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2021年6月20日日曜日

日本はもはやアキラメルほかないね

 このボロメオの環ってのはいろんなパターンがあるんだよ。




要するに用語的にはこれだけじゃない。より一般的に言えば、欲望は言語、愛はイマージュ、欲動はモノだ。


象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

愛はイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる、そしてあなたを装う自己イマージュであり、またそれがはぎ取られるときあなたを見捨てる自己イマージュである[l'amour ; soit de cette image, image de soi dont l'autre vous revêt et qui vous habille, et qui vous laisse quand vous en êtes dérobée],(ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (ラカン, S23, 13 Avril 1976)


フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである。[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)


これはラカンがフロイトーーあるいはさらに遡って過去の哲学的思考も含めてーー、形式化しただけであり、例えばこうなる。


ほとんどすべてこれでいけるよ、人間の全思考・全活動は。

フロイトの超越論的心理学の意味を回復しようとしたラカンが想定した構造は、よりカント的である。仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

彼が感性の形式や悟性のカテゴリーによって現象が構成されるといったのは、言語によって構成されるというのと同じことである。実際、それらは新カント派のカッシラーによって「象徴形式」といいかえられている。(柄谷行人『トランスクリティーク』)


右端の「国家/共同体/資本」だったらこうだ。


国家は、収奪と再分配の原理にもとづく。〔・・・〕持続的に強奪するためには、被強奪者を別の強奪者から保護したり、産業を育成したりする必要がある〔・・・〕。それが国家の原型である。国家は、より多く収奪しつづけるために、再分配によって、その土地と労働力の再生産を保証し、灌漑などの公共事業によって農業的生産力を上げようとする。その結果、国家は収奪の機関とは見えないで、むしろ、農民は領主の保護に対するお返し(義務)として年貢を払うかのように考え、商人も交換の保護のお返しとして税を払う。そのために、国家は超階級的で、「理性的」であるかのように表象される。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)

誤解をさけるために捕捉しておきたいことがある。第一に、「共同体」というとき、村とか国家とかいったものだけを表象してはならないということである。規則が共有されているならば、それは共同体である。したがって、自己対話つまり意識も共同体と見なすことができる。(柄谷行人『探求Ⅱ』1989年)

資本主義の原動力を、人々の欲望に求めることはできない。むしろその逆である。資本の欲動は「権利」(ポジション)を獲得することにあり、そのために人々の欲望を喚起し創出するだけなのだ。そして、この交換可能性の権利を蓄積しようとする欲動は、本来的に、交換ということに内在する困難と危うさから来る。(柄谷行人『トランスクリティーク』)


ピッタンコだろ。


最も基本的な読み方ーーこれだけに限らないがーーは次の通り。

ボロメオの環において、想像界の環は現実界の環を覆っている。象徴界の環は想像界の環を覆っている。だが象徴界自体は現実界の環に覆われている(支配されている)…。これがラカンのトポロジー図形の一つであり、多くの臨床的現象を形式的観点から理解させてくれる。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE、DOES THE WOMAN EXIST? 、1997)


で、グレーに塗った箇所の別名は見せかけだ。


現実界は、象徴界と想像界を見せかけ[semblant]の地位に押し戻す。そしてこの現実界はドイツ語のモノ[das Ding]によって示される。このモノをラカンは欲動として示した。(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011)

(後年の)ラカンは象徴界と想像界を結びつけ、新しい審級を設定する。彼はその審級に見せかけ[semblant]の名を与えた。見せかけは想像界の領野に位置づけられるが、しかし想像界は象徴界によって構造化されている。(ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)


日本は、政治家どころかほとんど全インテリまでが「見せかけ」のレベルでしかものを言わない知的退行の国にになっちまった。


柄谷ボロメオに戻れば、日本共同体は年貢の払い方が足りなかったんだよ、世界一の少子高齢化社会にもかかわらず。



ーー米国ってのは米国だよ、貧しいものはさっさと死んでくれっていう国だ。あるいは自分のことは自分で世話してくれ、という国だ。日本ももうすぐそうかもな。


いずれにせよ、日本は世界に誇る借金大国になっちまった。




ほかの国の財政赤字はカワイイもんだよ。日本はもはやアキラメルほかないね、ここまでほったらかしにしてきたんだから。何やったってもはやどうしようもないよ。まっしぐらだな、あそこに。つまり、前回冒頭に記したあの場に。