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2021年3月10日水曜日

精神統一病文献


統合失調症は解体の危機をかけてでも一つの人格を守ろうとする悲壮なまでの努力です。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

「精神分裂病」〔・・・〕。精神科医の神田橋條治氏は,精神を無理にでも統一しようとして失調するのだから「精神統一病」と名づけるべきだと主張していたが、これは単なる逆説ではなく,「統合失調症」の思想を先取りしていた。(中井久夫「「統合失調症」についての個人的コメント」初出「精神看護」2002年3月号)


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外界とはもはや何の交流もない最も重度の分裂病者は、彼ら自身の世界に生きている。彼らは、叶えられたと思っている願望や迫害されているという苦悩を携えて繭の中に閉じこもるのである。彼らは可能なかぎり、外界から自らを切り離す。この「内なる生 」の相対的、絶対的優位を伴った現実からの遊離を、われわれは自閉症と呼ぶ。


Die schwersten Schizophrenien, die gar keinen Verkehr mehr pflegen, leben in einer Welt für sich; sie haben sich mit ihren Wünschen, die sie als erfüllt betrachten, oder mit den Leiden ihrer Verfolgung in sich selbst verpuppt und beschranken den Kontakt mit der Außenwelt so weit als möghch. Diese Loslösung von der Wirklichkeit zusammen mit dem relativen und absoluten Uberwiegen des Binnenlebens nennen wir Autismus.(オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)


註)自閉症はフロイトが自体性愛と呼ぶものとほとんど同じものである。Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt.


しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben.  (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群 Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien』1911年)


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ナルシシズム的精神神経症、つまり分裂病 [narzißtischen Psychoneurosen: der Schizophrenien](フロイト『欲動とその運命』1915年)

ナルシシズム的とは、ブロイラーならおそらく自閉症的と呼ぶだろう[narzißtischen ― Bleuler würde vielleicht sagen: autistischen] (フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)



ナルシシズムと呼ばれるものの深淵な真理[la vérité profonde de ce que nous appelons le narcissisme]。享楽自体は、自体性愛・自己身体のエロスに取り憑かれている[La jouissance comme telle est hantée par l'auto-érotisme, par l'érotique de soi-même]。そしてこの根源的な自体性愛的享楽[cette jouissance foncièrement auto-érotique]は、障害物によって徴づけられている。根底は、去勢と呼ばれるものが障害物の名である。この去勢が自己身体の享楽の徴である。[Au fond, ce qu'on appelle la castration, c'est le nom de l'obstacle qui marque la jouissance du corps propre. ](J.-A. Miller, Introduction à l'érotique du temps, 2004)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる。より正確に言えばーー私は今年、強調したいがーー、享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである。〔・・・〕ラカンはこの自体性愛的性質を、全き厳密さにおいて、欲動概念自体に拡張した。ラカンの定義においては、欲動は自体性愛的である。Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance, et plus précisément, comme je l'ai accentué cette année, par sa jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme. […] Lacan a étendu ce caractère auto-érotique  en tout rigueur à la  pulsion elle-même. Dans sa définition lacanienne, la pulsion est auto-érotique. (J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)



享楽は去勢である [la jouissance est la castration](Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

超自我を除いては、何ものも人を享楽へと強制しない。超自我は享楽の命令である、 「享楽せよ jouis!」と。Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi.  Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : jouis ! 〔・・・〕


「享楽せよ!」と命令する超自我は、去勢と相関関係がある。le surmoi, tel que je l'ai pointé tout à l'heure du « jouis ! », est corrélat de la castration  (Lacan, S20, 21 Novembre 1972 )



症状の享楽は自体性愛的である。この症状が超自我の核である。La jouissance du symptôme est auto-érotique. […]C'est ce nexus-là qu'on a appelé le surmoi. (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 MARS 1982)

症状は固着である。Le symptôme, c'est la fixation (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008)


➡︎固着=我々の存在の核[ Kern unseres Wesen]



超自我と原抑圧(=固着)との一致がある。il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.    . (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)

抑圧の第一相ーー原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe]ーーは、固着[Fixierung]である。(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する。Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. (フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

我々が、欲動において自己破壊 Selbstdestruktion を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動 Todestriebes の顕れと見なしうる。(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


ーー《私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから。j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde》(Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)


超自我は斜線を引かれた主体$と書きうる le surmoi peut s'écrire $ (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)

ラカンの主体はフロイトの自我分裂を基盤としている。Le sujet lacanien se fonde dans cette « Ichspaltung » freudienne.  (Christian Hoffmann Pas de clinique sans sujet, 2012)


