まず大カトー、すなわちマルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス Marcus Porcius Cato Censoriu (紀元前234年 - 紀元前149年)の「予言」を掲げる。 |
諸君、我々一人一人が各家庭で夫の権威と権利を守り抜いていたら、こんなことにはならなかったはずですぞ。今や事態はここまで来た。女がのさばり、家庭でのわれわれの行動の自由を粉砕しただけではあきたらず、広場におけるわれわれの自由をさえ粉砕にかかっているのではないか。法が男性の権利を保証している間でさえ、女たちをおとなしくさせ、勝手なことをさせないために、どんなに苦労してきたか、よくお分りと思う。もし女どもが法的にも男と同等の立場に立つならいったいどうなることか、よくよくお考えあれ。女というものをよく御存知の諸君、かりに連中がわれわれと同等の地位に立つとすれば、きっとわれわれを支配するようになりましょうぞ。どこの世界でも男たちが女を支配しておる。ところが世界の男たちを支配する男たち、つまりわれわれローマ人がだ、女たちに支配されることになるのですぞ。(大カトーの演説――ティトゥス・リウィウス「ローマ建国史」) |
ーー限りなく面白い「ジャーナリスト」モンタネッリの『ローマの歴史』藤沢道郎訳からの孫引きである。 彼は上の文を引用した後、次のようなコメントを付している。 |
女性デモ隊はこの演説者に嘲笑を浴びせた。いつの世にも真実を語るものはこういう目に会うものだ。オッピウス法は廃された。 カトーは奢侈品に対する税を十倍に引き上げようと努力するがむだであった。ウーマンリブの活動家たちは、獲得したイニシアティヴを握りしめてはなさない。まず、持参金の管理権を獲得、女性の経済的独立と解放の巨歩を進める。ついで離婚の権利も手に入れ、子供という厄介者を避けるため、避妊術に多くたよるようになる。 このギリシア風の潮流に待ったをかけようとしたのがカトーである。こう言えば、口うるさい、気難しい、ごりごりの反動的道学者を想像するかも知れない。だが事実は反対なのだ。マルクス・ポルキウス・カトーは、リエーティ近在の農家の出で、はちきれそうなほど健康で陽気なおじさんである。多くの敵を作ってそれとの闘争を楽しみ、八十五歳の長寿をまっとうした。(モンタネッリ『ローマの歴史』) |
ところで森喜朗は83歳か。この2、3年の写真をみるかぎり顔色がよくないね。ま、それはこの際どうでもいいが、こんなのが落ちてたなーー実際にこう言ったのかどうかは確認してないが。 |
これだけみると多くの男が言いそうだな、かりに言わなくても心にひそかに抱いてるんじゃないか? 少なくとも時間を決めてチンとやらないとな。精神分析的にも、女性は男性に比べて「パロール享楽」が際立っているとの指摘があり、これは日常的観察においても紛いようがない。 調べてみたら正しい引用のようだ➡︎「森喜朗会長の3日の“女性蔑視”発言全文」 とはいえ現代ではホンネを言っちゃあダメなんだよな、、、ホンネ文化の日本でもさ |
柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。 むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。 浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕 日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年) |