◼️神は至高の欲動である |
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神は至高の力である。これで充分だ![Gott die höchste Macht - das genügt! ](ニーチェ遺稿、1987) |
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力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: … すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt... (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888) |
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◼️ 神は存在しない。だが神々はいる |
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神性はある。つまり神々はある。だが神はない。"Das eben ist Göttlichkeit, dass es Götter, aber keinen Gott giebt!" (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「新旧の表Von alten und neuen Tafeln 」第11節) |
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女というものは存在しない。女たちはいる。[La femme n'existe pas. Il y des femmes, mais La femme, c'est un rêve de l'homme](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975) |
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問題となっている女というものは、神の別の名である。その理由で女というものは存在しないのである。La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu, et c'est en quoi elle n'existe pas, (Lacan, S23, 18 Novembre 1975) |
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➡︎「母は神である」 ラカンにおける「存在しない」とは言語秩序(象徴秩序)には存在しないという意味であり、現実界(言語外)の有無は言っていない。 |
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◼️神々は死の欲動である |
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一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970) |
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死の欲動は超自我の欲動である。la pulsion de mort [...], c'est la pulsion du surmoi (J.-A. Miller, Biologie lacanienne, 2000) |
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➡︎ニーチェの「わたしの恐ろしい女主人の声」=「原超自我の声」 ◼️神々の欲動は反復強迫する |
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われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) |
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すべての欲動は実質的に、死の欲動である。 toute pulsion est virtuellement pulsion de mort(Lacan, Position de l'inconscient, E848, 1964年) |
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◼️ 神々の欲動は永遠回帰する、あるいは運命強迫する。 |
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同一の体験の反復の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年) |
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ーー「不変の個性刻印」とは身体の出来事あるいは固着のことである(参照)。
◼️運命愛は永遠の円環運動を欲する |
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私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭うべき側面をみずからすすんで探求することである。Philosophie, wie ich sie bisher verstanden und gelebt habe, ist das freiwillige Aufsuchen auch der verwünschten und verruchten Seiten des Daseins. 〔・・・〕 「精神が、いかに多くの真理に耐えうるか、いかに多くの真理を敢行するか?」--これが私には本来の価値尺度となった。. “Wie viel Wahrheit erträgt, wie viel Wahrheit wagt ein Geist?”―dies wurde für mich der eigentliche Werthmesser. 〔・・・〕 |
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私の生きぬくがごときそうした実験哲学は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否に、否への意志に停滞するというのではない。Eine solche Experimental-Philosophie, wie ich sie lebe, nimmt versuchsweise selbst die Möglichkeiten des grundsätzlichen Nihilismus vorweg: ohne daß damit gesagt wäre, daß sie bei einem Nein, bei einer Negation, bei einem Willen zum Nein stehen bliebe. |
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この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲する―あるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、ディオニュソス的に然りと断言することにまで―、それは永遠の円環運動を欲する[sie will den ewigen Kreislauf]、―すなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということ―、このことにあたえた私の定式が運命愛である…[meine Formel dafür ist amor fati ...] Sie will vielmehr bis zum Umgekehrten hindurch―bis zu einem dionysischen Jasagen zur Welt, wie sie ist, ohne Abzug, Ausnahme und Auswahl―sie will den ewigen Kreislauf,―dieselben Dinge, dieselbe Logik und Unlogik der Knoten. Höchster Zustand, den ein Philosoph erreichen kann: dionysisch zum Dasein stehn―: meine Formel dafür ist amor fati ...(ニーチェ「力への意志」遺稿、Frühjahr 1888) |
