 1970)

エディプスコンプレクスの分析は、フロイトの夢に過ぎない。c'est de l'analyse du « complexe d'Œdipe » comme étant  un rêve de FREUD.  ( Lacan, S17, 11 Mars 1970)


こうしてラカンは《父の名を終焉させた le Nom-du-Père, c'est pour y mettre fin. 》(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas 、20/11/96)のである(参照)。