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2021年5月28日金曜日

2010年以降のフロイト

 


前回示したのは次のことである、「原抑圧=超自我=去勢=排除=固着=享楽(享楽喪失)=穴」。


ところでフロイトの原抑圧概念は長いあいだ忘れられていた。


フロイト以降、原抑圧概念は全く忘れられるつつある。証拠として、Grinsteinを見るだけで十分である。Grinstein、すなわちインターネット出現以前の主要精神分析参考文献一覧である。96,000項目の内にわずか4項目しか、「原抑圧」への参照がない…この驚くべき過少さを説明するのは、とても簡単である。原抑圧概念は、ポストフロイト時代の理論にはまったく合致しないのである。彼らが参照しているのは、1910年前後以前のフロイトに過ぎない。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, DOES THE WOMAN EXIST?、 1999)


インターネット出現以前だけではない。21世紀に入ってもわずかにしか触れらてこなかった原抑圧概念である。


たとえば現日本ラカン協会理事長立木康介とフロイト派臨床家十川幸司は、2009年時点だが次のように言っている。


立木)ラカンの理論で現実界の問題がいっせいに出てくるとき、抑圧の概念は事実上ほぼ打ち捨てられたようにさえ見えます。〔・・・〕


十川)抑圧という概念の治療論的な意義について言えば、今、この概念を正面きって使う分析家は、自我心理学に属する分析家の一部を除いて、ほとんどいません。

 (「来るべき精神分析のために」(十川幸司/原 和之/立木康介)2009/05/29、岩波書店)


そしてこの鼎談には原抑圧という語は一度も出現してない。前回引用したようにラカンにおいて晩年に至れば至るほど原抑圧概念が核心にもかかわらずである。これは私の観点からは致命的である。


◼️享楽=リビドー =欲動=原抑圧=穴

享楽の名は、リビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance, … le terme freudien de libido …faire équivaloir. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 -30/01/2008)

欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである。pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


享楽は、抹消として、穴埋めされるべき穴として示される他ない。[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou à combler. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。…穴は原抑圧と関係がある。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.[…]La relation de cet Urverdrängt(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou〔・・・〕そして私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する。et c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même. (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)



詳しくは知らないが、日本を代表する一人なのだろうフロイト派臨床家十川幸司も立木康介はと同様、最近に至るまでピント外れの話ばかりしているように見える(参照)。



さてポール・バーハウは原抑圧を次のように定義している。


原抑圧は抑圧というより固着である。固着とは、現実界の何ものかが以前の水準に置き残されることである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997)

原抑圧は、前言語的水準における欲動のリアルな部分の固着であり、無意識の核を構成する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997)

ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年)


主流ラカン派(フロイト大義派)でさえ、ジャック=アラン・ミレールの2011年のセミネールを受けて、ようやく2012年の会議の報告にて次のように示すようになった。


後期ラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される〔・・・〕。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないリアルな症状である。…症状を読むことは、症状を原形式に還元することである。この原形式は、身体とシニフィアンとのあいだの物質的遭遇にある〔・・・〕。これはまさに主体の起源であり、書かれることを止めない。--《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire)(ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)ーー。我々は「フロイトの原抑圧の時代[the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung])にいるのである。ジャック=アラン・ミレール はこの「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心的装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--である。ここにおいて欲動要求の反復が生じる。(Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012)



原抑圧=固着=身体の出来事、これが現在ラカン派の臨床の核なのである。


症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

症状は固着である。Le symptôme, c'est la fixation (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 10 - 26/03/2008)

疑いもなく、症状は享楽の固着である。sans doute, le symptôme est une fixation de jouissance. (J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 12/03/2008)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にあり、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. […] la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, […] elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)



分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

精神分析における主要な現実界の到来は、固着としての症状である[l'avènement du réel majeur de la psychanalyse, c'est Le symptôme, comme fixion,](Colette Soler, Avènements du réel, 2017年)



固着にかかわるラカンおよび現代ラカン派用語とフロイト用語は次のように対照される。



ラカン派においても(わずか数人の先行者を除いて) 2010年前後からようやくフロイトの核心が真に探られるようになった、と言っておこう。