このブログを検索

2021年4月22日木曜日

ニーチェの「わたしの恐ろしい女主人の声」=「原超自我の声」


超自我のあなたを遮る命令の形態は、声としての対象aの形態にて現れる。la forme des impératifs interrompus du Surmoi […] apparaît la forme de (a) qui s'appelle la voix. (ラカン, S10, 19 Juin 1963)


たとえば、次の「わたしの恐ろしい女主人」はエスの代理人としての原超自我=母なる超自我の声だよ



きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。


Gestern gen Abend sprach zu mir _meine_stillste_Stunde_: das ist der Name meiner furchtbaren Herrin.


それからの次第はこうであるーーわたしは君たちに一切を話さなければならない、君たちの心が、突然に去ってゆく者にたいして冷酷になることがないように。


Und so geschah's, - denn Alles muss ich euch sagen, dass euer Herz sich nicht verhärte gegen den plötzlich Scheidenden!


君たちは、眠りに落ちようとしている者を襲う驚愕を知っているか。ーー


Kennt ihr den Schrecken des Einschlafenden? -


足の指の先までかれは驚得する。自分の身の下の大地が沈み、夢がはじまるのだ。


Bis in die Zehen hinein erschrickt er, darob, dass ihm der Boden weicht und der Traum beginnt.


このことをわたしは君たちに比喩として言うのだ。きのう、最も静かな時刻に、わたしの足もとの地が沈んだ、夢がはじまった。


Dieses sage ich euch zum Gleichniss. Gestern, zur stillsten Stunde, wich mir der Boden: der Traum begann.


針が時を刻んで動いた。わたしの生の時計が息をした。ーーいままでにこのような静けさにとりかこまれたことはない。それゆえわたしの心臓は驚得したのだ。


Der Zeiger rückte, die Uhr meines Lebens holte Athem - nie hörte ich solche Stille um mich: also dass mein Herz erschrak.


そのとき、声なくしてわたしに語るものがあった。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ」ーー


Dann sprach es ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra?` -


このささやきを聞いたとき、わたしは驚鍔の叫び声をあげた。顔からは血が引いた。しかしわたしは黙ったままだった。


Und ich schrie vor Schrecken bei diesem Flüstern, und das Blut wich aus meinem Gesichte: aber ich schwieg.


と、重ねて、声なくして語られることばをわたしは聞いた。「おまえはエスを知っているではないか、ツァラトゥストラよ。しかしおまえはエスを語らない」ーー


Da sprach es abermals ohne Stimme zu mir: `Du weisst es, Zarathustra, aber du redest es nicht!` -


それでわたしはついに反抗する者のような声音で答えた。「そうだ。わたしはエスを知ってる。しかしわたしはエスを語ることを欲しないのだ」


Und ich antwortete endlich gleich einem Trotzigen: `Ja, ich weiss es, aber ich will es nicht reden!`


と、ふたたび声なくしてわたしに語られることばがあった。「欲しないというのか、ツァラトゥストラよ。そのことも真実か。反抗のなかに身をかくしてはならない」ーー


Da sprach es wieder ohne Stimme zu mir: `Du _willst_ nicht, Zarathustra? Ist diess auch wahr? Verstecke dich nicht in deinen Trotz!` -


このことばを聞いて、わたしは幼子のように泣き、身をふるわした。そして言った。「ああ、わたしはたしかにそれを言おうとした。しかし、どうしてわたしにそれができよう。そのことだけは許してくれ。エスはわたしの力を超えたことなのだ


Und ich weinte und zitterte wie ein Kind und sprach: `Ach, ich wollte schon, aber wie kann ich es! Erlass mir diess nur! Es ist über meine Kraft!`………

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)




過剰解釈という人がいるのはわかっているが、これはボクにとっては疑いようがないね。



超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代表としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)


ゲオルク・グロデックは(『エスの本 Das Buch vom Es』1923 で)繰り返し強調している。我々が自我と呼ぶものは、人生において本来受動的にふるまうものであり、未知の制御できない力によって「生かされている 」と。Ich meine G. Groddeck, der immer wieder betont, daß das, was wir unser Ich heißen, sich im Leben wesentlich passiv verhält, daß wir nach seinem Ausdruck » gelebt« werden von unbekannten, unbeherrschbaren Mächten5. 


この力をグロデックに用語に従ってエスと名付けることを提案する。Ich schlage vor,[...] nach Groddecks Gebrauch das Es. 


グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがとてもしばしば使われている。

Groddeck selbst ist wohl dem Beispiel Nietzsches gefolgt, bei dem dieser grammatikalische Ausdruck für das Unpersönliche und sozusagen Naturnotwendige in unserem Wesen durchaus gebräuchlich ist(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)


いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)




「わたしの恐ろしい女主人の声」を知らない人は、「最も静かな時間 Die stillste Stunde」を知らない人だけだよ。フロイト用語なら「刺激保護膜」Reizschutzes がブ厚いド神経症者だけだ、あの超自我の声を聴いたことがない者は。



冒頭に引用した「超自我=声としての対象a」とは穴の声でもある。


私は大他者に斜線を記す、穴Ⱥと。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。リアルであり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある。


Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : (Lacan, S13, 09 Février 1966)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。この穴としての対象aは、主体との関係において我々に問いを呼び起こす。C'est justement en ceci que l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel, qui est mis en question pour nous dans sa relation au sujet. (ラカン、S16, 27 Novembre 1968)


穴の声とは欲動のリアルの声だ。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

エスの背後にあると想定された力を欲動と呼ぶ。欲動は心的生に課される身体的要求である。Die Kräfte, die wir hinter den Bedürfnisspannungen des Es annehmen, heissen wir Triebe.Sie repräsentieren die körperlichen Anforderungen an das Seelenleben.(フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


こう解釈すると「私は多くの神々があることを疑うことはできない(ニーチェ)」で示したこととたちまち結びつく。



穴の声、すなわち深淵の声、ーー《おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す。  wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein》(ニーチェ『善悪の彼岸』146節、1886年)



深淵の声は永遠回帰するのさ。


わたしに最も深く敵対するものを、すなわち、本能の言うに言われぬほどの卑俗さを、求めてみるならば、わたしはいつも、わが母と妹を見出す、―こんな悪辣な輩と親族であると信ずることは、わたしの神性に対する冒瀆であろう。わたしが、いまのこの瞬間にいたるまで、母と妹から受けてきた仕打ちを考えると、ぞっとしてしまう。彼女らは完璧な時限爆弾をあやつっている。それも、いつだったらわたしを血まみれにできるか、そのときを決してはずすことがないのだ―つまり、わたしの最高の瞬間を狙って[in meinen höchsten Augenblicken]くるのだ…。そ のときには、毒虫に対して自己防御する余力がないからである…。生理上の連続性が、こうした 予定不調和[disharmonia praestabilita]を可能ならしめている…。しかし告白するが、わたしの本来の深遠な思想である 「永遠回帰」 に対する最も深い異論とは、 つねに母と妹なのだ [Aber ich bekenne, dass der tiefste Einwand gegen die »ewige Wiederkunft«, mein eigentlich abgründlicher Gedanke, immer Mutter und Schwester sind―]。 (ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに賢いのか」第8節--妹エリザベートによる差し替え前版)




デリダは死の年にようやく気づいたな。遅くても気づかないよりはマシさ。


鳩が横ぎる。ツァラトゥストラの第二部のまさに最後で。「最も静かな時刻」。

この最も静かな時刻は語る。私に語る。私に向けて。私の耳のなかでささやく。それは、私に最も近い。私自身なかのように。私のなかの他者の声のように。他者の私の声のように。そしてその名、この最も静かな時間の名は、《わたしの恐ろしい女の主人》である。〔・・・〕


今われわれはどこにいるのか? あれは鳩のようではない。まったく鳩の足ではない。そうではなく「狼の足で」だ。


Une colombe traverse un chant, tout à la fin de la deuxième partie du Also sprach Zarathoustra, « Die stillste Stunde », « l'heure du suprême silence ». Cette heure du suprême silence prend la parole, […] elle me murmure au creux de l'oreille, elle est au plus proche de moi, comme en moi, comme la voix de l'autre en moi, comme ma voix de l'autre, et son nom, […] c'est le nom de ma terrifiante souveraine. » […]


Or où en étions-nous à l'instant ? Non pas à la manière de la colombe, disions-nous, et surtout pas à pas de colombe mais « à pas de loup ». (ジャック・デリダJacques Derrida , LE SOUVERAIN BIEN - La conférence de Strasbourg 8 juin 2004




有害な哲学がなんかやってなかったらもっと若いうちにわかったんだがな


私の哲学(形而上学)に対する態度はあなたもご承知のように思われる。私の素地の他の欠陥であれば、きっと私は悩まされ、謙虚にさせられたことでしょうが、形而上学に関してはそうではありません。 私は形而上学に対する器官(「能力」)を持っていないばかりでなく形而上学に対する何の敬意も持ってはいません [ich habe nicht nur kein Organ (›Vermögen‹) für sie, sondern auch keinen Respekt vor ihr.。密かに私はーー大声で言うわけにはゆかないでしょうがーー形而上学というものはいつか「有害なもの」、思考の誤用、宗教的世界観の時代の「遺物」と判決を下されるであろうと信じています[daß die Metaphysik einmal als ›a nuisance‹, als Mißbrauch des Denkens, als ›survival‹ aus der Periode der religiösen Weltanschauung verurteilt werden wird]。こういう考え方がいかに私をドイツ文化圏に縁遠いものとしているかは、よく心得ています。〔・・・〕いずれにしても、哲学の彼岸によりも事実の此岸に道を見出すことのほうがおそらく簡単でありましょう。(フロイト書簡、ヴェルナー・アヒェリスWerner Achelis宛、1927年1月30日付)



ま、でもニーチェを哲学化しおバカなことばかり書いて死んでいったハイデガーよりはマシさ。



ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden.(フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung、1908年 )

ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。Nietzsche, […] dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken (フロイト『自己を語る Selbstdarstellung』1925年)