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2021年4月13日火曜日

母の死の境

 


1919(大正8)年

9月19日、東京府東京市本郷区本富士町一番地(現、文京区本郷7丁目3番1号)に、父・加藤信一(1885-1974)、母・ヲリ子(織子)(1897-1949)の長男として出生。ときに信一34歳。ヲリ子(旧姓増田)22歳。





そうか、30歳のとき亡くなったのか。Wikipedia等には書かれていないのでネット上を探ってみたのだが。「おっかさんと蛍」で記した1902年生まれの小林秀雄は、1946年に母を亡くしており、44歳での死だ。この加藤周一と小林秀雄の文章をまんべんなく読んでいるわけではまったくないが、二人は私にとって大きな存在として残っている、いや齢を重ねるなかで、より大きくなっていると言っていいかも。


……そういう数週間が統き、苦しみの果てに、母が死んだとき、私は自分の内側が空虚になったように感じた。よろこびも悲しみも感ぜず、ただ全身に拡る疲れだけを感じ、しばらくの間、放心していた。葬式をほとんど覚えていないのは、周囲におこる何事にも関心を失っていたからだろう。まなく本郷の病院へ通って仕事を続けていたにちがいないが、その記憶も、はっきりしない。はっきりした記憶は、夜ひとりになると、その顔や、その言葉が、秩序なく蘇り、そのすべてを失ったということ、そのすべてがかえらぬということが実に堪え難く感じられたということだけである。私の世界からは、無限の愛情の中心が消えてなくなり、世界はもはや私にとってどうなってもよいものにすぎなくなった。毎日見慣れたどぶ川のほとりの景色は、真昼の白い光のなかで急に色を失い、どこか見知らぬ土地の私とは何の関係もない町の景色のようにみえた。私の内部には過去があり、それこそは現実であって外部には夢があるにすぎなかった。


しかし時が経つにつれて、私は母の死をも落着いて考えることができるようになった。そのときはじめて烈しい後悔がやって来た。これをしておけばよかった、あれをしてやればよかった、という考えは尽きず、その一部は到底不可能であったとしても、少くとも他の一部は、私にその気さえあればできたはずだとくり返し思った。私は自分自身を憎み、且軽蔑した。しかしそれだけではなかった。私はまた同時に、私自身の生涯を、母の死を境として、その前後に別けて考えるようにもなったのである。その前と後とで、私の生きて来た世界のいわば重心が変ったーーということに気がついたときに、その考えは私自身をおどろかせた。それまで私が母に頼って生きていたのではなく、むしろ母が私に頼って生きていたのだからである。しかし母を失ってしばらく経って後、私は無条件の信頼と愛情のあり得た世界から、そういうものの二度とあり得ないだろうもう一つの世界へ自分が移ったことをはっきりと感じた。信頼はあらためてつくりだし、愛情はあらためて探しもとめなければならない。京都の女は、その事実を少しも変えるものではなかった。(加藤周一『続羊の歌』「京都の庭」1968年)





そんな彼も晩年「死後は母と妹と穏やかに暮らしたい」と洗礼を受け、今は東京都東村山市の小平霊園に母と共に眠っている。洋形の墓には「加藤」とあり、背面に墓誌が刻まれている。〔・・・〕


2008年(平成20年)5月、体調不良のため検査を受けたところ進行性の胃癌が発覚。8月19日、自宅で世田谷区のカルメル修道会上野毛カトリック教会の大瀬高司神父からカトリックの洗礼を受け、洗礼名ルカを与えられる。9月19日、意識がなくなり昏睡状態に陥る。12月5日午後2時5分、多臓器不全のため世田谷区船橋の有隣病院で死去。享年89。(加藤周一(1919~2008)



…………………



精神分析のエビデンスが示しているのは、ある期間持続して二人の人間のあいだにむすばれる親密な感情関係ーー結婚、友情、親子関係ーーのほとんどすべては、拒絶し敵対する感情のしこりを含んでいる。それが気づかれないのは、ただ抑圧されているからである。


Nach dem Zeugnis der Psychoanalyse enthält fast jedes intime Gefühlsverhältnis zwischen zwei Personen von längerer Dauer ― Ehebeziehung, Freundschaft, Eltern- und Kindschaft ― einen Bodensatz von ablehnenden, feindseligen Gefühlen, der nur infolge von Verdrängung der Wahrnehmung entgeht.