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◼️ 私は多くの種類の神々があることを疑うことはできない |
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私は舞踏することを知っている神のみを信じる。Ich würde nur an einen Gott glauben, der zu tanzen verstünde. (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「読むことと書くことVom Lesen und Schreiben 」) |
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ーーそしていかに多くの新しい神々がなおも可能であることか! [Und wie viele neue Götter sind noch möglich! ] 宗教的本能が、云いかえれば神を形成する本能がときとして折あしく生気をえてくる私自身、この私はそのつど神的なものが、いかに別様にいかに異って、その姿をあらわすことか![Mir selber, in dem der religiöse, das heißt gottbildende Instinkt mitunter zur Unzeit lebendig wird: wie anders, wie verschieden hat sich mir jedesmal das Göttliche offenbart!」〔・・・〕 |
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それほど奇異なることどもが、おのれがすでにどれほど生きてきたのか、なおどれほど生きてゆけるのかを、もはやまったく知らない月世界からのごとくに、生涯のうちへと落ちくるあの時間のない瞬間において、すでにいくどか私のかたわらを通過した……So vieles Seltsame ging schon an mir vorüber, in jenen zeitlosen Augenblicken, die ins Leben herein wie aus dem Monde fallen, wo man schlechterdings nicht mehr weiß, wie alt man schon ist und wie jung man noch sein wird... 私は多くの種類の神々があることを疑うことはできない。Ich würde nicht zweifeln, daß es viele Arten Götter gibt... (ニーチェ遺稿、Nachgelassene Fragmente, PDF) |
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と、いくらかまとめてみた。最近、宗教ーー主に多神教あるいはアニミズムーーのことを考えていて、ふと中原中也の言葉を思い出したせいである。
神は在るか。――神が「在るか無いか」と考へる以上、在るとも無いとも云ふことは出来ぬ。然るに「在るか無いか」と考へる以上、その考へることは存在する。ではその考へることは如何にして可能であるか? 斯かる時人はどうしても或る根原を設定せねばならぬ。その設定を何と名付けようと勝手だが、恐らくそれこそ人類が「神」と呼んで来たものの起原に相違あるまい。 仮りに無神論者が、神は無いと主張する時、その主張は何に依拠してゐるのか? とまれ何者かに依拠してゐるのは事実であらう。それを「神」と呼んだら何故悪いか? 「神」といふ言葉が、宗教裁判のあの過酷を生んだ欧羅巴に於て、則ち神自体よりも神を祀る人間習俗の中に屡々不幸を招来したことがあつたといふので「神」を厭ふといふのならまだ分るとしても、日本に於て「神」を何故に厭ふ者があるのであるか? ニイチエは「神は死んだ」と云つた。然し彼は「運命」といふものは信じた。その「運命」を、どうして神と呼んでは不可ないのか? (中原中也「我が詩観」) |
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やはり「詩人」でないとダメなんだろうよ、神の本質を掴むには。「哲学者」やら「宗教学者」やらではまったくダメだ。
学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年) |
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詩人の才能のない人は精神分析の助けを借りることだね。
私は詩人ではない、だが私は詩である。je ne suis pas un poète, mais un poème.(Lacan, AE572, 17 mai 1976) |
ポエジーだけだ、解釈を許容してくれるのは。私の技能ではそこに至りえない。私は充分には詩人ではない。Il n'y a que la poésie, vous ai-je dit, qui permette l'interprétation. C'est en cela que je n'arrive plus, dans ma technique, à ce qu'elle tienne. Je ne suis pas assez poète. (Lacan, S24. 17 Mai 1977 ). |
………………
※付記
◼️詩は神の効果である |
詩は意味の効果だけでなく、穴の効果である。la poésie qui est effet de sens, mais aussi bien effet de trou. (Lacan, S24, 17 Mai 1977) |
ラカンは穴をS(Ⱥ)と記述した。un trou, qu'il a inscrit S de grand A barré (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 2 mai 2001) |
S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる。S(Ⱥ) […] on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. (J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96) |
一般的には神と呼ばれるもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である。on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi. (ラカン, S17, 18 Février 1970) |
ここで冒頭の「神は至高の欲動である」に戻ろう。 |
◼️詩はエスの共鳴である |
詩は身体の共鳴が表現される。 la poésie, la résonance du corps s'exprime(Lacan, S24, 19 Avril 1977) |
欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
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静かに!静かに! いまさまざまのことが聞こえてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいま、ーーいま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。 ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが? |
Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, - - nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht! - hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第3節、1885年) |
※参考➡︎「ララング文献集」