欲動要求と現実の拒否のあいだに矛盾があり、この二つの相反する反応が自我分裂の核として存続する。Es ist also ein Konflikt zwischen dem Anspruch des Triebes und dem Einspruch der Realität. …Die beiden entgegengesetzten Reaktionen auf den Konflikt bleiben als Kern einer Ichspaltung bestehen. (フロイト『防衛過程における自我分裂』1939年)


自閉症は主体の故郷の地位にある。l'autisme était le statut natif du sujet (J.-A. MILLER, -Lacan- 07/03/2007)

享楽の核は自閉症的である。Le noyau de la jouissance est autiste   (Françoise Josselin『享楽の自閉症 L'autisme de la jouissance』2011)




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オイゲン・ブロイラーが生きていたら、「統合失調症」に賛成するだろう。彼の弟子がまとめたブロイラーの基本障害である四つのAすなわちAmbivalenz(両価性)は対立する概念の、一段階高いレベルにおける統合の失調であり、Assoziationslockerung(連合弛緩)は概念から概念への(主として論理的な)「わたり」を行うのに必要な統合の失調を、Affektstorung(感情障害)は要するに感情の統合の失調を、そして自閉(Autismus)は精神心理的地平を縮小することによって統合をとりもどそうと試みて少なくとも当面は不成功に終わっていることをそれぞれ含意しているからである。 

ブロイラーがこのように命名しなかったのは、よいギリシャ語を思いつかなかったという単純な理由もあるのかもしれない。「統合失調症」を試みにギリシャ語にもとずく術語に直せば、syntagmataxisiaかasyntagmatismusとなるであろう。dyssyntagmatismusのほうがよいかもしれない。「統合失調症」は「スキゾフレニア」の新訳であるということになっているが無理がある。back translation(逆翻訳)を行えばこうだと言い添えるほうが(一時は変なギリシャ語だとジョークの種になるかもしれないが)結局は日本術語の先進性を示すことになると思うが、どうであろうか。(中井久夫『関与と観察』2002年)


サリヴァンは「人間は意識と両立しないものを絶えずエネルギーを注いで排除しているが、排除するエネルギーがなくなると排除していたものがいっせいに意識の中に入ってくるのが急性統合失調症状態だ」と言っています。自我の統一を保つために排除している状態が彼の言う解離であり、これは生体の機能です。この生体の機能は免疫学における自己と非自己維持システムに非常に似ていて、1990年代に免疫学が見つけたことを先取りしています。解離されているものとは免疫学では非自己に相当します。これを排除して人格の単一性(ユニティ)を守ろうとするのです。統合失調症は解体の危機をかけてでも一つの人格を守ろうとする悲壮なまでの努力です。統合失調症はあくまで一つの人格であろうとします。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)






◼️「統合失調症」についての個人的コメント(中井久夫、2002年3月18日)

「精神分裂病」の名を改めることは以前から日本精神神経学会で決められていたが,「スキゾフレニア」「クレペリン・ブロイラー症候群」「統合失調症」の中から「統合失調症」が選ばれた。本年8月に横浜で開かれる世界精神医学会で公表して本決まりになるという。しばらくは過渡期で2つの用語が並べて書かれるだろうが,世代が新しくなるとともに新しい用語が浸透していくのが趨勢であろう。


選ばれたいきさつを詳しくは知らないが,患者・家族の希望が強かったと聞いている。一面大の新聞広告を打って広く社会に意見を求めたのもこれまでになかったことで,プロセスをまず評価したい。


なるほど「スキゾフレニア」は国際的な呼称に足並みを揃えるという点では他に抜きんでている。しかし,患者,家族,一般公衆には呪文のように感じられるであろう。それに,形容詞にするとどうなるか。「スキゾフレニア的」「スキゾフレニック」,いずれも冗長に過ぎないか。おそらく時間の経つうちに「スキゾ的」「S的」となっていくのではないか。それならば名称も最初から「スキゾ障害」とすればよいのではと思って提案してみたこともある(『最終講義』みすず書房,1998年)。もっとも,「スキゾ的」ということばは,フランスの哲学者がすでに少し違った意味に使っていて,勉強している精神科医は知っているから,それが妨げになるだろう。いずれも,公衆から遊離しているという批評は甘受せねばならなかったところだ。


