「負にとどまる能力 negative capability」にて引用したヘーゲルの《精神は、否定的なものを見すえ、否定的なものに留まるからこそ、その力をもつ》をまず再掲しよう(もっとも私は、25歳で死んだ若きキーツの名高い言葉とヘーゲルの否定性をただちに結びつけるつもりはない)。 |
死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 のうちに見出すときにのみなのである。 Aber nicht das Leben, das sich vor dem Tode scheut und von der Verwustung rein bewahrt, sondern das ihn ertragt und in ihm sich erhalt, ist das Leben des Geistes. Er gewinnt seine Wahrheit nur, indem er in der absoluten Zerrissenheit sich selbst findet. |
精神がこの力であるのは、否定的なものから目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ、否定的なものに留まるからこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力である。 Diese Macht ist er nicht als das Positive, welches von dem Negativen wegsieht, wie wenn wir von etwas sagen, dies ist nichts oder falsch, und nun, damit fertig, davon weg zu irgend etwas anderem ubergehen; sondern er ist diese Macht nur, indem er dem Negativen ins Angesicht schaut, bei ihm verweilt. Dieses Verweilen ist die Zauberkraft, die es in das Sein umkehrt.(ヘーゲル『精神現象学』「序論」1807年) |
この文に書かれている内容はとくにジジェクの少なくとも1990年前後以来の長年のテーマの核である。私は現在、ジジェクからいくらか距離を置いているので、最近は示したことがないが、ここでは2012年の書から簡潔な文を引用する。 |
ヘーゲルの否定性とフロイトの死の欲動(あるいは反復強迫)とのあいだの関係…フロイトが死の欲動概念にて目指そうとしたものは、ヘーゲルの否定性の「非弁証的的」核であり、どんな止揚や理想化の動きもなく反復する純粋欲動である。The relationship between Hegel's negativity and Freud's death drive (or compulsion to repeat)…what Freud was aiming at with his notion of death drive…is the “non‐dialectical” core of Hegelian negativity, the pure drive to repeat without any movement of sublation or idealization. (ジジェク、Less Than Nothing, 2012) |
ジジェクにおいては、非弁証的的な純粋欲動の反復、これが何よりもまずフロイトの死の欲動であり、ラカンの享楽(エロトス)である。 |
われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす。 Charakter eines Wiederholungszwanges […] der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) |
死の欲動は現実界である。La pulsion de mort c'est le Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. (Lacan, S23, 10 Février 1976) |
ところで仮にジジェクを受け入れて、非弁証的的な否定性としての「死の欲動=反復強迫=享楽」を見据えて留まることが重要だとしても、我々は具体的には何を見据えたらよいのか。その見据えるべき対象が前回も示した固着(リビドーの固着=享楽の固着)である。 |
享楽は身体の出来事である。身体の出来事の価値は、欲望の法に分節化されていない。享楽はトラウマの審級にある、衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は欲望の法とは対立し弁証法には囚われておらず、固着の対象である。la jouissance est un événement de corps. La valeur d'événement de corps est … n'est pas articulée à la loi du désir, la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard, ça s'oppose terme à terme à la loi du désir, et elle n'est pas prise dans une dialectique mais elle est l'objet d'une fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011) |
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享楽は真に固着にある。…人は常にその固着に回帰する。La jouissance, c'est vraiment à la fixation […] on y revient toujours. (Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009) |
反復を引き起こす享楽の固着 fixation de jouissance qui cause la répétition、(Ana Viganó, Le continu et le discontinu Tensions et approches d'une clinique multiple, 2018) |
以上、「否定性=死の欲動」の前提を受け入れるなら、享楽の固着の防衛に過ぎない愛やら欲望やらで誤魔化しておらず、固着の反復ーー〈私〉はなんの「享楽の固着=身体の出来事」を反復強迫しているのかーーこれを見据えてそこに留まることこそが重要だということになる。 |