前回示したのは次のことである、「原抑圧=超自我=去勢=排除=固着=享楽(享楽喪失)=穴」。 ところでフロイトの原抑圧概念は長いあいだ忘れられていた。 |
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フロイト以降、原抑圧概念は全く忘れられるつつある。証拠として、Grinsteinを見るだけで十分である。Grinstein、すなわちインターネット出現以前の主要精神分析参考文献一覧である。96,000項目の内にわずか4項目しか、「原抑圧」への参照がない…この驚くべき過少さを説明するのは、とても簡単である。原抑圧概念は、ポストフロイト時代の理論にはまったく合致しないのである。彼らが参照しているのは、1910年前後以前のフロイトに過ぎない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, DOES THE WOMAN EXIST?、 1999) |
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インターネット出現以前だけではない。21世紀に入ってもわずかにしか触れらてこなかった原抑圧概念である。
さてポール・バーハウは原抑圧を次のように定義している。 |
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原抑圧は抑圧というより固着である。固着とは、現実界の何ものかが以前の水準に置き残されることである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997) |
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原抑圧は、前言語的水準における欲動のリアルな部分の固着であり、無意識の核を構成する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997) |
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ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年) |
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主流ラカン派(フロイト大義派)でさえ、ジャック=アラン・ミレールの2011年のセミネールを受けて、ようやく2012年の会議の報告にて次のように示すようになった。 |
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後期ラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される〔・・・〕。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないリアルな症状である。…症状を読むことは、症状を原形式に還元することである。この原形式は、身体とシニフィアンとのあいだの物質的遭遇にある〔・・・〕。これはまさに主体の起源であり、書かれることを止めない。--《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire)(ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)ーー。我々は「フロイトの原抑圧の時代[the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung])にいるのである。ジャック=アラン・ミレール はこの「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心的装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。ここにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012) |
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原抑圧=固着=身体の出来事、これが現在ラカン派の臨床の核なのである。
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分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
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精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](Colette Soler, Avènements du réel, 2017年) |
固着にかかわるラカンおよび現代ラカン派用語とフロイト用語は次のように対照される。
ラカン派においても(わずか数人の先行者を除いて) 2010年前後からようやくフロイトの核心が真に探られるようになった、と言っておこう。