「クレペリン・ブロイラー症候群」は,創見者の名をとったもので「ハンセン病」と同じ手法である。これは「ブロイラー」がカナ書きでは食用鶏と同じであるから困ると,患者・家族側からの他に食用鶏飼育業の協会から異論があったと聞いている。もう1つ,クレペリンの概念は狭く,ブロイラーの概念は広い。だからドイツの大学の回診ではMorbus Kraepelin(Morbusはラテン語で「病い」)とMorbus Bleulerということばを使って区別しているそうである(木村敏氏の教示による)。この場合も形容詞に困り,おそらく「KB病的」となっていくのではないか。


 「統合失調症」については,異論はいろいろありうるだろう。躁病もうつ病も統合の失調ではないか。神経症や人格障害はどうなんだ,というふうに。また,認知行動障害として精神障害をとらえる見方に偏りすぎていないかという考え方もあるだろう。

しかし,私はいま,全体として進歩であると評価する立場に立つ。


 いかにも,統合失調はこれまで「分裂病」と呼んできたものに限らない。しかし,では「不安」は「不安神経症」に限られたものであるか。「糖尿病」など,尿に糖が出るかどうかは第二義的なことではないか。しょせん病名とはそういうものと割り切るしかなく,あまりな見当はずれや社会的に差別偏見を助長するものを避ければよいのである。「精神分裂病」はSchizophreniaの「直訳」とはいえ,日本語にすると,多重人格と受けとられかねない。見当はずれと偏見助長の2つの罪は,やはりまぬがれなかったであろう。精神科医の神田橋條治氏は,精神を無理にでも統一しようとして失調するのだから「精神統一病」と名づけるべきだと主張していたが,これは単なる逆説ではなく,「統合失調症」の思想を先取りしていた。


「統合失調症」とともに,この障害のとらえ方の重心は,はっきり機能的なものに移った。この重心移動は当面は名目的なものであるかもしれないが,やがてじわじわと効いてくるだろう。


 「失調」は,「発病」「発症」の代わりにすでに使われていたことばである。患者・家族への説明,あるいは治療関係者同士の会話では日常語であったと言ってよい。「失調」は「精神のバランスが崩れる」という意味である。「回復の可能性」を中に含んでいることばである。「希望」を与えることばは,患者・家族の士気喪失を防ぐ力がある。治療関係者も希望を示唆することばを使うほうが,治療への意欲が強まるだろう。


実を言うと,カルテに,診断書に,文章に「精神分裂病」と書くたびに,これは書く私の心臓にもよくないと思ったものであった。患者・家族に告げる時には「健康なところもいっぱいあるよ」という当たり前のことをわざわざ付け加えなければならなかった。


 患者・家族の身になってみると,「精神分裂病」が絶望を与えるのに対して,「統合失調症」は,回復可能性を示唆し,希望を与えるだけでなく,「目標」を示すものということができる。


「統合」とは,ひらたく言えば「まとまり」である。まず「考えのまとまり」であり,「情のまとまり」であり,「意志のまとまり」である。その「バランス」を回復するという目標は,「幻覚や妄想をなくする」という治療目標に比べて,はるかによい。まず「幻覚・妄想をなくする」という目標に対しては,患者・家族はどう努力してよいかわからなくて,困惑し,受身的になってしまう。これが病いをいっそう深くする悪循環を生んでいたのではないか。これに対して,「知情意のまとまりを取り戻してゆこう」という目標設定に対しては,患者ははるかに能動的となりうる。家族・公衆の困惑も少なくなるだろう。患者と医療関係者との話し合いも,患者の自己評価も,家族や公衆からの評価も,みな同じ平面に立って裏表なしにできる。誰しも時には考えのまとまりが悪くなり,バランスを失うことがあるはずであるから,病いへの理解も一歩進むだろう。


また,治療関係者間のコミュニケーションも,この比重移動によって格段によくなるのではないか。看護日誌も幻聴や妄想の変動を中心にすることから,「考えのまとまり」をたずね,「感情のまとまり」「したいこと(意志)のまとまり」をたずねるほうが前面に出てくるだろう。そうなれば,医師や臨床心理士,ケースワーカーとのコミュニケーション,あるいは家族との語り合いも,同じ平面に立ち,実りあるものとなっていくと思う。


 せっかく名を変えるのである。これは名を変えることの力がどれだけあるかという,1つの壮大な実験である。実験であるが,同時にキャンペーンでもある。できるだけ稔りあるものにしたいと思う。


時間を50年遡って,垢だらけで来る日も来る日も病棟の片隅に突っ立ったり,うずくまっている患者たち,隔離室でまるで軽業のような極端な姿勢を何年もつづけている患者たちを「分裂病」の典型とみていた時には「統合失調症」という名称は思いつかなかったであろう。

