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2021年6月4日金曜日

はやく本来の女に戻れ

 このところ次の図を二度掲げた。



ここではもっと一般的な話をしよう。


象徴界(言語秩序)からの視点をもつか、それとも現実界(享楽=身体)からの視点をもつかというのは、とくに男女の構造的相違を考える上で決定的だということについてだ。


女というものは存在しない。女たちはいる[La femme n'existe pas. Il y des femmes,](Lacan, Conférence à Genève sur le symptôme, 1975)


このラカンの発言はジャック=アラン・ミレールによって次のように注釈されている。


「女というものは存在しない」という命題は、「女たちの世界はない」と翻訳される。これは女たちには固有の徴がないという事実による。…しかし単独性は十全にある。これは「女たちはいる」を意味する。男たちは固有性を持っている。女たちは単独性を持っている。

La thèse «La femme n'existe pas » se traduit par, « il n'y a pas d'universel des femmes », et par là même le trait du particulier ne leur est pas, au moins d'origine, attribué, mais bien la singularité. C'est le sens de « il y a des femmes ». Les hommes auront le particulier, les femmes auront le singulier.  (J.-A. Miller, Le lieu et le lien, 7 mars 2001)


「男/女」が「固有性/単独性」とあるが、男のもつ固有性はもちろんファルスである。


女性のシニフィアンの排除がある。これが、ラカンの「女というものは存在しない」の意味である[il y a une forclusion de signifiant de La femme. C'est ce que veut dire le “La femme n'existe pas”]

この意味は、我々が持っているシニフィアンは、ファルスだけだということである[Ça veut dire que le seul signifiant que nous ayons, c'est le phallus]. (J.-A. Miller, Du symptôme au fantasme et retour, Cours du 27 avril 1983)


ファルスとは純粋に形式的観点からは言語である。


ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  (ラカン, S18, 09 Juin 1971)


ところで最晩年のラカンは、次のように言った。


象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

言語は存在しない[le langage, ça n'existe pas. ](ラカン、S25, 15 Novembre 1977)


存在しないとは「仮象に過ぎない」ということだ。つまり象徴界=言語は仮象に過ぎない。ファルスは仮象に過ぎない。この思考の下では男は存在しない。


はっきりしているのは、男というものは存在しないことである[il est clair que L’homme n’existe pas.](Marie-Hélène Brousse, Le trou noir de la dif­fé­rence sexuelle, 2019)


つまりは《男はファルスを持った女に過ぎない[man is woman with phallus]》(ジジェク『為すところを知らざればなり』第二版序文、2008年)。女性性が男女ともの原点なのである。すなわちラカンの主体$とは女性性である([subjectivity as such (in the precise Lacanian sense of $, of the void of the "barred subject") is feminine](同ジジェク)


別の言い方なら、象徴界は事実上、現実界に支配されている。


象徴秩序は今、仮象のシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属しているのである。L'ordre symbolique est maintenant reconnu comme un système de semblants qui ne commande pas au réel, mais lui est subordonné. (J.-A. Miller, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT, 2014)


この論理のなかで次のような反転がある。


原理の女性化がある。両性にとって女がいる。過去は両性にとってファルスがあった。il y a féminisation de la doctrine [et que] pour les deux sexes il y a la femme comme autrefois il y avait le phallus.(エリック・ロラン Éric Laurent, séminaire du 20 janvier 2015)


つまりは男は女に支配されている。


もちろん人はみなファルス秩序(言語秩序)のなかに生きているのだから、象徴界からの観点をもつ人もいまだ多い、とくに男たちは。だが男とはファルスの詐欺師に過ぎない。


女性性の普遍的概念が欠けている[manquant d'un concept universel de la féminité]。 女たちは女が何であるか知らない[elles ne savent pas qui elles sont]。〔・・・〕しかし女たちは自分が知らないことを知っている[elles savent qu'elles ne savent pas]。他方、男は知っている。男は男であることが何であるかを信じている[Tandis que les hommes savent, croient savoir ce que c'est qu'être un homme]。そしてこの知は唯一、「詐欺師の審級 le registre de l'imposture」において得られる。(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008) 