おそらく唯一の例外は、息子への母の関係[Beziehung der Mutter zum Sohn ]である。これはナルシシズムに基づいており、後年の(主に娘との)ライバル意識によっても損なわれことなく、性的目標選択のアプローチによって強固なものになる。


Vielleicht mit einziger Ausnahme der Beziehung der Mutter zum Sohn, die, auf Narzißmus gegründet, durch spätere Rivalität nicht gestört und durch einen Ansatz zur sexuellen Objektwahl verstärkt wird. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章、1921年)



……………


加藤周一の年譜がネット上に落ちていたのでここに貼り付けておく。



西暦年

年齢

事項

1919

0

東京の医者の家に生まれる

1931

12

東京府立第1中学校(現日比谷高校)に入学、満州事変勃発

1936

17

第一高等学校理科乙類に入学、2.26事件

1940

21

東京帝国大学医学部に入学、翌年太平洋戦争始まる

1942

23

中村真一郎、福永武彦らと「マチネ・ポエティーク」結成

1943

24

時局から医学部を繰り上げ卒業させられ、付属病院医局に勤務

1945

26

付属病院医局が信州に疎開し、上田で終戦を迎える。

日米「原爆影響調査団」に加わり広島へゆく

1946

27

「天皇制を論ず」、「焼け跡の美学」などを発表し、

本格的に執筆活動を始める

1947

28

最初の著書「1946・文学的考察」(中村、福永と共著)刊

「IN EGOISTOS」発表

1948

29

「現代フランス文学論」刊

1949

30

小説「ある晴れた日に」連載、母逝去す

1950

31

「文学とは何か」刊

1951

32

「抵抗の文学」、「現代フランス文学論」、「海の沈黙。星への歩み」刊

フランス政府留学生(医学)として渡仏、パスツール研究所勤務

1952

33

「抵抗の文化」刊

1955

36

フランスより帰国、東京大学医学部付属病院勤務

「日本文化の雑種性」発表、「ある旅行者の思考」刊

1956

37

小説「運命」、「雑種文化」刊

1957

38

「近代日本の文明史的位置」発表

1958

39

第2回アジア・アフリカ作家会議準備員会出席

医師廃業し、「政治と文学」、「西洋賛美」刊

1959

40

「現代ヨーロッパの精神」

「ウズベック・クロアリア・ケララ旅行記」刊、「戦争と知識人」発表

1960

41

カナダ・ブリティッシュコロンビア大学教授となる

1965

46

「日本文化の基本的構造」発表、小説集「三題噺」刊

1966

47

「羊の歌」朝日ジャーナル連載開始

1967

48

「芸術論集」刊

1968

49

「羊の歌」正続刊、チェコ旅行でソ連プラハ進攻に遭遇

1969

50

「言葉と戦争」、「日本の内と外」刊

西ベルリンのベルリン自由大学教授就任

1971

52

日中友好協会訪中団の一員で訪中

「日本文学史の方法論への試み」発表

1973

54

「日本文学史序説」連載開始



西暦年

年齢

事項

1974

55

父逝去する。アメリカのイェール大学客員講師となって渡米

1975

56

「日本文学史序説」上巻刊行、上智大学教授となる

1976

57

「日本人とは何か」刊

1977

58

「言葉と人間」、「日本人の死生観」刊

1978

59

スイスのジュネーブ大学客員教授

「加藤周一著作集」刊行開始

1970

60

平凡社「大百科事典」編集長に就任

1980

61

「日本文学史序説」下刊行、大佛次郎賞受賞

1983

64

英国ケンブリッジ大学、イタリアヴェネチア大学局員教授になる

「山中人閒話」刊

1984

65

「サルトル」、「日本文化の隠れた形」刊、「夕陽妄語」連載開始

1985

66

フランス政府より芸術文化勲章シュヴァリエ受賞

1986

67

メキシコのコレヒオ・デ・メヒコ大学客員教授となる

「古典を読む 梁塵秘抄」刊

1987

68

アメリカのプリンストン大学で講義

NHKにて「日本その心とかたち」放送

1988

69

立命館大学客員教授、都立中央図書館長就任

1989

70

アメリカUCデービス校で講義、「ある晴れた日の出来事」刊

1992

73

ドイツベルリン自由大学大学客員教授となる

1994

75

朝日賞受賞、中国北京大学で講演

1995

76

NHK人間大学テキスト「鴎外・茂吉・杢太郎」刊

1996

77

「加藤周一講演集」刊行開始

1997

78

アメリカのポモーナ大学客員教授となる

1998

79

「翻訳と日本の近代」(丸山と共著)刊

1999

80

「加藤周一セレクション」刊行開始

2000

81

フランス政府よりレジオン・ドヌール勲章受章

「私にとっての20世紀」刊

2001

82

中国香港中文大学で講演

2002

83

イタリア政府より勲章コンメンダトーレ受賞

2004

85

佛教大学客員教授となる、「九条の会」呼びかけ人になる。

「高原好日」刊

2005

86

「20世紀の自画像」刊

2007

88

「日本文化における時間と空間」刊

2008

89

胃がんになり、カトリックの洗礼を受けて12月5日逝去する