 

確かに何かが変わった。「分裂病の軽症化」は,すでに1960年ごろから,その徴候があった。軽症化の原因にはあれこれがあげられているが,一般に物事の改善は何か1つの突出した変化では起こらず,多種多様な条件が次第に揃っていくことによって起こる。手さぐりもあり,迷いもあり,逆流があっても,患者,治療者,家族,公衆の改善への努力と,環境の変化があってのことであろう。それが逆戻りしないように,私たちは気を抜かないでいこうではないか。


そして名称が楽観主義的に変わっても,「失調」の時の恐怖――「それに比べれば神戸の地震など何でもない」ような恐怖――,そしてこれに続くやりきれない疲労,さらに長年病む者に起こる心の萎縮(ちぢかみ)を決して軽視しないようにしたい。


 私たち医療関係者は,「統合失調症」患者の知情意の「再統合」を妨げる要因を見定めて,できるだけそれを取り除いていくことが大きな課題となってくる。もう1つの大きな課題は,患者の病いにともなって普段よりこうむりやすくなっている心の傷を最小限にすることである。これは医療関係者とともに家族,公衆の課題でもある。

最後に,軽症化と言っても,すでに慢性状態に入り込んだ方々の失われた時間を取り戻すことはできない。「失調」を起こす人の全部が軽症にとどまるという保証もまだない。せめてこの人たちの生活の質(QOL)を高めていくこともまた,名称変更の際に忘れては決してならない課題である。(中井久夫「「統合失調症」についての個人的コメント」初出「精神看護」2002年3月号)


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治療はいつも成功するとは限らない。古い外傷を一見さらにと語る場合には、防衛の弱さを考える必要がある。〔・・・〕統合失調症患者の場合には、原外傷を語ることが治療に繋がるという勇気を私は持たない。


統合失調症患者だけではなく、私たちは、多くの場合に、二次的外傷の治療を行うことでよしとしなければならない。いや、二次的外傷の治療にはもう少し積極的な意義があって、玉突きのように原外傷の治療にもなっている可能性がある。そうでなければ、再演であるはずの二次的外傷が反復を脱して回復することはなかろう。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)



一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



異物概念自体、フロイトではなくブロイラー起源である。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物 [Fremdkörper] のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß.(フロイト&ブロイラー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

疎外(異者分離Entfremdungen)は注目すべき現象である。〔・・・〕この現象は二つの形式で観察される。現実の断片がわれわれにとって異者のように現れるか、あるいはわれわれの自己自身が異者のように現れるかである。Diese Entfremdungen sind sehr merkwürdige, […] Man beobachtet sie in zweierlei Formen; entweder erscheint uns ein Stück der Realität als fremd oder ein Stück des eigenen Ichs.(フロイト書簡、ロマン・ロラン宛、Brief an Romain Rolland ( Eine erinnerungsstörung auf der akropolis) 1936年)


現実界のなかの異物概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance (J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)


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(心的装置に)同化不能の部分モノdas Ding)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案Entwurf einer Psychologie』1895年)

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式の下にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン, S11, 12 Février 1964)

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)


フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ。La Chose freudienne […] ce que j'appelle le Réel (ラカン, S23, 13 Avril 1976)

このモノは分離されており、異者の特性がある。ce Ding […] isolé comme ce qui est de sa nature étranger, fremde.  …モノの概念、それは異者としてのモノである。La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, (Lacan, S7, 09  Décembre  1959)



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異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである。Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich (Lacan, S22, 19 Novembre 1974)

いかに同一のものの回帰という不気味なものが、幼児期の心的生活から引き出しうるか。〔・・・〕心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである。


Wie das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr aus dem infantilen Seelenleben abzuleiten ist  […]Im seelisch Unbewußten läßt sich nämlich die Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges erkennen, der wahrscheinlich von der innersten Natur der Triebe selbst abhängt, stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen, gewissen Seiten des Seelenlebens den dämonischen Charakter verleiht,[…] daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)


異者は、残存物、小さな残滓である。L'étrange, c'est que FREUD[…] c'est-à-dire le déchet, le petit reste,    (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

常に残存現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓が存続しうる。Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)




エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。〔・・・〕われわれはこのエスの欲動蠢動を、異物(異者としての身体 Fremdkörper)ーーたえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状と呼んでいる。〔・・・〕この異物は内界にある自我の異郷部分である。Triebregung des Es […] ist Existenz außerhalb der Ichorganisation […] der Exterritorialität, […] betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen […] das ichfremde Stück der Innenwelt (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)