要するに現代ラカン派においては、ファルス秩序の視点とは詐欺師の視点なのである。




今、下段に「現実界=女=主体性$」と置いたのは次の文脈である。


ひとりの女はサントームである[une femme est un sinthome ](Lacan, S23, 17 Février 1976)

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)


ーー現実界とはラカン用語では穴であり、《現実界のなかの穴は主体である。Un trou dans le réel, voilà le sujet》. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)


地階と上階は種々の語彙群があるが、以下の右項が地階、左項が上階だ(参照)。




話を戻そう、ファルスの詐欺師から主体性という女への移行の話だ。


これはしかし何もラカン派でなくてもーーそれが秘かであれーー感じとっている人が多い筈である。 1968年の学園紛争以降、そして1989年の「マルクスの死」以降はなおさら「父なき時代」が瞭然となったこの30年である。


かつて「父の名」の曲がりなりにも生き残っていた時代は、女たちは「女とは何か」をしきりに問うたように思う。1970年前後の仏現代思想のイデオロギーに生きるインテリ女たちは間違いなくそうだった。現在にもそれはあるにしろ、かつてに比べれば格段に少なくなったのではないか。それが「原理の女性化」の顕在効果である。


ラカンの若い友人だったフィリップ・ソレルスは1983年にこう書いた。


世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …


Le monde appartient aux femmes, il n'y a que des femmes, et depuis toujours elles le savent et elles ne le savent pas, elles ne peuvent pas le savoir vraiment, elles le sentent, elles le pressentent, ça s'organise comme ça. Les hommes? Écume, faux dirigeants, faux prêtres, penseurs approximatifs, insectes... Gestionnaires abusés... Muscles trompeurs, énergie substituée, déléguée...(ソレルス『女たち』1983年)


《彼女たちはそれを感じ、それを予感する》とあるが、21世紀の女たちは、かつてよりはるかに強くこれを感じとっている筈である。


この期に及んで、「女は、女は」と問うている女たちというのは、ファルス秩序に囚われたままの神経症的ヒステリー女でしかないように私には見える。


わたしたちは哀れな女たちを知っている、男の幻想に囚われた女たちを。そこにヒステリーの享楽がある。On connaissait la femme pauvre, chère au fantasme masculin・・・Là est la jouissance de l'hystérique. (Le vide et le rien. Par Sonia Chiriaco - 30 avril 2019)


こういった男の幻想に囚われたままのヒステリー女を垣間見ると、時代の移行を感知して「はやく本来の女に戻れ」と言いたくなる。


ヒステリーから女性性[De l'hystérie à la féminité]への道のりに、居残っているものがある。症状、不満、苦痛、過酷な母あるいは不在の母 [mères harcelantes ou absentes]、理想化された父あるいは不能の父 [pères idéalisés ou impuissants]、そして時に、子供をファルスの場に置く享楽[une jouissance qui, à l'occasion, prend à la place du phallus un enfant.](Florencia Farías , Le corps de l'hystérique – Le corps féminin, 2010)



これが、フロイトが『文化の中に居心地の悪さ』で始めた《文化共同体病理学 Pathologie der kulturellen Gemeinschaften 》のラカン派流現状分析のひとつである。


………………



最後に言っておかねばならない、「女性の原理」が必ずしもよいわけではないことを。支配の論理に陥りがちなファルスの詐欺師でもなく、距離のない狂宴に陥りがちな女性の原理でもない第三項が必要なのである。それがラカンが次のように言ったり、柄谷がカントに依拠して構成的理念ではなく統整的理念が必要だとしきりに強調していることである。


人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(Lacan,s23, 13 Avril 1976)





だがまず人は原点としての地階を見つめなければならない。ヘーゲルが「ネガを見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうる」と言ったように、「主体性の穴=女性性」を見すえることが肝要だ。ファルスの幻想に囚われるのは最悪である。